第5話 教室のざわめきと、週末特別プログラム

 一夜明けた教室の空気は、昨日とは少し違う種類の重さを孕んでいた。


 昨日の昼休み、旧校舎での一件――俺と景山さん、そして玲奈とのやり取りは、目撃者がいなかったはずだ。

 しかし、壁に耳あり障子に目ありと言うべきか、あるいは玲奈の取り巻きが何かを嗅ぎつけたのか。登校した直後から、俺と景山さんに向けられる視線が増えていた。


「ねえ、聞いた? 佐藤、景山さんと付き合い始めたってマジ?」

「えー、まさか。玲奈と別れてすぐじゃん」

「でも、お弁当作ってきてたらしいよ」

「景山さんが? あの陰キャが?」


 ヒソヒソと交わされる囁き声。俺は溜息をつきながら席につき、鞄を置いた。

 玲奈のグループからの視線は相変わらず冷たいが、クラスの男子たちの視線は「マジかよ」「どんな趣味だよ」といった好奇の目に変わっている。


 隣の席を見る。景山さんは、いつも通り背中を丸めて分厚い文庫本を読んでいた。長い前髪で顔を隠し、周囲の雑音を遮断している……と、思ったが。

 よく見ると、彼女の持つ文庫本が小刻みに震えていた。しかも、逆さまだ。


「(……視線感知システムがアラートを鳴らしている……全方位から観測されている……これが芸能人の気持ち……? いや、むしろ見せ物小屋の珍獣……)」


 聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、早口の独り言が漏れている。全然遮断できていなかった。

 俺は少し可哀想になって、小声で話しかけた。


「……景山さん。大丈夫?」

「ひゃいっ!」


 彼女はビクッと反応し、バサリと本を閉じた。眼鏡越しに、怯えたような瞳がこちらを見る。


「だ、だだ、大丈夫です。……精神防壁メンタルバリアを展開中です。現在、耐久値残り30%ですが」

「結構ギリギリじゃん」

「……佐藤くんこそ。ご迷惑を、かけていませんか? 私のような不審人物とセットで語られるのは、風評被害かと……」


 彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。昨日、玲奈にあれだけ啖呵を切った凛々しい姿とは別人だ。

 でも、俺は知っている。彼女が震えながらも、俺のために勇気を振り絞ってくれたことを。


「迷惑じゃないよ。むしろ、助かってる」

「え?」

「昨日のハンバーグのおかげで、今日も元気だし。周りのことなんか、気にしなくていいよ」


 俺がそう言うと、彼女はポカンと口を開けた。そして、徐々に顔が赤く染まっていく。


「……う、上書き、されました」

「へ?」

「周囲の雑音が、佐藤くんの肯定的な言葉によって、すべて環境音BGMに変換されました。……耐久値、全回復です」


 彼女はふにゃりと笑った。前髪の隙間から覗くその笑顔を見て、俺の胸がまた小さくトクンと鳴る。

 クラスメイトたちが何を言おうと、この笑顔があればどうでもいい。不思議とそう思えた。



         □□



 そして、昼休み。俺たちは示し合わせたように席を立ち、旧校舎の渡り廊下へと向かった。まだ二日目だが、早くもここが俺たちの拠点になりつつあった。


「本日の献立は、オムライスです」


 景山さんが取り出したのは、黄色い卵が美しいオムライスだった。しかも、ケチャップで何かが描かれている。


「……これ、何?」

「……猫、です」

「あ、なるほど。……なんか、怨念のこもった文字かと思った」

「美術の成績は、常に『2』でしたから」


 彼女は少し拗ねたように唇を尖らせた。

 食べてみると、味は相変わらず絶品だった。バターの香りがふわりと広がり、中のチキンライスもしっかりと味が染みている。


「美味しい。毎日こんなの食べてたら、本当に舌が肥えちゃうよ」

「……責任、取りますよ」

「え?」

「あ、いえ! その、食費的な意味で! 一生分の食糧供給契約とか、そういう重たい話ではなく!」


 彼女は慌てて否定したが、耳まで真っ赤だ。俺は笑いながらオムライスを頬張る。

 食べ終わり、一息ついたところで、彼女が改まって俺の方を向いた。


「……佐藤くん。提案があります」

「提案?」

「はい。リハビリプログラムの進捗状況を確認したところ、順調に回復傾向にあります。そこで、次のステップへ移行したいと考えます」


 彼女は鞄から新しいスケッチブックを取り出した。いつの間に作ったのか、表紙には『週末特別プログラム』と書かれている。


「週末?」

「はい。学校という閉鎖空間だけでなく、開放的な外部環境でのリハビリが必要です。……具体的には、セロトニンを分泌させ、心身を癒やす『動物療法アニマルセラピー』を推奨します」


 彼女がめくったページには、可愛らしい猫の写真が貼ってあった。そして、駅前にある『猫カフェ・ニャン托』のチラシ。


「……猫カフェ?」

「はい。猫との触れ合いは、科学的にもストレス軽減効果が立証されています。……決して、私が猫と戯れたいとか、佐藤くんが猫と戯れる姿を見てニヤニヤしたいとか、そういう私利私欲ではありません」


 早口で言い訳をしているが、目が泳いでいる。まあ、確かに猫は好きだし、週末に一人で家にいても玲奈のことを思い出してしまうかもしれない。


「いいよ、行こうか。猫カフェ」

「……! 本当、ですか?」

「うん。俺も久しぶりに猫触りたいし」

「承認、されました……!」


 彼女は小さくガッツポーズをした。そして、スケジュール帳を取り出し、ペンを構える。


「……土曜日の午後、ご都合いかがでしょうか? お昼を済ませてから、ゆっくり合流できればと」

「ああ、空いてるよ」

「では、十三時集合で設定します。……移動時間十五分。入店手続き五分。猫との触れ合いタイム九十分。その後、カフェスペースでの感想戦……完璧な布陣です」


 景山さんは猛烈な勢いでスケジュールを書き込んでいく。感想戦ってなんだよ、と思いつつ、俺は彼女の楽しそうな様子に目を細めた。


 週末に誰かと出かける約束をするなんて、久しぶりだ。玲奈と別れて初めて迎えるこの週末は、本来なら憂鬱なだけの空白になるはずだった。けれど今は、土曜日が少しだけ待ち遠しいと感じていた。


「……楽しみにしてるね、景山さん」

「は、はいっ! ……あの、当日は、その……」

「ん?」

「……私服、ですので。……幻滅、しないでくださいね」


 彼女は自信なさげに呟いた。


「幻滅なんてしないよ。景山さんなら、何でも似合うと思うし」

「……っ! (全バフ、かかりました。……今なら、サバンナのライオンとも素手で戦えます)」


 彼女は顔を真っ赤にして、意味不明な独り言を漏らした。


 こうして、俺たちの週末の予定が決まった。それは名目上は『リハビリ』であり、『動物療法』だ。けれど、誰がどう見ても、それは『デート』の約束だった。

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