第22話
エリアス王子の幼稚な報復は、貴族社会と一般市民の一部には確かに効果を発揮した。
しかし、彼の計算が及ばない場所があった。
それは、王宮騎士団という、実直で、自らの信念に生きる男たちの集団だった。
騎士団の休憩室。そこでは、街で流れるカフェ・ミュレットに関する悪意ある噂が、逆に騎士たちの怒りに火をつけていた。
「聞いたかよ、街の噂! アミュレット様が菓子に薬を盛ってるだと? ふざけるのも大概にしろ!」
若手騎士のレオが、テーブルを叩いて憤る。
「ああ。俺たちが毎日食べて、何も起こらないのが何よりの証拠だろう。むしろ、力が漲るくらいだ」
先輩騎士のマイルズも、腕を組んで頷く。
「間違いなく、殿下とその新しい婚約者の差し金だ。自分たちの面子を潰された腹いせに、こんな卑劣な手を使いやがって」
彼らは、先日カフェで起こった王子とのいざこざの、生き証人だ。アミュレットがいかに冷静に、そして気高く王子をいなしたか。そして、王子がどれほどみっともなく狼狽していたか。全てをその目で見ていた。
騎士たちは、噂に惑わされるほど愚かではない。彼らは、自らが信じる正義と、自らが忠誠を誓った相手を、見誤ることはなかった。
「……で、どうするんだ? このままじゃ、アミュレット様が可哀想だ」
「決まってるだろ」
マイルズが、力強い声で言った。
「俺たちが、アミュレット様の作る菓子の安全性を、その身をもって証明し続けるんだよ」
その日を境に、騎士たちのカフェ通いは、以前にも増して熱を帯びるようになった。
彼らは示し合わせたかのように、任務が終わると制服のまま大挙して裏路地を訪れ、店の外まで聞こえるような大きな声で注文をした。
「アミュレット様! 例の『力が漲る』という噂のケーキを! 俺にも一つ!」
「こっちには『食べると忠誠心が増す』と評判のタルトを頼む!」
「俺は『飲むと邪悪な噂が見抜けるようになる』コーヒーを!」
その大声は、遠巻きに店を見ていた野次馬たちにも聞こえる。騎士たちが、悪評をものともせず、堂々とカフェに通い続けている。その事実は、何よりもの雄弁な反論だった。
さらに、彼らはテイクアウトを利用し、職場である騎士団の詰め所でも、アミュレットの菓子を広めた。
「どうだ、美味いだろ!」「これが噂の店のケーキか!」「毎日でも食えるな!」
騎士たちの純粋な支持は、王子の圧力を静かに、しかし確実に無力化していく。
その動きの中心にいたのは、もちろんゼノンだった。
彼は、これまで以上に頻繁にカフェを訪れた。時には開店前の掃除を手伝い、時には閉店後の片付けを見守った。
「……グレイフォード様。あなた様まで、毎日いらっしゃる必要はございませんのよ。騎士団での立場が、悪くなるのでは?」
ある日、アミュレットが心配そうに尋ねた。
「構わん。俺は、俺が正しいと信じることをしているだけだ」
ゼノンは、きっぱりと言った。
「それに、俺はここの菓子と紅茶がなければ、一日を終えられない体になってしまったからな」
その真剣な眼差しに、アミュレットは少しだけ目を伏せる。
「……そうですか」
彼女の頬が、ほんの僅かに、赤く染まったのを、ゼノンは見逃さなかった。
騎士団だけではない。
カフェ・ミュレットの揺るがぬ支持者は、もう一箇所に存在した。
それは、この裏路地に住む、ご近所さんたちだった。
「あらまあ、あのお嬢さん、また酷い噂を立てられて。可哀想に」
八百屋の女将が、パン屋の主人にぼやく。
「全くだ。あんなに美味しくて、正直な菓子を作る人が、悪さなんてするもんか。俺のパン職人としての目が保証するぜ」
「私たち、この路地の人間が、一番あの子の人柄を知ってるじゃないか。何とかしてやれないかねぇ」
彼らもまた、行動を起こした。
彼らは、自分の店を訪れる客にさりげなく、しかし熱心に、カフェ・ミュレットの素晴らしさを語って聞かせたのだ。
「うちのパンも美味いがね、角のカフェのケーキと一緒に食べるともっと美味いんだぜ?」
「この果物で、あの美人店主さんがジャムを作るとそりゃあもう絶品でねぇ」
地道な、しかし心のこもった彼らの口コミは、悪意ある噂を打ち消す温かい真実の波となって少しずつ街に広がっていった。
エリアス王子の幼稚な報復は、皮肉にもアミュレットと彼女を支える人々との絆をより一層強く深く結びつける結果となったのだった。
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