第6話 猫カフェの癒やしと、嫉妬深きリハビリパートナー
土曜日。駅前の時計台の下。俺は約束の時間の十分前に到着していた。
今日は一段と日差しが強い。初夏の陽気が、俺の緊張を煽っている気がした。
玲奈と付き合っていた頃は、デートの待ち合わせといえば常に遅刻がデフォルトで、俺が三十分以上待つのは当たり前だった。だから、早く来る癖がついている。
「……お待たせ、しました」
ふと、背後から鈴を転がすような声がした。
振り返ると、そこには見知らぬ美少女が立っていた。
白いワンピースに、薄い水色のカーディガンを羽織った少女。前髪は横に流され、カチューシャで止められている。長い睫毛に縁取られた、吸い込まれるように大きな瞳。肌は透き通るように白く、華奢な体つきがワンピースの清楚なラインを際立たせている。
俺は思わず周囲を見回した。景山さんはどこだ? この美少女の背後に隠れているのか?
「……あの、佐藤くん?」
美少女がおずおずと俺の顔を覗き込む。
その仕草。その声。そして、緊張のあまり指先をモジモジさせている癖。
「え……景山さん?」
「は、はい。……景山、茉守です。本人確認、完了しましたか?」
「ええっ!?」
俺は絶句した。学校での「陰キャ」な彼女はどこへ行った? いや、顔立ちは確かに景山さんだ。あの時、一瞬だけ見えた綺麗な瞳。それが今は、何の遮蔽物もなく俺を見つめている。
「……変、ですか? やっぱり、無理してコンタクトにしたのが、失敗だったでしょうか……?」
彼女は不安そうに自分の頬に触れた。
「いや、全然変じゃない! むしろ……すごく、似合ってる。可愛いよ」
俺が正直な感想を伝えると、彼女はみるみるうちに顔を赤くした。耳まで真っ赤になり、パニックになったように視線を泳がせる。
「……オーバーヒート。冷却機能、追いつきません。……佐藤くんの『可愛い』の破壊力が、想定の数倍……」
ブツブツと呟く内容はいつもの彼女だ。それで少し安心した。
「行こうか、猫カフェ」
「は、はいっ! ……戦闘服の着用には成功しましたが、
□□
駅から十五分ほど歩いた、静かな路地裏。レトロな雑居ビルの一角に、目的のお店『猫カフェ・ニャン托』はあった。
店内に入ると、十数匹の猫たちが思い思いの場所でくつろいでいた。落ち着いたジャズが流れる店内は、清潔で居心地がいい。
手を消毒し、スリッパに履き替えて中に入る。
「……作戦開始です」
景山さんはキリッとした表情で、持参した大きなトートバッグから何かを取り出した。
「え、それ何?」
「猫用おやつ『チャオちゅ〜る』の、業務用プレミアムパックです。店員さんの許可は取得済み。追加料金も支払いました」
彼女は手際よくスティック状のおやつを開封した。
「佐藤くん、手を出してください」
「え? うん」
俺が手を出すと、彼女はそのおやつを俺の手のひらに乗せた。すると、どうだろう。店内の猫たちが、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、一斉にこちらを向いた。
「ニャー!」「ニャーン!」
あっという間に、俺の周りは猫だらけになった。膝の上に乗ってくる茶トラ、背中にしがみつく黒猫、足元に擦り寄るマンチカン。まさに猫ハーレムだ。
「うわ、すげぇ! モテモテじゃん!」
「……計算通りです。このおやつは、猫の嗅覚を最大限に刺激する成分配合になっています。これで佐藤くんの幸福度指数はストップ高になるはず……」
茉守は少し離れた場所で、満足げに頷いていた。
俺は至福の時を過ごした。猫の体温、ふわふわの毛並み、ゴロゴロという喉の音。確かに、これは最高のリハビリだ。失恋の痛みなんて、猫の肉球の前では無力に等しい。
「景山さんもおいでよ。一緒に触ろう」
「いえ、私は観測係ですので。……佐藤くんが猫に埋もれる尊い映像を、脳内ハードディスクに保存する作業が……」
彼女はそう言って辞退しようとした。その時だった。
一匹の美しい三毛猫が、俺の胸元にスリスリと顔を押し付けてきた。甘えた声で鳴きながら、俺の顔を舐めようとする。
