宮司選びの御由緒
明治六年庚申三月、宮内省神祇局奏請ニ依リ、当朝凪神宮ハ遠隔山村ニ存シ官庁巡察稀ナキ地帯ニアリ。地方慣例ニ基ク氏子総代選抜制ハ祭祀之要綱ト相心得、官撰補任制度ノ名義ノミ存シ、実際ノ神職任用ハ別記ノ如ク内部選抜ヲ以テ之レヲ継続スヘシ旨ヲ准許ス
天保十二年(1841)頃、渋沢家十一子の末妹として誕生した渋沢みよは、幼きより兄栄一と共に武蔵国多摩郡石田村より朝凪神宮に度々参籠し、時の女宮司が説く神典の深遠なる解釈と、社蔵書庫に収められし諸典籍とに深く心を惹かれたり。 十三歳にして神職文書を暗誦し、十四歳に至り氏子総代会の実証試験〈神典暗誦・典籍解釈・筆跡〉に合格、准禰宜に任ぜらる。
維新動乱の只中、天保十二年生まれとして二十七歳となる慶応四年(1868)春、前代女宮司の病歿に伴ひ、社頭の存続と学識伝承を憂慮せし宮司は、みよの学才と救護実績を高く評価し、内規に依り氏子総代会の同意を得た上で「女宮司」に推挙せり。これは明治政府神社統制令施行前の内部選抜制最後の墨守例として記録に残る。
渋沢家五男八女のうち公記に名を留めるものは兄栄一と姉一人、妹二人のみ。みよは終生未婚を貫き「神に仕ふる身として俗縁を絶つ」誓願を立て、ゆゑに多くの家譜、系図よりその名は忽かに失せたり。然れども社史『朝凪神典序説』には、みよの講話舎設置や書庫公開の記録が今に伝う。
明治二年(1869)以降も朝凪神宮は地理的事情と氏子自治を理由に内部選抜制を維持し、明治三年(1870)の特例許可申請に際しては、みよが女宮司として二年の実績を有せることが最大の申請根拠として挙げられたり。以後、諸典籍の翻刻・講義、女子教育・医療所の設置を柱に、朝凪神宮は「学識ある女性宮司」の伝統を次代へ継承しつつ、地域教化と信仰の中心として栄えを保ちたり。
明治三年の地方奏請により、当宮は内部選抜制継続を口頭で許可され、その後制度整備の遅れを補う形で、明治六年庚申三月に宮内省神祇局より正式な許可状(文書)が下賜された。
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