2186-4 会話劇
「ただいま」
「おかえり、いいホームランだったね。『ジ・アーシアン』の誇る名実況つき。流し打ったぞ逆らわず左へ左へ、ホームラン、案の定ホームラン、宇宙一偉大な女性の今シーズン200歩目は、満月の輝く我らのスタンドへ! じゃーん、おめでとう」
「わっ、なにこれ、ケーキじゃないじゃん。栗饅頭? なんで?」
「タニマチの女将が、これを持って行けって。もっと安打が増えるように、という願いが込められているらしい」
「なんでよ。また騙されてるよ、それ。ノアムって、今日こっちに着いてから、何してたの」
「タニマチで夕飯を取るまでは、ずっと家の掃除だよ。このアパート、もう少し綺麗にできないものかい」
「ああごめん、私、すっごい掃除苦手だからな。朝、すぐ練習に行っちゃうし」
「それは偉いけど、そういうレベルではないよ。埃まみれじゃないか。コロニー居住区の空気をこんなにできるの、すごいと思ったよ」
「むしろ、軌道コロニーの空気清浄機がおせっかいすぎるんだって。この程度で空気が汚いとか言ってたら、地上じゃ呼吸できないじゃん」
「そうだねえ。重力圏ってあんなに空気が汚いとは思ってなかったよ。ようやく慣れてきたけどね。池にいる魚って、放っておいて大丈夫なの」
「カヲルコが見てるから大丈夫でしょ、なんのためにメイドを雇ったの。あと、自分の飼ってる魚を『魚』って呼ばないで。あれは『コイ』。すごい高級なのをプレゼントしてもらったのに、可哀想だよ」
「コイね、loveだね。覚えておくよ」
「違うよ。
「よくそんな単語知ってるね。僕、魚の種類なんか英語でもわかんないよ」
「うん。まあね、その単語はね。ふふ」
*
「新婚旅行って本当にロンドンでいいの。火星のロンドン・コロニーでも、冥王星のニュー・ロンドンでもなくて、重力圏のロンドンだよ」
「火星はしばらく願い下げ。地球以外に行くところがないよ。六大惑星はもう飛び回ってるし、マケマケ・リゾートももう行ったし」
「逆にロンドンは行ったことないの、なんで?」
「あのね、ロンドンと日本って遠いんだよ。コロニー人にとっては同じ距離感かもしれないけど、重力圏の人からしたら真裏だからね。私の友達って、ソウルやタイペイですら行ったことないんじゃないかな。そういう所得水準だよ」
「ソウルとタイペイ? ああ、ハヌル・パクの故郷と、ミンハオ・チャンの故郷か。じゃ、その2都市には早めにコスモネットを配備すべきだね」
「えっ、えっ、なんで。ノアムネット・プロジェクトと旅行に何の関係があるの」
「そりゃ、その方が豊かになるからさ。例えばソウル市民が試合を見て、ハヌル・パクを応援すれば、ハヌルのスポンサー企業がソウルに売り出しにかかるだろう。ミンハオの子供時代の話が有名になれば、グレーゾーン労働者だって減るかもしれない。地域の成長を誘導するのは外界との接続だ。その
「ええっと、わかんない。やっぱりノアムって賢いね。すごい」
「いや、男に混ざってプロ野球選手をやってる方が、よっぽどすごいと思うけど……」
「わかった、じゃあロンドン、あとパリも行こう、文化の都だし、あなたのルーツでしょう。秋になったら、すぐ行こうね」
「冬にならないと無理じゃないかな。シーズンが終わったら、キャプテンとして秋キャンプに参加するんだろう。しかも、今年も間違いなく首位打者じゃないか、コスモスラッガー賞とコスモグラブ賞は固いから、今年も火星の表彰式に行かないといけないよ」
「あっ。そうじゃん。 もうそろそろ呼んでくれなくていいのに。火星、もう飽きた。
「文化産業だけは、なんとか地球が一歩リードしてるからね。六大惑星の人気ランキングで、地球がトップなのは、ご飯、服飾ブランド、映画の3項目だけ! それも、来年『スター・ウォーズ エピソード37』が本当に作られるのか、はなはだ疑問だしね」
