社畜OL、静かなダンジョンでASMR配信はじめました
新条優里
第1話
定時なんて、とうの昔に死語になった。
「三浦さん、その資料まだ?」
「すみません、今すぐ──」
「“今すぐ”ってさっきから聞いてるよ? で、いつ終わるの?」
モニターの光に焼かれたみたいな顔で、課長がこちらを見下ろしている。
時計は、もう二十三時を回っていた。
「今日中です。必ず」
本当は、今日中に終わる保証なんてどこにもない。
でも、そう言うしかない。言わないと、ため息のあとに飛んでくる「やる気ある?」が怖い。
チャットツールの未読が、右下で赤く点滅する。
《すみません、三浦さん。クライアントから仕様変更きました》
《この画面、やっぱり全部作り直しで……》
思わず笑いそうになった。
さっきまで直していた画面たちが、デスクトップの向こうで一瞬にしてゴミになる光景が頭に浮かぶ。
ああ、まただ。
「おーい、三浦ぁ。固まってないで手動かして?」
「……はい」
指先が勝手にキーボードを叩く。
目の奥がずっと熱い。寝不足で乾ききったコンタクトが、まぶたに貼りつくみたいに重い。
いつからだろう。
自分の頑張りが、全部「もっとやれ」の材料にしかならなくなったのは。
頑張れば頑張るほど、仕事は増える。
遅くまで残るほど、「あいつなら頼めばやってくれる」という評価だけが厚くなる。
代わりは誰でもいいはずなのに、〝便利な人〟はいつも同じだ。
「ねえ三浦、その案件さー、君が一番流れわかってるでしょ? 頼むわ」
そう言われるたびに、「必要とされてるんだ」と思った時期もあった。
でも、その必要って、いつも私が壊れない前提だ。
モニターの光が、だんだん白く滲んでいく。
画面の文字がぼやけて、視界の端がぐにゃりと曲がった。
あれ? と、思ったときにはもう遅かった。
キーボードに落ちていく自分の額の感触を、私は覚えていない。
「……——さん。三浦さん、分かりますか?」
ぼやけた輪郭の中で、白い天井が揺れていた。
鼻の奥に薬品の匂い。隣のカーテン越しに、誰かのいびきとテレビの音。
病院、だ。
「ここ、どこですか……?」
「救急で運ばれました。会社で倒れたそうです」
若い医師がカルテをめくりながら、淡々と言う。
素肌に当たるシーツがひんやりしていて、スーツのジャケットがないことに気づく。
「過労と脱水、それから……かなり強いストレス反応が出てます。
このままの生活を続けるのは、さすがに危ないですよ」
危ない。
そんなこと、とっくに分かってた。
でも、やめてどうするの? って、ずっと自分に言い聞かせてきたのも私だ。
「しばらく休職するか、この機会に仕事を見直すか……。
正直に言えば、“頑張りすぎ”ですね」
医師の言葉は優しかった。
優しい声で「限界です」と宣告されるのは、どうしようもなく惨めだ。
枕元のスマホが震えた。会社のグループチャットから、着信の通知が連続で来ている。
《資料は?》
《顧客への説明どうなってる?》
《急に倒れるとか、社会人として自覚ある?》
まだ、私は役に立たなきゃいけないらしい。
この身体が病院のベッドの上にあっても。
「……すみません。電源、切ってもいいですか」
「ぜひ切ってください」
医師は、少し笑ってそう言った。
代わりに「睡眠導入剤を出しておきますね」と、やわらかい字で処方箋に書き込む。
スマホの画面を見つめる。
震える指で、電源マークを長押ししてみる。
黒い画面になった瞬間、胸の奥で何かがぷつん、と切れた気がした。
それからの数日は、ほとんど記憶がない。
眠って、起きて、病院食を少し食べて、また眠る。
ぼんやりニュースを眺めているうちに、一週間が過ぎた。
退院の日、会社から届いたのは見慣れた封筒ではなく、PDFの一枚だった。
《今後の働き方について面談をしたい》
