第三十六話 最後

 メアリはウィルに抱き留められ、上を見上げた。ウィルが理知的な両眼でメアリを見ていた。その瞳の奥に、戦場の煙が薄く映って揺れている。彼の鎧は戦塵にまみれていた。乾いた血が黒くこびりついていた。硝煙の匂いがあり、鎧の隙間から漏れる体温があった。


 メアリは目を瞬き、そして静かに唇を動かした。

「ウィル。私は今、真実に気が付いたの。」

 メアリがそう言い、ウィルが一度だけ頷いた。

「どんなことだ。」

 ウィルがそう尋ね、メアリは頷いた。

「私は貴方が欲しいの。」

 メアリはウィルを見て、そう言ってしまっていた。


 ウィルはメアリに唇を寄せた。そうしてキスをした。戦士の口付けは荒々しかった。それでもウィルの両眼は静かだった。

「もう行かなきゃいけない。」

 ウィルがメアリに言葉を贈っていた。

「天使隊を追撃する。天使隊さえいなくなれば、」

 ウィルがメアリに頷き、そして言葉を重ねた。

「俺達を苦しめる者はいなくなる。」

 ウィルはそう言って、微笑もうとしてできないようだった。


 メアリは思い切ってウィルに言葉を伝えた。

「帰ってきてくれますか。」

 ウィルは頷こうとして、できないようだった。

「大勢の、敵の後続隊がいるんだ。」

 そう言って、ウィルが強く、強くメアリを抱きしめた。鎧の縁がメアリの腕に食い込み、鉄の冷たさが骨に触れるようだった。

「必ず戻るよ。」

 ウィルがそう言った。その言葉は真実の約束というより、祈りに似ていた。メアリはその言葉にうなづいた。


 ウィルがメアリから離れ、瀕死のロコを撫でた。緑竜の呼気は弱々しく、地面には血混じりの泡が散っていた。皮膜に覆われた目がゆっくりとウィルを見上げる。ウィルはロコに何かを語った。そうしてロコに騎乗し、再び戦塵の中へ踏み込んでいった。


 ウィルの背が戦塵に消えていく。メアリはその姿を見つめていた。ウィルのその姿を永遠に胸に刻もうとしていた。


 ウィルの姿が消えても、メアリは直立していた。ただひとりの男の帰還を祈っていた。その祈りがもう叶わぬことも、どこかで分かっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る