第3話 放課後の護衛任務と、震える指先

 放課後を告げるチャイムが鳴った。

 部活のない俺は、玲奈と一緒に帰るのが日課だった。けれど、これからは一人だ。放課後の教室の喧騒が、急によそよそしく感じられる。


 本来なら、喪失感に押しつぶされていてもおかしくない状況だ。けれど、不思議とそこまで気分は重くない。

 昼に食べたあの弁当の余韻が、まだ胃袋のあたりに残っているからかもしれない。人間というのは単純なもので、美味しいものを食べると少しだけ前向きになれるらしい。


 俺は教科書を鞄に詰め込み、席を立った。

 ふと隣を見ると、景山さんも帰り支度を終えたところだった。彼女は分厚い文庫本を大事そうに鞄に入れると、そろりと俺の方を見た。


「……佐藤くん」

「ん? お疲れ、景山さん」

「帰宅、ですか?」

「まあね」

「……そうですか」


 彼女は一度頷くと、眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げた。何かを決意したような、真剣な眼差しだ。


「では、同行します」

「え?」

「帰り道、です。……護衛が必要かと」

「護衛?」


 俺は思わず聞き返した。命を狙われている覚えはない。


「傷心の人間は、判断能力が低下しています。ふらりと知らない道に迷い込んだり、川を見つめて黄昏れたり、怪しい壺を買わされたりするリスクが高いです」

「最後のはないと思うけど……」

「リスクマネジメントです。……私のリハビリプログラムの一環として、自宅最寄りまでの『安全確保』を提案します」


 彼女はまたしても、もっともらしい理屈を並べ立ててきた。けれど、その手は鞄の持ち手をギュッと握りしめていて、指先が白くなっている。


「……迷惑、ですか?」


 上目遣いで尋ねられると、断れるはずもなかった。正直に言えば、一人で帰りたくない気持ちもあったのだ。


「いや、助かるよ。……じゃあ、途中まで一緒に帰ろうか」

「! ……はい。任務、遂行します」


 彼女は小さく敬礼のようなポーズをとった。



         □□



 西日が差し込む住宅街の坂道を、俺たちは並んで歩いていた。いや、正確には並んでいない。


「……あのさ、景山さん」

「はい。異常なし、です」

「なんでそんなに離れて歩くの?」


 彼女は俺の三歩後ろ、斜め右後方を歩いていた。昭和の奥ゆかしい妻でも、そこまで距離は取らないだろう。


「……この距離が、最適解なんです」

「最適解?」

「敵襲があった際、背後をカバーできるのと、あと……」


 彼女は口ごもった。


「あと?」

「……近づきすぎると、心拍数が許容範囲を超えて、不整脈を起こす可能性が」

「えっ、大丈夫!? 病院行く?」

「いえ、精神的な問題なので! ……佐藤くんの背中を見ているくらいが、今の私のキャパシティの限界なんです……」


 彼女は顔を真っ赤にして、俯いてしまった。

 どうやら、俺と並んで歩くのが恥ずかしいらしい。そんなに緊張するなら無理しなきゃいいのにとも思うが、彼女は頑として俺の後ろをついてくる。その必死な様子がおかしくて、俺はふっと肩の力を抜いた。


「そっか。まあ、無理はしないで」


 俺は彼女がついてきやすいように、歩調を少し緩めた。

 沈黙が落ちる。けれど、それは玲奈といた時の気まずい沈黙とは違った。背後から、タタッ、タタッ、という彼女のローファーの音が聞こえる。それが妙に心地よかった。


「(……背中、広い……。シャンプーの匂いする……。今、私は佐藤くんと同じ空間を共有し、同じベクトルに向かって移動している……これぞ相対性理論における愛の証明……)」


 後ろから、またしても早口の独り言が漏れ聞こえてくる。相対性理論まで持ち出されると、ツッコミようがない。

 俺は聞かなかったことにして、視線を上げた。昨日の雨が嘘のような、まだ明るく晴れ渡った空が広がっていた。


 坂道を下りきり、大通りに出ると、駅前の喧騒が近づいてきた。

 駅前の交差点。ここが分かれ道だ。


「じゃあ、俺はこっちだから」

「はい。……本日の護衛任務、これにて完了です」


 彼女はまたしても敬礼ポーズをとった。

 俺は少し笑って、それから思い出したように言った。


「あ、そうだ。明日のハンバーグの件だけど」

「はい! 挽肉は国産牛と豚の黄金比率七対三を用意済みです!」

「いや、材料費とかバカにならないだろ? お金、払うよ」

「いりません! これは、私の趣味なので!」

「でもなぁ……」


 さすがに悪い。弁当を作ってもらって、送ってもらって、金まで出させるのはヒモの才能がありすぎる。


「じゃあ、せめて連絡先、交換しない?」

「へ?」


 彼女が素っ頓狂な声を上げた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、俺を見つめている。


「ほら、何かあった時に連絡取れた方がいいし。明日、急に学校休むことになったら、お弁当無駄になっちゃうだろ?」

「れ、れん、らく、さき……」


 彼女はパクパクと口を開閉させた。


「……ら、LINE、ですか?」

「うん。やってる?」

「あ、アカウントは、存在します。……主に、公式アカウントからのクーポン受信専用機として稼働していますが」

「じゃあ、交換しようよ」


 俺はスマホを取り出し、QRコードを表示させた。彼女は震える手で、鞄の奥底からスマホを取り出した。可愛らしい猫のケースがついている。


「……いいん、でしょうか。私のIDなんかが、佐藤くんの神聖な友達リストに混入しても……」

「神聖ってなんだよ。普通だって」

「……ウイルス扱い、されませんか?」

「しないよ。景山さんは、俺の……リハビリパートナーだろ?」


 俺がそう言うと、彼女はハッとして顔を上げた。西日に照らされたその瞳が、潤んでいるように見えた。


「……はい。パートナー、です」


 彼女はおずおずとスマホをかざした。『ピロン』という電子音が鳴る。


『友だち追加されました:景山茉守』


 アイコンは、黒猫の写真だった。なんとなく、彼女に似ている。


「これでよし。じゃあ、また明日よろしく」

「は、はいっ! ……お疲れ様でした!」


 俺は手を振って歩き出した。背後で、彼女が深々と頭を下げている気配がする。

 角を曲がり、彼女の姿が見えなくなったところで、俺はスマホを確認した。早速、一件の通知が来ていた。


『景山茉守:本日はお疲れ様でした。ハンバーグ、命懸けで焼きます。(猫が土下座しているスタンプ)』


 命懸けって。俺は思わず吹き出した。

 ちょっと重いけど、その重さが、今の空っぽな心には心地よかった。「楽しみにしてる」と返信を打つ。



 ――その頃。

 遥人と別れた交差点で、景山茉守はその場に崩れ落ちていた。


「……はうぅ……」


 顔を両手で覆い、アスファルトに座り込む。通行人が怪訝な顔で見ていくが、今の彼女には関係なかった。


「繋がった……。電子の海で、佐藤くんと、繋がった……!」


 彼女はスマホを胸に抱きしめ、身悶えした。


「(アイコン可愛かった……スタンプのセンス褒められたい……既読ついた……既読つくの早すぎ……好き……)」


 画面に輝く「楽しみにしてる」というたった七文字。それが、彼女にとっては世界を照らす太陽よりも眩しい、明日へのエネルギー源となっていた。

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