朝凪神宮縁起

島津羽鶴目-朝凪神宮百合創作結社

朝凪神宮縁起

朝凪神社縁起

序.鎮座

武蔵国の西陲、多摩郡檜原の里は、幾重にも連なる山々に抱かれ、今なお古の面影を濃く留むる地なり。里を流るる秋川の清冽なる水音は、俗世の喧騒を洗い、人心を静寂へと誘ふ。その里の奥深く、万緑に覆はれたる大岳山の山懐、人の踏み入ること稀なる霊域に、朝凪神社は鎮座まします。

鬱蒼たる老杉の木立に守られし参道は、昼尚暗く、苔生したる石段が遥か上へと続く。鳥居を潜りて後、聞こゆるは風の音と鳥の声のみ。千年の風雪に耐えし社殿は、華美なる装飾こそ無けれども、簡素にして侵し難き威厳を湛へ、訪れる者の心を自づから粛然たらしむ。蓋し、平成、令和の世となりては、その御前に額づく者、殆ど絶えたりと雖も、社は今もなお、塵一つなく掃き清められ、神威の衰ふる気配は些かもなし。

一.古伝

この社には、創始より伝はる不可解なる掟あり。そは、神代の昔より今日に至るまで、神職に男子を任ぜしこと一度もあらず、代々必ず女子を以て奉仕せしむる儀なり。その謂れを記せし古文書は既に無く、今や口碑に伝承の断片を留むるのみ。

境内に立つ石碑の一基、その碑面は風化し判読は難きも、伝ふるところに依れば、平安の御代、朝廷にも声望ありし橘の一門、その先祖たる或る高貴なる女性の遺命に依り、一族の有する財産の悉くを当神社に寄進せしと云ふ。かの女性が如何なる遺命を遺せしか、詳らかなることは時の彼方に失せたりと雖も、この寄進が神社の礎を固めしは疑ひ無き事実なり。

二.悲恋

さて、女子相続の掟の淵源を尋ぬるに、人の心を打ち震はす悲恋の物語あり。

むかし、いづれの世にか、この社に仕へし一人の神主ありき。眉目秀麗、心ばへ優しく、神への信仰も篤かりき。或る時、神主は都より流れ来たりし一人の女性と巡り会ふ。二人は身の上を語らふうち、互ひの魂の深き処にて惹かれ合ひ、やがて共に神に仕へ、生涯を添ひ遂げんと、固き姉妹の契りを結びき。その睦びは深く、見る者をして天上の星の交はりの如しと云はしむるほどなりき。

然れども、当時の閉鎖的なる里人らは、二人が嫁がずして共に暮らす様を異端視し、様々なる悪罵を以てこれを謗りぬ。遂には、神の名を騙りて二人を引き裂かんと企て、ある嵐の夜、暴徒と化せし村人らは社に押しかけ、都より来たりし女性を捕らへ、非道なる私刑に処してその命を奪ひたり。

独り遺されし神主の悲嘆、その深さは測り知るべくもなし。友の亡骸を抱きしめ、三日三晩泣き明かしし後、神前にて静かに筆を執り、遺書を認めき。

『我が魂は、永劫に我が妹が傍らに在り。願はくは、この社の神主は未来永劫、女子を以て継がしめ、決して男子を交へること勿れ』と。

書き終ふるや、神主は妹が愛せし短刀を以て、その清き胸を貫き、壮絶なる最期を遂げたり。

三.神託と習俗

二人の死後、里には説明のつかぬ禍事が相次ぎぬ。長雨は田畑を腐らせ、悪疫は次々と村人の命を奪ひ、夜な夜な社の方角より、女性の慟哭の如き声が聞こゆと云ふ。祟りを恐れし村人ら、恐れおののき、社の御祭神に許しを乞ひ、一心に祈りを捧げき。

満願の夜、村長の夢枕に御祭神立ち給ひ、厳かに神託を下しけり。

『汝らの罪は重し。されど、かの不憫なる姉妹の御霊を鎮めんとならば、新たに社を建て、二人を神として篤く祀るべし。然らば、祟りは止み、里に安寧は戻らん』と。

神託を受けし村人らは、直ちに私財を出し合ひ、境内に新しき社殿を造営、悲恋に果てし二人を「和魂の神」として祀り奉りぬ。かくて後、里の禍事は嘘の如く収まり、村には平穏が戻りたり。

これより、朝凪神社の神主は代々女子が継ぎ、その傍らには必ず、古式に則り盃を交はして契りを結びし妹を置くこと、神聖なる習わしとなりぬ。この契りは強ひて結ぶものにあらねど、神主たるべき宿命を負ひし乙女には、あたかも天照らす神々の祝福の如く、魂を分かち合ふべきもう一人の乙女との邂逅が必ず訪るると、語り継がれ侍るなり。

四.近世の護持

この神聖なる習わしは、幾多の時代の変遷を経て、篤く守られき。

就中、先の大東亜戦争の末期、社殿が戦禍に依りて半壊せし折のことなり。時の神主は心労が祟りて病に倒れ、社の存続は風前の灯火と見えき。この窮状を救ひしは、神主の無二の親友なりし一人の女性なりき。彼女は、南方の海に散りし夫の遺産と事業のすべてを、惜しむことなく神社の再建に捧げたり。

『我が友の守りし此の社は、我が命なり。戦地に逝きし夫もまた、日本の神々の安寧をこそ願ひて散華せし筈』と語り、女手一つにて再建の槌音を響かせしその姿は、神をも感ぜしめたると云ふ。

終.兆

かようにして、朝凪神社は千年の静寂と神秘を守り継ぎて今日に至る。

されど今、永きに亘りて揺らぐことの無かりしその聖域に、未だ誰も知らぬ新たなる変化の兆しが、密やかに現れ初めたりと謂ふ――。

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