《長期の戦力として期待しているが、今回のような事態は困る》
《復帰の意思がない場合は、早めに教えてほしい》
どの文も、私のことを心配しているようでいて、
結局は「現場の穴をどう埋めるか」の話だった。
私がどう感じているかなんて、そこには一行もない。
――ああ。もう、いいや。
ノートPCを開いて、退職届のテンプレを探す。
薄いキーボードの上で、指が思ったより滑らかに動いた。
「退職理由……一身上の都合、でいいか」
本当は、「命を守るため」と書きたかった。
でも、そんな正直さを読み取る人は、あの会社にはいないだろう。
送信ボタンを押した瞬間、肩から力が抜けた。
恐怖と安堵と空虚さが、一度に押し寄せてきて、しばらく動けなくなる。
仕事が、なくなった。
縛りも、なくなった。
でも同時に、「私には何の価値もない」という声が、頭の奥でずっと鳴っていた。
しばらくは、実家に戻ることになった。
都心のワンルームを解約し、最低限の荷物だけ段ボールに詰める。
「よく頑張ったじゃない。生きて帰ってきただけで十分よ」
母の言葉に、涙腺のダムがまた決壊しそうになる。
畳の匂い。埃っぽい本棚。古い扇風機。
高校まで使っていたベッドに横たわると、天井の木目がやけに鮮やかに見えた。
「……眠れない」
退職しても、夜になると目が冴える。
頭の中で、未読メールや修正依頼がぐるぐる回る。
スマホだけは、電源を入れ直した。
もう、会社からの連絡は来ない。
代わりに、広告とおすすめ動画が、空白を埋めるように画面を埋め尽くす。
適当にスクロールしていると、見慣れないサムネイルが目に入った。
黒い洞窟の中、ぼんやりと揺れる橙色の光。
タイトルにはこう書かれている。
《【環境音】ダンジョンの焚き火ASMR【睡眠用・作業用】》
「……ダンジョン?」
そういえば、ニュースではよく見る。
十年前、世界中に突然出現した地下迷宮。
日本にもいくつかあり、国家管理のもと、一部は民間企業に開放されている。
モンスター、危険区域、高額の探索報酬。
なんとなく、ゲームの中だけの話みたいで、ろくに興味を持ったことがなかった。
でも「睡眠用」という文字に、指が吸い寄せられる。
タップすると、画面いっぱいに暗い洞窟が広がった。
湿った岩肌。天井から滴る水。
画面の隅で、小さな焚き火がぱちぱちと音を立てている。
誰の声も入らない。
BGMもない。
ただ、焚き火と、ときどき遠くで響く水音だけ。
耳にイヤホンを差し込んだ途端、世界のノイズがすっと消えた。
息を吸う。吐く。
胸の奥のざわざわが、焚き火の音に合わせて小さくなっていく気がした。
「……なにこれ。すご……」
いつの間にか、目の奥の痛みが和らいでいる。
頭の中のタスク表も、上司の声も、遠くへ追いやられていく。
コメント欄をスクロールしてみると、同じようなことを書いている人がたくさんいた。
《残業続きで眠れなかったけど、これ流しながら寝たら久しぶりに朝まで眠れました》
《上司の顔がちらつくとき、焚き火見て気持ち落ち着かせてます》
《ここが心のセーブポイント》
心の、セーブポイント。
その言葉に、胸がじんわり熱くなった。
私には、そういう場所がなかった。
会社も家も、どこか「仕事」と直結していて、
完全に自分を預けられる場所なんて、どこにもなかった。
でもこの配信者は、それを作っている。
一人で洞窟の奥に座って、火を絶やさないように見張りながら、
見知らぬ誰かの「おやすみ」を守っている。
すごいな、と素直に思った。
こういうの、私も……できたらいいのに。
瞬間的に浮かんだその願望を、反射的に打ち消す。
無理だよ。
私はダンジョンなんて行ったことないし、そもそも運動神経もないし、怖いし。
でも、別の声が囁く。
――会社よりは、ましなんじゃない?
