第2話

 ダンジョンの空気は、ひんやりしていて、少し湿っていた。


 足音が、コツ、コツ、と硬い床に吸い込まれていく。

 ヘルメットのライトが照らす範囲は思ったより狭くて、その輪から一歩でも外に出たものは全部、すぐに闇に飲み込まれそうだった。


「……えっと」


 喉がからからだ。

 マイクのスイッチを入れ、スマホの画面をもう一度確かめる。


 赤いランプ。

 タイマー表示。

 視聴者数――「0」。


 うん、知ってた。


「はじめまして。えっと、“シズ”です」


 声が、思った以上に洞窟の中で響いた。

 自分の声じゃないみたいに、少し低く聞こえる。


「あの……今日は、浅いところを、のんびり歩きながら、環境音を拾っていきます。

 もし、もし誰かが見てくれてたら、寝る前とか、作業中とかに流してもらえたら嬉しいです」


 返事はない。

 画面の右上の「0」は、微動だにしない。


 それでも、言葉を続ける。


「えっと、まずは、歩く音から……。ちょっと、足音、意識してみますね」


 足先に力を入れる。

 かかとから強く着地しないよう、つま先でそっと床を踏む。


 コツン、という硬い響きが、さっきより少しだけ柔らかく聞こえた。


 耳の中で、自分の息と、布の擦れる音が大きくなる。

 マイクが、どこまで拾ってしまうのか分からない。


「……ふー」


 深呼吸も、ノイズになっていないだろうか。

 心配になって、少しだけ距離を取るようにマイク位置を調整する。


 慣れない動作に、手のひらが汗ばむ。

 細いケーブルが、カサカサと服に擦れた音を立てた。


 あ、これも入っちゃうかな。


 そんなことを考えながら、通路の奥へと一歩ずつ進んでいく。


     


 浅層の第一階層は、危険度は低いと説明を受けている。

 弱いスライム系モンスターがいるだけで、しっかり講習を受けた人間なら、まず問題ないと。


 頭では分かっていても、「モンスター」という単語を思い出すだけで、胃のあたりがきゅっと縮む。


「……モンスターが出ても、多分、私より向こうのほうがビビるから大丈夫」


 インストラクターのお姉さんは笑って言っていたけど、こっちは笑えない。


 通路の端には、丸っこい岩がごろごろ転がっている。

 ところどころに水たまり。

 天井からは、規則的に水滴が落ちてきていた。


 ぽたり。

 ぽたり。


 その音に、私は思わず足を止める。


「……これ、ちょっとマイク近づけてみようかな」


 通路の壁際にしゃがみ込み、水たまりのそばにマイクをそっと近づける。

 ぽちゃん、と落ちた雫の音が、イヤホン越しにくっきり聞こえた。


「おお……」


 ちょっと感動する。

 たぶん、画面の向こうに誰もいなくても、この音は存在している。


 ぽたり。ぽたり。


「今、天井の水滴の音を拾ってます。……どうですかね、うるさくないといいんですけど」


 思わず口に出してから、「誰に?」と自分でツッコミを入れたくなる。

 視聴者数は、やっぱり「0」のままだ。


 でも、どうしてだろう。

 さっきまで、誰も見ていないと思うと話すのが恥ずかしくてたまらなかったのに、

 実際に一人で喋り続けていると、その孤独さが少しだけ心地良くなってくる。


 誰にも邪魔されない。

 誰からも急かされない。

 今、この空間で鳴っている音と、自分の呼吸だけ。


 会社で、こんな静かな時間を最後に味わったのはいつだっただろう。


     


 通路が少し開けた場所に出た。

 天井が高くなり、岩の壁が広がる。

 遠くの方で、わずかに風の音がしていた。


「ここ、ちょっと……音が違いますね」


 耳を澄ませる。

 通路の反響とは違う、ふわっとした空気の揺れが頬を撫でた。


 マイクを上に向けてみる。

 風の抜ける音が、かすかに鳴った。


 サーッ……という、やわらかなノイズ。

 エアコンとは違う、自然の風の音だ。


「……いいな、これ」


 思わず笑ってしまう。

 誰も答えないけれど、誰かに聞かせたい気持ちだけは膨らんでいく。


「今、ちょっと広い場所に出ました。風が通ってて……なんか、落ち着きますね。

 家だと、こういう音ってなかなか聞こえないから……」


 言葉が自分に跳ね返ってくる。

 そうだ、私の部屋には、いつもキーボードを叩く音と、通知音と、誰かの怒鳴り声しかなかった。


 静かなはずの夜も、頭の中はずっと騒がしかった。


 足もとに視線を落とすと、小さな石が散らばっている。

 歩くたびに、ジャリッと音を立てる。


「あ、これも、ちょっと……」


 マイクを足元に向けて、ゆっくりと歩く。

 ジャリ、ジャッ。

 低い反響音が、微妙にリズムを刻んでいる。


「浅い階層なので、危険はほとんどないはずです。

 でも、一応、周りを見ながら……」


 言いつつ、視線は何度もスマホに戻る。

 数字の「0」は、相変わらず変わらない。


「……まあ、そうだよね」


 自嘲気味に笑う。

 初配信で、宣伝も何もしていないチャンネルに、誰かがたまたま辿り着く方が奇跡だ。


 でも、自分が視聴者だったときのことを思い出す。


 焚き火ASMRを見つけたとき。

 あれも、偶然だった。


 あの配信者も、最初はきっと、こんな数字の「0」を眺めていたのだろうか。


 もしそうなら、私が最初の一人になれたことを、誇りに思うべきなのかもしれない。


 だったら、私も、いつか誰かにそんなふうに思ってもらえる配信をしたい。


 数字じゃなくて、画面の向こうの「一人」のことを、ちゃんと考えられる配信者に。


     


