2186-3 三人の女
この年、太陽系には二人の魔女がいた。
火星軍のアリス・サクライはニコの1年下、地球軍のセーラ・テレシュコヴァは5年下である。面白いことに、アリスが地球軍泣かせであるのと同様に、セーラは火星軍の天敵として知られていた。
だが、この二人は意外にも、互いに出会ったことがなかった。うちの青い魔女の方がデビューして間もないから、まだ直接に対決したことはないのだという。それがこの夏、とうとうオールスターで激突することになる。
宇宙野球は1リーグしかないから、オールスター・ゲームは3チーム対3チームのエキシビション・マッチだ。地球軍と火星軍、木星軍と土星軍の仲が悪いことに配慮しつつ、うまい具合に戦力が分かれるよう、毎年独自に6球団を二分している。
今年は地球軍から5人の選手が選ばれた。ニコ、マリク、ミンハオに、守護神のハヌル・パク、そして初選出となるセーラ・テレシュコヴァだ。
相手チームはアリス・サクライが先発するらしいと聞いて、血の気の多い土星軍の監督が、面白がってセーラを先発に選んだ。火星の「赤い魔女」と、地球の「青い魔女」の、初のご対面というわけだ。
「対決って言っても、今夜は遊びなんだから、いつも通り投げなよ」
と、セーラに声をかけておいた。この子は厚顔無恥な暴投をする癖に、本人の面の皮はなかなか薄っぺらくて、すぐに青ざめてマウンドでくたばる癖がある。一日限りのお祭りなのだから、ナイーブな焦燥っぷりを全宇宙に放送される方がダメだ。初選出の選手なんか、堂々と打たれるぐらいでちょうどいい。
それが、3回を無安打で完封してしまった。両者の魔女が、だ。
本来ならば2回あたりで降板させなければ、後々に顔を見せるべき投手がつっかえているから、他のチームの迷惑になってしまうのだが、今夜ばかりはそれどころではない。何しろ火星のホーム球場で、赤い魔女と青い魔女がガチンコ対決をしているのだ。球場を訪れたファンが、コスモネットで見ているファンが、200億人ほどの火星人と地球人が、贔屓の魔女のタオルを握り締めていた。「先にヒットを打たれた方が、負け」と。
セーラ・テレシュコヴァというのは、投手にしては極めてメンタルが弱い女だ。普段から、ニコがうまく誘導してやらないと、意地になってストレートでの三振にこだわり始めたり、翔者につられてボークをしたりする。こんなに熱気がこもった敵地の球場で、当世一の投手であるアリス・サクライに連続無安打対決を挑まれたら、悪い制球がさらに乱れて、4回から投げられるかすら怪しかった。一方のアリスの方は、今日はキレッキレだ。第一打席では、ニコは目を慣らすだけで精いっぱいだった。
「もう無理です。ニコさん、一本打って終わらせてくださいよ」
とか、自分が投げる前から、弱気なことを言っている。ニコは打撃用の脛当てを右足に装着しながら、後輩を突き放し気味に励ます。
「じゃあ降りる? ネットで叩かれるよ」
長い溜息が返ってくる。ミンハオが調子に乗って、後ろから若手投手をつんつん指でつつく。
ニコはバットのグリップを握る。もちろん、終わらせるつもりである、と。「赤い魔女」のライバルは、この私だ。
4回表、先頭打者としてアリスに対峙したニコは、突如として思いついたことがあって、最初からバットを寝かせていた。
そもそも今どきバントなど誰もしないのに、翔者なしでバントだ。全チームのファンが困惑してざわめいた。三塁手が仕方なく前進して、公開セーフティーバントを警戒する。
一球目のストレートを、ニコはわざとプッシュバントでファウルゾーンに転がす。案の定、混乱した三塁手が、バントを警戒して本塁にまで飛んできた。
ニコはほくそ笑む。やれやれ、宇宙野球の連中というのは、重力野球に比べてクレバーじゃない。パワーに訴えすぎだ。たとえばキャサリン・マクラッケンのように、狡猾に野球をしなければ。
第二球。バントを阻む意図ならば、アリス・サクライはひとつ、強力な変化球を持っている。ナックルだ。
来た。
刹那、ニコはバント体勢から、普段の構えに戻る。バスターだ。ゾーン低めで震えるナックルを、精密にバットですくいあげた。ニコはその球を待っていた。数年間、ずっと練習してきた。
打球はスタンドに伸びていく、伸びていく。アリスに対する初ホームランだ。公式戦でなかったのは残念だが、かわいい後輩のためなら、ニコは何にでもなれる気がする。完全試合対決に敗れたアリスは、そこで降板した。
