第26話
捕らえられたリリアが、静かな裏路地でただ泣きじゃくる。侍女は全てを告白し、物証である毒の小瓶が、冷たい光を放っていた。
ゼノンは、部下の一人であるレオに短く命じた。
「レオ、王宮へ。エリアス殿下を、直ちにお連れしろ」
「はっ!」
「伝える内容は、『カフェ・ミュレットに関する一件、解決』。それだけでいい」
レオは、事の重大さを理解し、夜の闇へと疾風のように駆けていった。
一時間後。
エリアス王子が、数人の近衛を伴って裏路地に到着した。その顔には、アミュレットが断罪されるのをようやく見届けられるという、歪んだ期待の色が浮かんでいる。
だが、彼が目にしたのは、想像とは全く異なる光景だった。
地面に泣き崩れる、婚約者のリリア。
その手元に置かれた、毒の小瓶。
そして、彼女を取り囲むように立つ、ゼノンと、その部下の騎士たち。
「……どういうことだ、これは」
エリアスの声が、困惑に震えた。
「殿下。ご覧の通りです」
ゼノンが、抑揚のない声で答える。
「このカフェへの一連の妨害工作、および、毒物混入未遂事件の犯人が、捕まりました」
「犯人……? 馬鹿な! リリアが、なぜ……」
「エリアス様! 違います、罠ですわ! あの女が、わたくしを陥れるために仕組んだ罠なのです!」
リリアが、最後の望みを託すように、エリアスに叫んだ。
しかし、その嘘を打ち砕くように、ゼノンの後ろから、震える侍女が顔を上げた。
「……嘘です、殿下。全ては、リリア様がお一人で計画されたことです」
侍女は、リリアがアミュレットをどれほど憎んでいたか、王子にどのような嘘を吹き込んだか、そして毒を手に入れ、配達の少年に何をさせようとしたか、その全てを涙ながらに告白した。
エリアスは、その場に立ち尽くす。
リリアの嘘。アミュレットへの嫉妬。そして、その嘘に、いとも容易く踊らされていた、自分自身の愚かさ。
パズルのピースが、一つ一つ嵌っていく。アミュレットが自分を侮辱したという話も、騎士団が謀反を企んでいるという話も、全てが、この少女の作り上げた幻だったのだ。
彼は、自分が正義の鉄槌を下しているつもりで、実際は、嫉妬に狂った少女の私怨に加担していただけの、道化に過ぎなかった。
エリアスは、ゆっくりと顔を上げた。
その視線の先にいたのは、ランプの光の中に静かに佇む、アミュレットだった。彼女は、この騒動の中心にいながら、ただ黙って、全てを見ていた。
その動じない瞳は、エリアスの心の奥底まで見透かしているようだった。
エリアスは、アミュレットの前に、ふらふらと歩み寄る。
そして、彼が生まれてから、一度もしたことのないであろうことを、した。
深く、深く、頭を下げたのだ。
「……アミュレット」
か細い声が、彼の口から漏れた。
「いや……クライン公爵令嬢。私が……全て、間違っていた」
王子のプライドも、見栄も、今はもうない。そこにあったのは、自らの愚かさをようやく認めた、一人の男の、心からの謝罪だった。
「君に……そして、君を信じる者たちに、取り返しのつかないことをした。……本当に、すまなかった」
店内にいた騎士たちも、近所の人々も、固唾を飲んでその光景を見守っていた。
アミュレットは、頭を下げ続ける元婚約者を、しばらく無言で見下ろしていた。
やがて、彼女は静かに口を開く。
「……結構です、殿下」
その声には、喜びも、怒りも、憐れみもなかった。
「ただ、一つだけ。今後は、ご自身の目で、耳で、真実が何であるかをお確かめくださいませ。誰かの言葉を鵜呑みにするのではなく」
それは、許しではなかった。しかし、拒絶でもない。ただ、事実だけを告げる彼女らしい言葉だった。
エリアスは、その言葉の重さに顔を上げることができなかった。
彼は最後に一度だけ、リリアの方を振り返った。その瞳には、もはや何の感情も浮かんでいない。
「リリア・ブラウン。王太子妃の名を騙り王家と騎士団を欺き、殺人未遂の罪を犯したこと断罪する」
彼の声は、冷たく響いた。
「本来ならば死罪だが、ブラウン男爵家の功績に免じ、終生、北の修道院にて神に仕えることを命じる」
それが、彼女の迎えた結末だった。
リリアは、騎士たちに両脇を抱えられ連行されていく。その顔には、もう何の表情もなかった。
こうして、カフェ・ミュレットを襲った一連の騒動は静かに、しかし確実に幕を下ろしたのだった。
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