「……」
「ニコ、いま、アルヴィンド・メータのことを思い出した?」
「えっ。ううん。いや、うん。なんでわかったの」
「そりゃ、経緯は全部知ってるからね。いつから付き合ってたのか、最後に別れを切り出したのはどちらか。最初のデートがローストビーフだったことも、映画デートが多かったことも、『ジ・アーシアン』は掴んでいて、僕が握りつぶした」
「こわっ。でも、別れるきっかけになったのは、アルじゃなくて、私の暴力事件だよ」
「地球重力圏を侮辱されたんだろう。殴ったのは正しいよ」
「え。すごいこと言うね」
「すごくないさ。周りがなんて言おうと、殴られたら殴り返す。地球人はスマートじゃない、みんな自分の正義を振りかざして喧嘩しながら、ちょっとだけ正しい結末を迎えるんだ」
「あの神父さんに叱られるよ。まあ、そうやって要らないところにも持論を突っ込んでいくの、ノアムらしいね」
「ごめん」
「好きだよ」
「そういえば今、カヲルコに日本語の文字を教わってるんだけど、そのカヲルコの名前のスペルがKA"W”ORUKOなのは、なんで?」
「珍しいよね、私もわかんない。てかノアム、半年でひらがなまで読めるようになったんだ。勉強、好きすぎるでしょ」
「いや、オーサカ=コーベで生活してたら、ローマ字しか知らないと困るじゃない。それに、言語の発音は文字に宿るしね。英語ありきで外国語を勉強しても、上達はしないよ」
「あなた、英語以外に勉強したことあるの」
「主にはラテン語かな。あと、フランス語なら少し話せるよ。祖父母を喜ばせるために、昔少しだけ勉強したんだ。ジャッキーさんとは今でも、フランス語で挨拶する。で、次に日本語を勉強中」
「やっぱすごいな、あんた。消滅危機言語3連発だ。そのままハヌル・パクに『セーブしてくれてカムサハムニダ』とか、セーラ・テレシュコヴァに『ヤー、ボルシチ』とか言うといいよ」
「彼らが現役の間は無理だね。そもそもセーラは亡命ヨーロッパ人なんだから、ボルシチに興味ないでしょう。いかにもドイツ語っぽい、『
「こわっ。私がわかんないわ。あのねあなた、『重力圏にはたくさん言語がある』ってのは、重力圏人はどの言語も話せるってことじゃないのよ。かったるいAI翻訳を挟んで無理に話すのが嫌だから、高等教育まで受けた人は英語で会話するの」
「えっ、そうなの。重力圏の人がみんな英語を話せるっての、初耳なんだけど」
「そりゃそうだよ。人にもよるけど、カヲルコなんか英語が上手だよ、じゃないとメイドが務まらないじゃない。そういうものよ、メイドって」
「そうか、だから日本語の教師を頼んだとき、不思議そうな顔をしてたんだ。あとさ、ときどき日本語には、漢字が混ざってるだろう。あれは無理だ、あの文字体系は、人類には早すぎるよ。さすがに僕も、ミンハオ・チャンの母語だけは、死ぬまで習得できないだろう」
「漢字なんて、私もそんなに書けないよ。だって東アジア行政区って、小学校から英語教育だもん、だいたい親が妊娠中に、漢字辞典をめくって、名前に漢字を当てるんだよ。例えばカヲルコだったら、
「ニコの漢字はどうやって書くの」
「なんかパパが考えすぎちゃって、難しいんだよ。えっとね、
「へえ、たくさんの色を含意してるんだ。綺麗だね。もし子供が生まれたら、日本語の名前を考えたいな」
「……」
「なに、ちょっと、くすぐらないで、照れ隠し?」
「いま、そのまま寝ようとしたでしょ」
「えっ、話のキリが良かったから、寝るつもりだったけど。ニコってこの前、『0.1Gだとベッドは逆につらい』とか言ってなかったっけ」
「ねえ」
「はいはい」
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