悪女と呼ばれた聖女は、打ちひしがれた聖騎士を拾う

無月公主

第1話【悪女は聖騎士を拾う。】

馬車の細かな揺れにあわせて、フィアリーナ・ヴェルティナージュは長い睫毛を伏せていた。

揺れに合わせて、漆黒の髪が肩をかすかに撫でる。上質な生地のドレスがかすかに擦れ、赤と黒の布が波打つように揺れる。


その姿だけで、彼女が“悪女”と噂される理由が分かるほどだった。

金色の瞳は光を帯びるたびに妖しさを含み、ふとした仕草に艶が滲む。


向かいに座る侍女・ミアは、茶髪を揺らしながらおずおずと声をかけた。


「お嬢様……少し、お疲れではありませんか?」


フィアリーナはゆっくりと首を振り、視線を窓の外へと移した。

街の輪郭が馬車の揺れとともに流れゆき、遠い景色に意識が吸い込まれる。


――その時だった。


ふと、頬に触れるような冷たい気配。


「……雨?」


自分でも驚くほど小さな声だった。

ミアも気になったように窓外を覗き込む。


空は先ほどまで晴れていたはずなのに、いつの間にか雲が重く垂れ込め、ぽつ、ぽつ、と雨粒が馬車の屋根を叩き始める。


けれど、フィアリーナの視線は別の一点に縫い付けられていた。


雨に煙る細い道。

崩れた家々が連なる薄暗い路地――スラム街へ繋がる入口。

その石畳の端に、泥と血にまみれた“何か”が倒れている。


「……ミア。あれを見て。」


声は震えてはいなかったが、胸の奥だけはざわついていた。

“放っておけない”――あの感覚だ。


ミアは、その先を見た瞬間に息を呑んだ。


「っ……お嬢様!? あれ、誰か……!」


「馬車を止めて!」


フィアリーナの声に、御者が驚きながらも手綱を引く。

急停車した衝撃で馬車が揺れ、ミアが肩を震わせた。


「お嬢様! ここは……危険です! 本当に、スラム街の近くは……!」


「危険なのは分かっているわ。でも――」


言い終えるより早く、フィアリーナは馬車の扉を押し開けていた。

雨が一気に吹き込み、漆黒の髪の先がしっとりと濡れてゆく。


「……見捨てるなんてできないでしょう?」


足元に泥が跳ねるのも構わず、フィアリーナは倒れている人物へと駆け寄る。

ミアが悲鳴に近い声で「お嬢様ぁーッ!」と追いすがるが、フィアリーナの足取りは迷いがなかった。


近づくほどに、胸が強く締めつけられる。


(まだ……息がある)


倒れていたのは若い男性だった。

フィアリーナはスカートを気にすることもなく膝をつき、泥にまみれた横顔へ手を伸ばす。


長い雨の跡が頬を伝い、血と混ざって流れている。

金の髪は雨で額に張りつき、呼吸はとても浅い。


(……どうして、こんな姿に)


ミアは震え上がりながら声を上げた。


「ア、アルト・ビクトアル様っ……!?

聖騎士団の……あの……!」


名前を聞いた瞬間、フィアリーナの心臓が跳ねた。


――アルト・ビクトアル。

奇跡の聖属性を持つ若き聖騎士。

貴族令嬢であれば誰もがその名を聞いたことがある存在。


「どうして……あなたが……こんなところで……」


指先でそっと泥を払いながら、フィアリーナは思わず呟いてしまう。

冷たくなった彼の頬に触れた瞬間、雨よりも冷たい現実が突きつけられた。


このままでは――確実に死ぬ。


「だ、だめです、お嬢様……!

聖騎士に手を出したなんて知られたら、教会が……!」


ミアの声は必死だった。

けれどフィアリーナの迷いは一瞬も揺れなかった。


「ミア、手伝って。……命がかかっているのよ。」


顔を上げたその金色の瞳は、噂される“悪女”のそれとは正反対の光を宿していた。

まっすぐで、真摯で、揺るぎない。


二人がかりでアルトの身体を抱え上げると、鎧が軋む音とともにずしりと重さが腕にのしかかった。

フィアリーナは唇を結び、なんとか馬車へと運び込む。


内部は雨の湿気と血の匂いが混じり、空気が重い。

フィアリーナはアルトの上半身を支えながら魔力を集めた。


「……ひどいわ。これじゃ、普通の治癒では追いつかない。」


手のひらから淡い桃色の光があふれ、アルトの身体を包む。


「――ヒール。」


光が傷口をゆっくりとふさぎ始める。

だが深い傷はまだ残っている。


フィアリーナは呼吸を整え、さらに魔力をこめて術式を展開した。


「……ごめんなさい。少し……踏ん張って。」


「――ハイヒール!」


強い光が馬車の中を満たし、ミアが思わず目を覆う。


魔力を吐き出した反動で、フィアリーナの肩が大きく上下した。

額から汗がつう、と伝い落ちる。


「はっ……く……っ……」


その時だった。


「……ん……ここ、は……?」


金の睫毛が震え、青い瞳がゆっくりと開いていく。


(……っ、早いっ!)


