第2話 炎

「……何が起きたんだ?」


 少年は荒い息を整えながら、必死に思考を巡らせる。黒い箱に触れた瞬間、王冠が現れ、記憶の奔流と共に体内へと溶け込んだ――そこまでは分かる。だが、それ以上は理解不能だ。


「取り出さないと……どうやって?」


 焦りながら試す。爪を立て、胸を叩き、吐き出そうとする。しかし、何も変わらない。苛立ちが募り、地面に崩れ落ちた。


「あのピンク……何で説明しなかったんだよ!」


 しかし、沈黙だけが答えだった。


「……俺の意志で進めって、どういう意味だよ。アイツは何者なんだ?」


 問いは虚空に消える。返事など何処にもない。


「……もういい。魔石を売りに行くか」


 少年は吐き捨てるように言い、盗んだ魔石のことを思い出す。金にならないことはどうでもいい。頭の中では、さっきの出来事を忘れようとしていた。


 だが――一歩踏み出した瞬間、体の奥底から何かが溢れ出した。

 熱いのに冷たい。痛いのに癒す。矛盾した感覚が全身を駆け巡る。


「チッ……何だ、これ⁉」


 膝が崩れる。黒い箱の呪いとは違う。これは、長年押し込めてきた何かが暴れ出す感触。気を抜けば、身体が爆ぜる――そんな予感が脳を支配する。


「ぐっ……ざけんなよ……こんなところで……!」


 少年は手を前に突き出した。溢れ出すなら、放つしかない。


――次の瞬間、視界が赤黒く染まった。


 血のような炎が手から迸り、空間を焼き尽くす。地面が軋み、空気が悲鳴を上げ、岩は溶けて赤い液体となる。炎が消えた時、そこにあったものは何一つ残っていなかった。


「……は?」


 少年は呆然と立ち尽くす。魔法――そんな言葉では片付けられない。これはもっと根源的で、もっと危険な力だ。

 だが、心に湧き上がったのは恐怖ではなく、歓喜だった。


 スラムで生きる少年にとって、力の有無は生死を分ける。奪う側に回った今も、油断すれば奪われる側に逆戻りする。だが、この力さえあれば――もう誰にも奪われない。


「ははっ……これ、俺がやったのか?」


 焼け焦げた地面を見つめ、少年は笑う。手のひらには、まだ赤黒い炎の残滓が揺れていた。


「はははっ……これでもう、奪われることはねェ!」


 少年は仰向けに倒れ、狂ったように笑い続ける。その手には、自在に操れる小さな炎が灯っていた。


 ――やっと手に入れた力。これさえあれば……。


 がらがら……

 岩壁が崩れ始める。ドーム全体が崩落するにはまだ時間があるが、長居は危険だ。


「……戻るか」


 少年は足早に通路を進む。炎はまだ手の中で脈打ち、鼓動と同調しているかのようだった。


「……地上に戻ったら、何から試すか」


 口では冷静を装う。しかし、足取りは軽く、胸の奥では抑えきれない高揚が渦巻いていた。

 王冠が微かに震える。まるで、少年の歓喜に呼応するように――。


―――――――――――――――――――――――――――――


 外に出ると、男たちの姿はもうなかった。

そこに広がっていたのは、いつも通りの光景――路地裏に倒れた人々が、誰にも気づかれず、誰にも助けられず、ただ静かに横たわっているだけ。


「よし、アイツらはいないな……さて、どうするか。まずは爺さんのところだな」


 アインは呟き、スラムの奥へと歩き出す。腕の炎はすでに消え、見た目はただの少年。しかし胸の奥では、赤黒い炎の余韻がまだ脈打っていた。

 崩れかけた路地を抜けると、埃の舞う薄暗い空間に子供たちがたむろしていた。


「あっ、アイン兄! 何の用?」


一人が駆け寄る。だが、アインは距離を保ち、近づこうとはしない。


「爺さんに用がある。それと――盗みするなら相手を選べ」

「げっ、なんでわかるの……」


 子供は目を逸らす。アインは気にも留めず、淡々と告げる。


「自分で考えろ。それができないなら、盗みはまだ早い」


