第3話 魔獣
「それにしても、これからどうするか……」
俺は老爺から受け取ったナイフを指先で回しながら、薄暗いスラムの路地を歩いていた。
盗んだ魔石を売って得た金は十分すぎるほどある。だが、懐が温まった分、時間だけが余り、足取りは宙ぶらりんだった。
(高値の品を抱え続けるのは危ない。爺さんもあの調子じゃ、しばらく買い取りは期待できないし……)
そんなことを考えながら歩いていると、とある考えが思い浮かんだ。
(そっか、魔獣と戦ってみるのもありだよな。せっかく力が手に入ったんだし、試してみるか)
俺は思いついた途端、口元に薄い笑みを浮かべた。
今まで逃げてばかりで、真っ向から戦ってこなかった。
でも、今は違う。あの正体不明の王冠のおかげで、新たな力を手に入れて、逃げてばかりの人生とおさらばすることが出来る。
「思い立ったが吉日だ。さっそく戦ってみるか」
―――――――――――――――――――――――
スラムの外側は、街の喧騒から切り離された荒野だった。
かつての街道の名残があり、魔獣の出現を前提とした最低限の整備が残っている。
冒険者と商人のための道であり、スラムの住人が踏み入れることはほとんどない。力も守りもない彼らにとって、ここは死地だからだ。
俺も初めて足を踏み入れた。
だからこそ、恐れよりも好奇心が勝っていた。夜になる前に戻らねばならないが、それすら今はどうでもよかった。
「魔獣ってどんな奴なんだ?魔石しか見たことねぇし」
老爺から渡された地図には文字が並んでいたが、俺には読めない。おそらく他人と関わらせるための仕掛けだろう。だが、そんな器用な真似は自分にはできない。
腰のナイフに目をやる。重みは手に馴染み、刃は赤黒い炎を纏っても歪まない。スラムでは手に入らない代物だ。なぜ老爺が持っていたのか――考えるだけ無駄だ。
乾いた音が背後から響いた。振り返ると、黒毛に覆われた四足の魔獣。頭には角、口元からは涎が垂れ、獲物を前にした獣の眼。
「これが……」
俺は一歩退き、ナイフを抜いた。炎を纏った刃が低く唸る。緊張はなく、むしろ笑みが浮かぶ。姑息な手段ではなく、正面から戦えることが嬉しかった。
(俺は案外、好戦的だったらしいな)
魔獣が地を蹴る。
巨体が迫る瞬間、俺は身を捻り、角へ刃を走らせた。炎のナイフは抵抗なく角を断ち切り、獣は咆哮を上げて後退する。けれど、まだ殺意は消えていない。
「まだやる気か。いいじゃねぇか」
炎は鼓動に呼応し、剣の形を成す。俺はそれを高く掲げ、突進してくる獣を迎え撃った。振り下ろした剣は爆音とともに地面を裂き、獣を灰へと変える。焦げた匂いが風に乗り、夕暮れの空へ流れていった。
残骸から青い魔石が転がり出る。冷たく重いそれを拾い上げた瞬間、胸に広がったのは確かな実感だった。
「ははっ。これで、俺は自由になれる!」
懐に魔石をしまい、俺は歩き出す。
焦げた大地を踏みしめるたび、過去の自分が遠ざかっていく。茜色の空の下、彼は初めて未来を選べる存在になったのだ。
―――――――――――――――――――――――
夜
荒野にはアインの戦いの痕跡が残り、焦げた匂いが漂っていた。その匂いを嫌ってか、魔獣たちは近づかず、そこだけぽっかりと空白が生まれている。
――その空白の中心に、ひとつの異物があった。
「ここか……」
黒い外套の人影が立っていた。フードに覆われた顔は影に沈み、性別すら判別できない。ただの旅人ではない。風は裾を揺らさず、空気すらその存在を避けているようだった。
人影は地面に手を置いた。大地が語りかけるかのように、沈黙の中で何かを読み取る。
「……王冠は目覚めたか」
低く漏れた声は風に溶け、驚きと微かな哀惜を含んで消えた。まるで誰かを悼むように。
やがて人影は立ち上がる。未練を滲ませながらも、悩みを断ち切るように前へ進む。
「あれが……彼女の力を継ぐものか」
その言葉には疑念と怒りが混じっていた。大切なものを穢されたかのような冷たい怒り。
呼応するように大地が軋み、ひび割れ、夜の静寂を裂いた。もし誰かがこの光景を見ていたなら、その怒りを星々の怒りと錯覚しただろう。
人影は振り返らず、スラムへと歩みを向ける。
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