「お、こいつ積極的だなー。可愛いなー、お前」
喉を撫でてやると、三毛猫は気持ちよさそうに目を細めた。
その様子を見ていた景山さんの表情が、ふと曇った。
「……」
彼女の瞳から、ハイライトが消えた。
「……近い」
「え?」
「その猫……佐藤くんに、近すぎます」
低い声。さっきまでのフワフワした雰囲気とは一変、底冷えするような声色だ。
「え、だって猫だし……」
「猫でも、メスはメスです! ……ああっ! 今、佐藤くんの鎖骨あたりに前足を! そこは
景山さんはギリギリと歯噛みした。自分の作戦で猫を集めたはずなのに、その猫に嫉妬しているらしい。なんて理不尽で、なんて可愛い嫉妬なんだろう。
「景山さん、落ち着いて。猫だから」
「落ち着けません! ……こうなったら、実力行使です」
彼女はズカズカと俺の方へ歩み寄ると、俺の隣にドカッと座り込んだ。そして、三毛猫に対抗するように、俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。
「えっ!?」
「……私だって、撫でられたいです」
「はい?」
「猫ばっかりズルいです。……私も、今日は精一杯おしゃれして、勇気出して来たのに……佐藤くん、猫しか見てない……」
彼女は上目遣いで俺を睨んだ。
至近距離で見ると、コンタクトにした瞳の破壊力は凄まじかった。長い睫毛、潤んだ瞳、少し拗ねたような唇。猫よりも、ずっと可愛い生き物が、すぐ隣にいる。
「……ごめん。景山さんのこと、見てなかったわけじゃないよ」
「……本当ですか?」
「うん。今日の景山さん、すごく可愛いから……直視するのが、恥ずかしかっただけ」
俺が本音を漏らすと、彼女はポカンとした後、ボンッ! と音を立てて爆発した(ように見えた)。
「か、かか、可愛い……!? 直視、恥ずかしい……!? ……情報過多。処理不能。システムダウン……」
彼女は俺の肩に頭を預け、ぐったりとしてしまった。その拍子に、彼女の指先が、俺の膝に乗っていた猫の背中に触れる。俺の手と、彼女の手が、猫の毛並みの上で重なった。
ひやりとした彼女の指先から、トクトクと少し速い脈動が伝わってくる。その鼓動は、猫の温もり以上に強く、俺の掌に響いていた。
「……佐藤くん」
「ん?」
「……このまま、あと十分。……充電、させてください」
彼女の甘えるような声に、俺は頷くことしかできなかった。猫たちの「ニャー」という声と、彼女の鼓動が、心地よく混じり合う。
動物療法、成功。いや、それ以上の効果があったかもしれない。
俺の心は、もう完全に癒やされていた。そして、その空いたスペースに、新しい感情が満ち始めていた。
帰り道。西日が傾き始めた駅前で、景山さんは立ち止まった。鞄からスケジュール帳を取り出し、じっと見つめている。
「……本日のプログラム、終了です。予定通り、十六時に解散……」
彼女はそう口にするが、その足は帰路へ向かおうとしない。スケジュール帳を閉じる手が、微かに震えている。長い睫毛が伏せられ、何かを必死に考えているようだった。
「……まだ、帰りたくないです」
消え入りそうな声だった。
「え?」
「……予定表にはありませんが、緊急ミッションを追加しても……いいでしょうか?」
彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。その瞳には、普段の冷静な分析も計算もない。ただ純粋な、一人の少女としての願いが宿っていた。
「……ゲームセンターに、行きたいです」
「ゲーセン?」
「はい。クレーンゲームで、佐藤くんの分身を獲得するミッションがありますので。……これだけは、今日中に達成しないといけないんです」
そんなミッション、今思いついただろ。俺は笑ってしまった。でも、そんな彼女の不器用な「もっと一緒にいたい」というサインが、何よりも嬉しかった。
こうして、俺たちのリハビリという名の初デートは、甘い余韻を残したまま、第2ラウンドへと突入することになった。
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