λόγος
会話のネットワーク環境への移行。それが人類の出した答えだった。
これは後にコミュニケーション革命と呼ばれるに至ったが、その実現に一役買ったのは、コミュニケーションが苦手な者たちばかりであったという。むしろそんな人たちだからこそ、このシステムが実現したと言っても良い。現実世界では話しかけるのも話しかけられるのも苦手であるため、人よりコミュニケーション能力にコンプレックスを抱えていたような人たちである。そんな彼らが作り出したのが、ネットワーク上での会話である。人と面と向かってはいるが、発声することはなく、意思の疎通はすべてネットワークを通して行われる。傍から見ればサイコキネシスの類いと思われなくもないが、どちらかと言えば「あなたの脳に直接語りかけている」状況に近い。彼らのうちの一人は「阿吽の呼吸」の存在からこのシステムの着想を得たらしい。
仕組みはそこまで単純ではない。
まず気持ちのやり取りに関する知識を押さえる必要がある。
遡って数年前、言葉には気持ちをやり取りするという性質を持つ粒子が含まれていることが分かった。これは「ロゴソン」と呼ばれるゲージ粒子で、心と心の相互作用を媒介する粒子である。他のどの物理的な粒子とも相互作用せず、精神にのみ作用するため、発見はおろか存在が仄めかされるのに数十の国が興り滅ぶまでの時間が経過した。
ロゴソンの不思議なところは、言葉なら声からも手紙からもその存在は検出されることにある。心理物理学の発展によりその検出は比較的容易になった。ロゴソンは特定の物質に作用するわけではなく、言葉という概念そのものに閉じ込められているという見解で落ち着いているが、現在でもその詳しい理屈は分かっていない。
ロゴソンの発見からほどなくして、ロゴソンの単体取り出しが可能となった。ロゴソンは高い指向性を持ち、気持ちを伝えたい相手の心に強く引き寄せられる性質を持つことは知られていたため、このロゴソンの指向性を新たなコミュニケーションの基盤とした。
また、ロゴソンは似通った状態のロゴソンに衝突することで増幅されるという性質を持つ。例えば恨みつらみの文章を延々書き続ければ、全体として訴えかけてくる恨みの感情は飛躍的に増大するというイメージだ。ここから新たなコミュニケーションのプロトタイプが生まれる。
初めは非常に原始的な手法だった。服の繊維に数多の言葉を刻み、体から微量に放射されるロゴソンを増幅し、目的の相手まで伝達するというものである。体から出るロゴソンは、かつて「オーラ」や「雰囲気」と呼ばれていた。それを受け取れば一応意思の疎通は成立するものの、伝達情報の輪郭が曖昧で、例えば一人が大勢に向けて意思を伝達するような状況では依然として実用に至るものにはならずにいた。
さらなる発展の末、生まれたのがネットワーク環境の利用である。実はロゴソンはある程度増幅されると「言葉を揺らす」という物理的作用を促す。この揺れた言葉の振動を電気信号に変換するコンバーターが開発され、間もなくしてロゴソンと電気信号を相互的に変換するシステムが構築されることとなる。そこから先は人間の庭のようなもので、目覚ましい速さでコミュニケーション専用のネットワーク環境が構築されていった。
現在、人間は思考することでコミュニケーションサーバにアクセスし、思考や人格を同期している。どこまで同期させるかは個人で設定可能で、それは自分の感情をどこまで言葉にするかを選択することに似ている。
この一連のシステムは、いわば「コミュニケーションをとりたいけどそれが苦手な人たち」が発明したため、基本煩雑なコミュニケーションの過程を取り除くとともに、非常にロジカルな意思伝達手順を踏むことになる。声による会話は、話しかけることの逡巡から始まり、何を話すか、どう表現するかの自由度が無駄に高すぎることがネックであった。
ネットワーク上では自身の指定した思考や感情を情報として他者に共有する。そのため会話と似ている部分もあるが、言葉でのやり取りではない。そういう意味では言葉よりもダイレクトに意思の疎通が可能である。とはいえ全部を垂れ流すことはプライバシーの観点から推奨されたものではないし、サーバの容量を圧迫するし、何かと不便である。個人個人は鍵を設定し、マクロなロゴソンの動きを抑制することでネットワーク上でも情報伝達は制御されている。意思のやり取りをしたい者については、情報の取得申請を行い、認証された者だけがコミュニケーションをとることができる。鍵を開けるとその人が設定した分だけ情報が脳内に流れ込む仕組みだ。ここまで来るともはや会話とは全く違う何かであるが、互いに鍵を開け放した状態であれば、情報は双方に流れていくことになるため、コミュニケーションの一種とは言える。
この情報のやり取りは、どこからでもできるものではなく、原則ロゴソンの到達範囲において可能なものであることに注意が必要だ。想像しただけではロゴソンは相手に飛んでいくことはできないため、簡単に言えば「声が届く範囲」としておくのが無難だ。気温が低くなるとロゴソンの到達距離が少し短くなると言われている。
もちろん鍵をかけなければ不特定多数に情報が垂れ流されることになり、そういうことも可能ではあるが、周りの人間にとっては電車で叫びまわる変な人のような不快感を抱くことになる。
また、鍵をかけず、かつすべての思考情報を開示した人に関しては、その人の人格がネットワーク上に拡散されるという報告が毎年されている。そうなると肉体としては廃人同然となるため、非常に取り扱いに困る。これに関しては、現在も拡散された人格の回収作業が行われている。以前コミュニケーションサーバ内にあるネットワークの隅っこで、人格の拡散に見舞われた人の口癖の痕跡が見られたという。
ロゴソンは心の相互作用を促すため、至る所に存在している。部屋の中で乱雑に置かれた衣服や、道端に落ちている片方だけの手袋などからもロゴソンは放出されている。これがその所有者のロゴソンなのか、物体そのものから漂うロゴソンなのかは、現在研究が行われているところである。
世界は非常に静かになった。声を発する者もいなくなった。
数秒見つめ合い、クスリと微笑み合うような光景が当たり前の世界となり、聞こえるのは生活音と雑踏と、小鳥のさえずりくらいである。
会話が消え去った理由は懸賞金問題という雑な箱に押し込まれ、数十年もすると会話の方法も知らない世代が国を担い、いつしか会話という概念そのものが忘れ去られていった。
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