 その言葉に、子供たちは黙り込み、アインの背中を見送った。

 古びた建物の前に立ち、軋む音とともにドアを押し開ける。中は薄暗く、埃の匂いが鼻を刺す。壁には古い布、棚には薬草と錆びた道具が雑然と並んでいた。


「よっ、昨日ぶりだな、爺さん」

「また盗みか……スラムじゃ仕方ないが、いつか痛い目を見るぞ」

「はいはい、それは俺が一番わかってる」


 奥から現れたのは、鍛えられた体をまだ保つドワーフの老爺。年齢を感じさせる顔に、深い皺と鋭い眼光。アインを見ると、ため息をつき、嫌悪を隠そうともしない。


「まあいい。この魔石を売るから、金を渡してくれ」


 俺はポケットから拳大の黒い魔石を取り出し、無造作に投げた。


「……今回は随分いいものを盗んだな。恨みを買うぞ」

「そんなのいつものことだ。それに――俺は新しい力を手に入れたんだ」


 俺は手のひらに赤黒い炎を灯し、老爺に見せつける。

 その瞬間、老爺の目が細まり、顔が険しく歪んだ。

 ゆっくりと椅子に腰を下ろし、重い声で言う――。


「……その力を、何に使うつもりだ」


 老爺の声には、刃のような殺意が滲んでいた。返答次第では、本当に殺す――そんな気配すらある。だが、俺はもう決めていた。


「何って……自己防衛だよ。ああ、魔獣狩りも悪くないな。盗みよりは安定する」


 肩をすくめ、炎を消す。だが、老爺の視線は鋭さを失わない。


「今の言葉は本当か? 自己防衛だから何をしてもいい――そんな考えは許さんぞ」


 その声は重く、冗談を許さない緊張感を帯びていた。だが、俺には滑稽にしか聞こえない。


「ははっ……爺さん、俺がこの力で殺して奪うと思ってんの? そんなことするわけないだろ」


 指先に炎を灯し、弄びながら続ける。


「そんなことして得られるのは、一瞬の優越感だけ。スラムの連中は逃げるし、貴族どもは兵を送り込んでくる。そうなりゃ、殺し合いの連鎖だ。面倒なだけだ」


 炎が揺れる中、俺の声は冷たく現実的だった。


「力があっても、生き残れるわけじゃない。食料が消えたら? 答えは簡単だ。餓死だけだよ」


 炎を消し、手のひらを見つめる。その瞳には、力への陶酔ではなく、冷徹な理解が宿っていた。


「頭を使えば、強者を倒せる。それが人間だ。スラムで育った俺が、一番よく知ってる。だから、俺はむやみに敵を作らないよ」


 俺は笑った。だが、その笑みは狂気ではなく、自由への渇望に染まっている。


「俺は何にも縛られずに生きたいんだよ。敵は作らない。面倒も避ける。その考えと、この力があれば、やっと俺は自由になれるんだ!」


 老爺は長い沈黙の後、深く息を吐いた。


「……お前はまだ若い。だが、何か大切なものができた瞬間、その願いは砕けるんだぞ」

「そんなわけないだろ。何年、俺がこの在り方を目指していたと思ってんだ」


 俺の声は迷いがなかった。

 老爺は目を細め、何かを飲み込むように視線を落とした。過去の影と未来の不安が、その瞳に揺れていた。


「……なら、これを持て。外の世界を見ろ。スラムだけが世界じゃない」

「は? 俺がここから離れるわけないだろ」

「そんなことはどうでもいい。もう二度とここに来るな」


 老爺はそう言って、俺にナイフと地図のような物を押し付けた。

 俺は眉をひそめ、押し付けられたナイフと地図を見下ろす。


「……何だよ、これ」

「世界を見ろ。考えを変えるにはちょうどいい」


 老爺はそんなことを言ってくるけど、何を言おうとしているのかさっぱりわからない。

 でも……。


「はぁ、この街からは出ていかねぇけど、これはありがたく貰っていくよ。じゃあな」

「ふん、もう戻ってくるなよ」





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