危険と安全の比較がおかしいのは分かっている。
でも、「あのオフィスに戻ること」と「未知のダンジョンに行くこと」を天秤にかけたとき、
私の中では、意外なほど後者のほうが軽かった。
配信画面の片隅に、【チャンネル登録】のボタンが光っている。
その下には、小さな文字で「誰でも探索者になれる時代へ」という煽り文句。
リンクを辿ると、「初心者向けダンジョン講習会」の申し込みページが開いた。
《未経験者歓迎/軽装OK/安全な低階層のみ》
「……軽装って、なにが軽装なんだろ」
ぽつりと呟きながらも、スクロールする手は止まらない。
必要なのは、体力テストと簡単な筆記試験、それから健康診断。
合格すれば、「公認探索者」として登録されるらしい。
もちろん、講習費用は安くはない。
でも、会社を辞める前に貯め込んだ残業代は、まだ手付かずで残っていた。
紙とペンを取り出す。
頭の中に浮かんだ計算式を書き出してみる。
講習費用。装備代。移動費。数ヶ月分の生活費。
……ギリギリ、いける。
ギリギリでも、いける。
いけるのなら、行ってみたい。
気づいたら、申込フォームの名前欄に「三浦静」と入力していた。
最後の「送信」を押す指が、少し震える。
「もし落ちたら、そのとき考えよう」
会社を辞めたときより、ずっと小さな決断だ。
そう自分に言い聞かせて、送信ボタンをタップした。
「はーい、それじゃあ本日の講習はここまで。みなさん、お疲れさまでした!」
現地に来てみれば、拍子抜けするほど明るい雰囲気だった。
講習会場は、地方都市にある大規模ダンジョンの地上施設。
スポーツジムとアウトドアショップが混ざったような建物の中に、
講義室や簡易トレーニング設備、模擬ダンジョンブースが整っている。
インストラクターの女性は、日焼けした肌にポニーテールがよく似合う、元気なお姉さんだった。
「探索は自己責任、じゃなくて、“準備と判断の結果”です。
無謀と勇気は違うからね。今日やったこと、忘れないで!」
そう言って、参加者一人ひとりと目を合わせていく。
私の前に立ったとき、彼女はほんの少しだけ眉を下げた。
「三浦さん、最初は本当に体力なかったけど……最後のほう、すごく動き良くなってましたよ」
「え、あ、ありがとうございます……」
「心拍数の推移も悪くないし、浅層専門でやるなら、まったく問題ないと思います。
怖くなったら、ちゃんと戻ること。それを守れれば、ダンジョンは意外と優しいですよ」
意外と、優しい。
そう言われたダンジョンは、地上から見ればただの巨大な穴だった。
でも、その奥に広がる世界が、会社より優しいとしたら──
そんなの、ずるい。
講習後の簡単な試験と健康診断を終え、数日後。
メールボックスに一通の通知が届く。
《公認低階層探索者としての登録が完了しました》
添付されていた認定証を見つめる。
シンプルなカードに、名前とID番号が印刷されているだけなのに、
妙に胸がざわざわした。
私は、もう「会社員」じゃない。
代わりに、「探索者」になった。
肩書きが変わったからといって、すぐに何かが上手くいくわけじゃない。
でも、少なくとも――自分で選んだ肩書きだ。
そして、今日。
私は、生まれて初めて、本物のダンジョンの入口に立っている。
コンクリートで固められた巨大な坑道。
出入り口にはゲートが設置され、認証カードをかざすと機械的な音が鳴った。
《ID認証完了。三浦静様、浅層エリアのご利用ですね。お気をつけて》
係員のお兄さんがにこやかに頭を下げる。
背中のリュックの中で、安物のマイクと、小型カメラと、モバイルバッテリーが揺れた。
「……本当に、やるんだなあ」
独り言が、ヘルメットの内側でこもる。
心臓が、さっきからずっと早い。
怖い。正直、めちゃくちゃ怖い。
でも、あの夜、焚き火ASMRでやっと眠れたときの感覚を思い出すと、
足が前に出る。
私も、あんなふうに誰かを楽にできるかもしれない。
その「かもしれない」が、怖さより少しだけ大きかった。
ダンジョンに入る前に、スマホを取り出す。
配信アプリを起動し、新規チャンネルの画面を開いた。
チャンネル名:Shizu_Dungeon_ASMR
配信タイトル:【初配信】浅層を歩くだけの無理しないダンジョン環境音
「……タイトル、長いかな」
まあいいや、と苦笑する。
視聴者なんて、どうせ来ない。
誰もいなければ、ただの録音になるだけだ。
それでも、やってみたい。
画面には、【配信開始】の赤いボタンが浮かんでいる。
指先をそっと乗せる。
深呼吸をひとつ。
「三浦静、二十八歳。元社畜。現・初心者探索者。
――いきます」
そう小さく呟いて、私はボタンを押した。
カメラの向こうに、まだ誰もいない。
でも、「心のセーブポイント」の火を、とりあえず一本、灯してみる。
目の前には、薄暗い通路が伸びている。
会社をやめたとき、先のことなんて何も見えなかった。
今も、先は真っ暗だ。
けれど、その暗闇の中を、自分の足で歩き始めたという事実だけは、確かだ。
ヘルメットのライトが、少しだけその先を照らす。
私は、一歩目を踏み出した。
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