 しばらく歩き続けると、壁際に小さな凹みがあるのを見つけた。

 自然にできた窪みのようで、腰を下ろすのにちょうど良い高さだ。


「……よいしょ」


 そこに座り、背中を岩に預ける。

 ひんやりとした冷たさが、じわりと伝わってきた。


「ここで、少しだけ、じっとしてみますね。

 動かないと、足音も服の擦れる音もしないから……他の音が、よく聞こえるかも。

 ……一緒に、深呼吸しましょう。吸って、吐いて……」


 誰もいない画面に向かって、自然とそう言葉が出ていた。


 自分自身に向けている言葉でもある。

 さっきから、胸の鼓動がやたらとうるさい。


 吸う。

 吐く。


 そのたび、肺の中に冷たい空気が入ってきて、心拍数が少しずつ落ち着いていく。


 イヤホンの向こうでは、水滴の音と、風の音と、遠くの方で岩が軋むような低い音が混ざっていた。


 不思議と、怖くはなかった。

 むしろ、この音の中に溶けてしまいたいと思う。


「……こういう場所が、家の近くにあったらいいのにな」


 思わずこぼれた本音に、自分で苦笑する。


 いや、家の近くにダンジョンがあったらそれはそれで恐ろしい。

 ニュースで見た、出現初期の混乱のことを思い出して、首を左右に振る。


 ふと、スマホ画面の隅で、小さな数字が変わった。


「……あれ?」


 視聴者数「0」が、「1」になっている。


 心臓が一気に跳ね上がった。


「え、あ、えっと……」


 言葉が喉の途中でひっかかる。

 今まで、誰もいないつもりで喋っていたのに、急に教室の扉が開いて誰かが入ってきたみたいな気分だ。


 落ち着いて、落ち着いて。


 深呼吸をもう一度。

 今度は、さっきよりうまくできなかった。


「えー……もし、もし聞こえていたら、こんばんは。

 今、浅い階層で、環境音を拾いながら歩いてます。

 えっと、初配信なので、いろいろ不手際があったらごめんなさい」


 誰も何も言わない。

 でも、「1」という数字が消えないということは、その人はまだここにいる。


 画面の下に、小さな吹き出しアイコンがぴこりと光った。


 コメント、だ。


「……っ」


 喉がきゅっと締まる。

 怖い。

 何を書くのか、怖い。

 初めてのコメントが罵倒だったらと思うと、心臓が痛い。


 でも、指先が勝手にコメント欄をスクロールする。


 そこには、たった一行だけ文字が並んでいた。


《この音、落ち着きます》


 たった、それだけ。


 罵倒でもないし、アドバイスでもない。

 ただの、感想。


 なのに、その一文を読んだ瞬間、視界がじん、と滲んだ。


「……よ、よかった……」


 声が震える。

 マイクに乗ってしまったかもしれない。


「ありがとうございます。えっと……そう言ってもらえると、すごく嬉しいです。

 まだ慣れてなくて、雑音も多いと思うんですけど……ゆっくりしていってください」


 うまく喋れている自信はない。

 でも、「ありがとうございます」という言葉だけは、何度も口の中で転がしてから吐き出した。


 コメント欄に、もう一行。


《寝る前にちょうどいいです》


 画面の向こうに、本当に誰かがいる。

 この音を聞きながら、眠ろうとしている人がいる。


 知らない誰かの夜に、私の拾った音が入り込んでいる。


 それが、信じられないくらい嬉しかった。


「じゃあ……少し、静かにしますね。

 しばらく、歩かずに、このまま風と水の音だけ流します。

 ……おやすみなさい、って言うにはまだ早いかもしれないですけど」


 照れくさくて、最後はごにょごにょと濁してしまう。


 それでも、視聴者数の「1」は、ずっとそこにあった。


 私は、岩にもたれたまま、目を閉じる。

 ヘルメットのライトを少しだけ落とすと、周囲の暗さが増した。


 でも、不思議と怖くなかった。

 視界が暗くなった代わりに、音がくっきりと浮かび上がる。


 ぽたり。

 さあ……。

 遠くで、何かが小さく鳴る。


 会社の中では、どれだけ耳を澄ませても聞こえなかった音たちだ。


 その全部を、誰かと共有できている。


 そう思うだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 画面の中の「1」は、小さな火のように見えた。

 今にも消えそうなくらい頼りないのに、不思議と心強い光。


 ――これが、始まりなのかもしれない。


 私はマイクに口を近づけ、息を殺すように囁いた。


「……聞いてくれて、ありがとうございます」


 コメント欄が、ほんの一瞬、もう一度だけ点滅した。

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