フィアリーナは慌てて“悪女の仮面”をかぶった。

濡れた髪を指で払い、艶っぽく唇の端を上げる。


「ふふ……♡ 目が覚めたのね……?」


雨に濡れた髪をゆっくりと指で払う。


だが――アルトの視界はまだ朧げだった。


(……ここは……?)


瞼の裏には、倒壊した遺跡の柱、撤退していく仲間の背中、龍の咆哮が焼きついたまま。

身体のどこが痛いのかさえ分からないほどの疲労が残り、喉は乾いた革のようにひりついていた。


彼はようやく声を搾り出す。


「……あなた、は……?」


かすれた、今にも途切れそうな声。


フィアリーナは肩を揺らし、わざとらしく甘い笑みを浮かべる。


「そんなに警戒しなくてもいいのよ?」


指先で、そっと彼の頬をつつく。

本当は傷の具合を確かめたかっただけなのに、悪女の仮面をつけてしまったせいでやたら艶めいた仕草になる。


「私はヴェルティナージュ公爵家のフィアリーナ。

雨の中で倒れていたあなたを拾ってあげたの。

……生きててよかったわね?」


軽口のつもりの声に、わずかに力が抜ける。

心の奥では――ただ無事でいてくれて安堵していた。


だが、アルトはその言葉よりも、自分の胸の奥に残る温かな“余韻”に気を取られていた。


(……これは……治癒魔法の……?)


「……きず、が……」


触れた腹部の痛みが、先ほどよりはるかに薄い。

あれほど深い損傷が、ここまで回復するはずがない。


「あ、あぁ……! そ、それね!」


フィアリーナの肩がびくりと跳ねた。

さっと悪女スマイルに戻り、


「たまたま……ポーションがあったのよ。ええ、そう。たまたまよ。」


「ポーション……だと?」


アルトの青い瞳が、ゆっくりと見開かれる。

朧げな視界でも、その衝撃は読み取れた。


「一つ……二十万グル……。それを……?」


「えぇ、そうよ?」

フィアリーナは軽く肩をすくめ、悪女らしい口調で返す。


「私の噂くらい聞いたことあるでしょう?

――美形には目がないって、あれ。」


ほんの冗談のつもりだった。

だが、アルトはしばらくフィアリーナを見つめ、かすかに息を漏らした。


「……あなたが……女神に……見えます……」


「…………は?」


フィアリーナの表情が、見事に固まった。

隣でミアが「えぇぇぇぇっ!?」と裏返った声を出す。


「お嬢様! やはりアルト様は頭を打たれたのですわ!

正気ではありません……!!」


「そ、そうよね……!」


フィアリーナは慌てて目線を逸らし、肩を小さく震わせながらも、なんとか“悪女の顔”に戻した。


「アルト様。今は無理をなさらず、お眠りになって?

あとのことは……私たちが責任を持つから。」


声は穏やかだった。

外の雨のリズムよりも柔らかな響きで、アルトの耳に届く。


その瞬間、アルトの身体から力が抜け、青い瞳がゆっくり閉じられた。


「……すぅ……」


深い眠りに落ちるその音が聞こえるようだった。


フィアリーナはほぅ、と胸に手を当てる。

ミアも同じタイミングで「助かったぁ……!」と息を吐き、二人して顔を見合わせた。


「お嬢様……! よかったです……!」


「ほんとよ……早く眠ってくれて。こんな状態じゃ……」


ふと、フィアリーナの眉が寄る。


(……頭を打ったなら、ヒールで治るはず、よね?

じゃあ……あの“女神”発言、本気だったんじゃ……?)


「いやいやいや……ないわよね……!」


自分で自分の頬を軽く叩き、ぶんぶんと首を振る。


馬車がゆっくりと動き始めた。

外の雨音が規則正しく響き、そのリズムが少しずつフィアリーナの心を落ち着かせていく。


向かう先は――ヴェルティナージュ公爵家。

“悪女”と噂される公爵令嬢と、“聖騎士”の若者が、今まさに同じ馬車の中で同じ空気を吸っている。


フィアリーナは眠るアルトを見つめ、かすかに息を呑む。


「……どうしましょうね、ほんとに……」


その呟きは、小さな馬車の中で雨音に溶けていった。

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