第25話

配達の少年が泣きながら帰った後、カフェ・ミュレットには重い沈黙が落ちた。


ゼノンは、毒の入った牛乳瓶を前に、怒りで拳を固く握りしめていた。


「……許せん。人の真心がこもった食材に、このような むごいものを混ぜ込むとは」


『左様! 万死に値するわ! あの小娘、我が聖剣の錆にしてくれる!』


脳内でアルドゥインが激怒している。


だが、アミュレットは驚くほど冷静だった。彼女の瞳には怒りの色こそあれど、取り乱した様子は一切ない。


彼女は、感情的になるゼノンを静かに見据えた。


「グレイフォード様。感情的になるのは非合理的です。今、わたくしたちに必要なのは、怒りではなく、確実な証拠ですわ」


「証拠……。だが、この少年の証言だけでは、黒幕はいくらでも言い逃れをするだろう」


「ええ。ですから、捕まえるのです。その『黒幕』本人が、動かざるを得ない状況を作り出して」


アミュレットの瞳に、鋭い光が宿った。それは、獲物を狩るための罠を仕掛ける、冷徹な狩人の光だった。


彼女の作戦は、単純明快だった。


まず、ゼノンは信頼できる部下であるレオとマイルズを密かに呼び寄せた。そして、閉店後のカフェの周辺に、気配を殺して潜むよう命じる。


次に、アミュレットは何事もなかったかのように、その日の営業を始めた。ただし、牛乳と卵を一切使わないメニューだけを提供して。


そして夕方。例の配達の少年を再び店に呼び、アミュレットは一枚の金貨を握らせた。


「これを、あなたに毒を盛るよう命じた侍女に渡しなさい。そして、こう伝えるのです。『今日の店の様子は、いつもと何も変わりませんでした。むしろ、新しいお菓子が評判で、大変な賑わいでした』と」


少年は、怯えながらも、彼女の意図を察して力強く頷いた。


その報告は、侍女を通じて、すぐにリリアの耳に届いた。


(何も、起こらなかった……? あれだけの毒を入れて、どうして!?)


リリアは、苛立ちと焦りで唇を噛んだ。自分の計画が完璧に失敗したこと、そして、相変わらずアミュレットが成功しているという事実が、彼女を追い詰める。


(このままでは終われない……! わたくし自らの手で、息の根を止めてやらなくては!)


もはや、彼女に冷静な判断力は残っていなかった。


その夜。


月明かりだけが、静かな裏路地を照らしていた。閉店した「カフェ・ミュレット」の周辺は、物音一つしない。


その闇の中に、フードで全身を覆った、小さな人影が姿を現した。リリア本人だった。彼女は、もはや侍女すら信用できず自ら動くことを選んだのだ。


その手には、昨日よりもさらに濃度の高い毒が入った小さなガラス瓶が握られている。


(明日の朝、配達される予定の小麦粉の袋……。あれにこれを振りかければ、今度こそ……)


彼女が店の裏口に置かれた納品用の棚に近づき、ガラス瓶の蓋を開けようとしたその時だった。


「――そこまでだ」


闇の中から、低く冷たい声が響いた。


リリアが驚いて振り返るとそこにはゼノンが、そして彼の両脇を固めるようにレオとマイルズが静かに立っていた。


「なっ……あ、あなたたちは……! なぜここに……!?」


「あなたの来るのを、お待ちしておりました。未来の王太子妃殿下」


ゼノンの言葉に、リリアは血の気が引いた。


「し、知らないわ! わたくしは、ただ夜の散歩を……!」


「その手に持っているものは、夜の散歩に必要なものか?」


ゼノンが指差す先には、紛れもない毒の小瓶。


リリアが言葉に詰まったその時、店の裏口のドアが静かに開きランプを持ったアミュレットが姿を現した。


「配達の少年は、全て話してくれましたわ。あなたに脅され、牛乳に毒を盛ったと」


「そ、そんな子、知らないわ!」


「そうですか。では、あなたの侍女にも証言していただきましょうか」


アミュレットが合図すると、物陰からもう一人、顔を青くした侍女が、他の騎士に連れられて現れた。彼女は、リリアの顔を見るとその場に泣き崩れた。


「申し訳ございません、リリア様! わたくし、全てお話ししました! 薬を手に入れたことも、殿下への讒言も、全て……!」


もはや、言い逃れの道はどこにもなかった。


リリアを唆して王子を動かしたこと。街に悪評を流させたこと。そして、自らの手で毒を盛ろうとしたこと。


彼女の全ての悪事が、この静かな裏路地で白日の下に晒されたのだ。


「……そんな」


リリアは、力なくその場にへたり込んだ。


アミュレットは、そんな彼女をただ静かにそして冷ややかに見下ろしていた。

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