第三十四話 聖母

 銃声が遠く近くに重なって響いた。手榴弾の弾ける音があった。外からは焦げた火薬の匂いが風に乗って流れ込み、教会の石壁にこもる湿気と混ざって、鼻に重くまとわりついた。石畳が砕ける乾いた響きが床を伝って震え、祭壇の銀器がわずかにカタリと鳴った。


 それから次々と負傷者が教会に運び込まれた。最初に運び込まれたのは臀部を撃たれた天使だった。まだ青年だった。青白い顔には汗がにじみ、血の匂いと鉄の味が混じった呼気がかすかに漏れた。


 メアリは自分が新米の衛生兵であることを自覚していた。新米で。無能で。腰抜けで。それなのに負傷した少年の命を預かっていた。そして今、青年の命を預かっている。ローブを纏ったその青年は錯乱し、せわしく呼吸をしていた。

「三貴神よ。綿のように。透明に、」

 青年は死を悟ったように、祈りと詩編を呟いていた。


 ——三貴神など、デタラメなのに。


 人が偽りの教えに縋っている。あの詩編を歌っている。石床に落ちた血がじわじわと広がり、湿った赤が指先に触れると生温かった。メアリはびくびくと震えながら自分の寝着を裂いて青年の出血部に当てた。自重で血管が止まるように横向きに寝かせた。メアリは運び込まれた青年に呼びかけた。青年がロバのいななきのような音を発した。


 青年に意識の低下が起っている。自分とウィルの嘘によって人が死ぬ。メアリは青年の手を握り、同じ祈りの言葉を唱和した。

「かの地に白い雲が散るという 。綿のように 透明に。それは物語であるという 。私たちであるという。」

 かつてこれほどまで真剣に祈りを捧げたことはなかった。今ではこの詩編の美しさが分かる。人々が求めた愛の光が分かる。メアリは青年を横向きに寝かせ、出血部をできるだけ圧迫しようとした。しかし深く撃ち抜かれた傷は、彼女の力では止めきれなかった。青年の血が布から滲み出し、メアリの指先をぬるりと濡らしていた。


 次の負傷者が現れた。男は人間だった。肩を押さえ、自分の足で教会に足を踏み入れた。

「水をくれ。」

 真鍮の水差しを指さして、男がかすれた声で強く訴えた。メアリはそれを許さなかった。出血が止まっていない。内臓がきちんと動かなければ水なんて吸収できないのだ。


 男はメアリを押しのけて水差しに手を伸ばした。水差しの水を口に含んで数瞬後、男は烈しくむせて倒れ込んだ。


 メアリは彼の肩を伸ばし、両手で動脈を押さえた。温かい血が、どれだけ押さえても指の隙間から滲み出てくる。止まらない。出血を止めることができない。


 力なく、少年が歌っていた。


 ——かの地に白い雲が散るという 。

 綿のように。

 透明に 。


 そう呟いて、アメリンド族の少年の声が途切れた。それが少年の殉教だった。少年は絶望せずに死んでいった。その様子をメアリは、直接、目にした。三貴神を尊ぶ詩編を紡ぎ、そして死んでいった。


 メアリはその時初めて、分かり始めた。自分がここにいる意味は何であるのかを。これまで空虚であった信仰の本当の意味を。メアリは少年の殉教を通して、虚構が最後まで人に寄り添う瞬間を見た。三貴神信仰という虚構が、みんなを繋ぐために必要であったことを見た。


 嘘であっても、誰かの命を最後まで支えるなら、それはもう嘘ではない。それは物語だ。


 無意識に、メアリは少年から引き継ぐようにして詩編を紡いでいた。


 ——かの地に白い雲が散るという

 綿のように。

 透明に 。

 それは物語であるという 。

 私たちであるという。


 少年が今、天を総べる三貴神のもとに向かった。そして今、メアリもこの激戦地で三貴神の許に向かおうとしている。


 メアリは命の限りに男の動脈の止血に努めた。ようやく男の出血が止まり、メアリは男の唇に水で濡らした粗布を垂らした。こうすることで乾きを癒し、内臓への負担を避けることが出来る。


 瞬間、教会の扉が荒々しく押し開けられた。血まみれのローブをまとった天使の男女が、互いに肩を貸し合いながら入ってきた。男は腹を、女は左腕を撃ち抜かれていた。


「司祭様。助けてくれ、妻を。」

 男はそう言うと、膝から崩れ落ちた。


 メアリは頷いて立ち上がった。自分の心臓が跳ねる。それでもメアリは強い表情を保った。死ぬまで聖母の表情を保とうと、メアリは決めていた。


 天使の女性は夫の胸元を震える手で押さえながら、必死に声を絞った。

「お願い、この人を死なせないで。」

 女性がそう言い、メアリは頷いて応えた。なぜなら——。


 なぜなら。自分は三貴神を祀る司祭だからだ。懸命に生き、そして死んでいく者の手を取り、祈りを捧げる司祭だからだ。


 メアリは女の天使の腕から溢れる血を押さえ、裂いた自分の髪帯で縛り上げた。男の腹部の傷に手を当てると、男は呻きながらも妻の名を呼んだ。

「喋らないで。」

 妻が震えながら叫んでいた。


 メアリもまた必死に止血に努めた。弾丸は皮膚層と脂肪層を裂いただけで、重症には至っていない。寄贈された蒸留酒もあり、清潔ではなくても布地がある。この男性を助けることが出来る。


 メアリは司祭としての職務に全霊を傾けていた。虚構が少年を救った。メアリにはそれだけで十分だった。今、この瞬間。メアリの全身全霊が、信仰について語っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る