なんといっても前半戦の魔女対決と、アリスを打ち破ったニコの一発が、今日の見どころであった。火星軍の球場は4回裏からしらけているが、ヒーローインタビューに登壇したのはセーラ・テレシュコヴァと、ニコ・モチヅキだ。
二人とも女性選手だった。地球軍では何度かあった組み合わせだが、オールスターで女性がマイクを握るのは宇宙初だ。火星軍の本拠地で行われた試合だから、地球軍選手には激しいブーイングが降りかかる。インタビュアーをやっている火星軍の職員が、雰囲気を察して、質問を追加する。
「ニコは火星軍ファンに、すっかり嫌われてるねえ。ライバルのアリス・サクライは苦手かい、それとも得意かい」
「別に私たち、地球って言っても、二人とも重力圏出身だからな。火星もアリスも嫌いじゃないんだけど、こりゃ気まずいですね」
火星人のヒーローインタビューはバラエティショー風だ。ニコはジョークで客をなだめようとしたが、スタンドには届かなかったらしい。またブーイングが大きくなる。一応は拍手の音も聞こえるが、遠征客たちのものだろう。
「ニコは今年結婚したね、おめでとう。君の結婚が宇宙野球に与える影響とは?」
「そうねえ、野球選手と結婚した幸せな一般人が、一人増えました。順位表に影響はありません」
またブーイング。話にならない。その場を取りまとめるために、ニコの横でもじもじしているセーラに、司会は一言だけ求めた。
「それじゃ、後輩のセーラに締めの質問をひとつ、いいかな」
「どうぞ」
「ずばり、君の方は、結婚はいつするんだい?」
ハウリング。ニコだけでなく、ベンチにいる地球軍の皆が、そのとき同じことを思った。――その質問は、まずい。
火星らしいフランクな質問内容にも腹に据えかねるものはあるが、最大の問題は、その矛先がセーラであるということだ。感情の起伏が激しい彼女は、マイクを向けられた経験も少ない。
予想通り、セーラはキレた。それも明後日の方向だ。
「あたしに女の魅力がないって言いたいんですか」
祭典の空気が、一瞬にしてきりきりと冷え込んだ。放送事故を取り繕うかのように、この年のオールスターはお開きになった。
*
「おい、さっきのインタビュアー出せ」
地球訛りの怒号が、火星軍側の男子ロッカーに響き渡った。男性選手の着替え中なのに、ニコ・モチヅキが怒鳴り込んできたのである。火星軍の選手たちは聞こえぬふりをしたが、ニコの剣幕に怯えた金星軍の選手たちが、さっきの火星軍の職員を指差した。
「なんだ、さっきの質問。どういうつもりだ」
ニコはいったん怒りに冒されると、自分を客観的に見られなくなるきらいがあった。怒りに任せて壁を蹴りつけると、地球重力圏の人間は蹴りに腰が入っているものだから、コロニーに隕石でも着弾したかのような轟音が響いた。火星軍の球場スタッフが集まってきたが、たった169センチの女の威圧感で、誰もそばに近寄れなくなっている。地球軍の背番号2は大きかった。
「か、火星軍では、アリス・サクライがお立ち台のとき、ああ尋ねるのが恒例なんです」
「そんなこと聞くのか。アリスはなんて言うんだ」
「『火星軍を辞めたら』と返ってくるのが、お約束です」
「へえ」
ニコは呆れてしまった。彼女はアリス・サクライと話したことがないが、いかにも火星人らしい返答だ。アリスがそう答える限りは、それは結婚したニコへの侮辱ととるべき表現だ。確かに火星軍ファンは面白がるに違いない。火星軌道コロニーは、ライバルは容赦なくからかう、気に入らないならお前もやり返せばいい、という文化を宿しているのだ。だが、それをオールスターでやれば、全ての野球人のプライベートを嘲笑することになると、想像が及ばないのだろうか。
「今度うちの後輩に言ったら、ただじゃおかないから」
ニコは早口に言って、その場を飛び去った。もう少しでも会話したら、その職員に手が出てしまいそうだった。土星軍のレジェンドの顎をひん曲げたニコの拳を、うっかり貧弱な火星人スタッフなどに振るえば、数発で致命傷を与えてしまうだろう。
流血沙汰にならなくてよかった。おそらくニコだけが処罰されていただろうし、謹慎は長期間であった可能性が高い。今は太陽系の大半が、「青い魔女」に同情的であることだけでも、ファンに感謝すべきだ。田舎者の自分が悪いのか。
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