第21話
屈辱。
カフェ・ミュレットを飛び出したエリアス王子の心を占めていたのは、その一言に尽きた。
脳裏に焼き付いて離れないのは、元婚約者の冷たい瞳と、「間に合っておりますので」という無慈悲な言葉。そして、店内にいた客たちの、嘲笑うかのような視線だった(と、彼には思えた)。
「あの女……! 私の、この私の慈悲を、無にしおった!」
王宮に戻る馬車の中で、エリアスは怒りに震えていた。
「王子である私に、真正面から恥をかかせるとは……!」
彼にとって、アミュレットの塩対応は、もはや単なる無礼ではなかった。王家と、次期国王である自分自身への、明確な反逆行為に他ならなかった。
王宮に戻り、リリアに事の顛末を語る(もちろん、自分が無様に言い負かされた部分は都合よく省略して)。それを聞いたリリアは、待っていましたとばかりに、目に涙を溜めて王子の手に自分の手を重ねた。
「まあ、エリアス様……。アミュレット様は、そこまで増長なさっていたのですね。エリアス様のお心を傷つけるなんて、わたくし、許せませんわ!」
「リリア……君だけだ、私の心を分かってくれるのは」
「いいえ、そんなことはありません! きっと、エリアス様のお考えが正しいのです! あのような不届きで、王家を敬う心もない店など、王都には不要ですわ!」
リリアの言葉は、エリアスの傷ついたプライドを優しく慰め、そして、彼の復讐心を巧みに煽った。
「そうだ……その通りだ、リリア。あの女に、そしてあの女に与する者たちに、王家に逆らうことがどういうことか、骨の髄まで思い知らせてやらねばならん!」
エリアスの瞳に、暗い炎が宿った。
彼は、もはや公明正大な王子ではなかった。傷つけられた自尊心を守るためなら、どんな手でも使う、ただのちっぽけな男だった。
翌日、エリアスはすぐに行動を開始した。
まず、懇意にしている派閥の貴族たちを呼びつけ、こう通達した。
「例の裏路地のカフェだが、どうやら王家に対し反意を持つ者たちの巣窟となっているようだ。よって、今後あの店に関わる者は、私への敵対行為と見なす。よいな」
その言葉に、逆らえる貴族はいなかった。
次に、彼は御用達のゴシップ新聞社の編集長を密かに呼びつけた。
「街で、こんな噂を流せ。『カフェ・ミュレットの菓子には、人を惑わす妙な薬草が混ぜ込まれている』『あの店の地下では、夜な夜な不穏な集会が開かれている』……面白おかしく書きたてろ。ただし、王家の関与は一切匂わせるなよ」
編集長は、王子の陰湿な命令に内心で顔をしかめながらも、深く頭を下げるしかなかった。
エリアスの幼稚な報復は、数日のうちにじわじわとカフェ・ミュレットを蝕み始めた。
まず、あれほど店を訪れていた貴族の客が、ぱったりと姿を消した。店の前を通りかかっても目を合わせないように足早に去っていく。
そして、街では根も葉もない悪評が流れ始めた。
「あの店の美人店主、実は男を誑かす魔女なんだって?」
「お菓子に何か変なものが入ってるって本当かい?」
店の前を遠巻きに眺め、ひそひそと噂を交わす人々。これまでのような、好奇心や憧れの視線ではない。そこにあるのは、疑惑と少しの恐怖だった。
客足は、明らかに減った。
その日の午後、店内の客はゼノンただ一人だった。
「……殿下の、差し金か」
ゼノンは、騎士団の部下から街の噂を聞き、事の真相を正確に把握していた。彼は、王子の卑劣なやり方に静かな怒りを燃やしていた。
(権力を使って、一人の女性が懸命に築いたささやかな城をこうも容易く踏みにじるのか)
彼は、カウンターの内側で黙々とカップを磨くアミュレットに心配そうな視線を向けた。
しかし、当のアミュレット本人は客が減ったことを全く気にする様子がない。
「あら、今日は静かですね。掃除がしやすくて助かりますわ」
彼女は、心底そう思っているかのように平然と言った。
その変わらない姿に、ゼノンは少しだけ安堵する。
「……何か、困ったことはないか」
「別に。売上が減れば、仕入れる材料も減るだけです。わたくしにとっては、何も変わりません」
アミュレットはそう言うと、ふと思い出したように顔を上げた。
「あら、グレイフォード様。ちょうど良かった。お客様が少ないので、少し手の込んだ試作をしていたのです」
彼女がカウンターに置いたのは、幾層にも重なったパイ生地が美しい完璧なミルフィーユだった。
「新作のミルフィーユ、味見していかれませんか?」
その瞳には、悪意に満ちた噂や王子の圧力など一片の曇りもなかった。ただ、最高の菓子を作ることへの純粋な喜びだけが輝いていた。
ゼノンは、そんな彼女の姿に改めて強く惹きつけられる。
(殿下……。あなたの幼稚な報復などでは、この人の心は決して折れることはない)
彼は、この場所を、そしてこの気高い店主を何があっても守り抜こうと、静かにしかし強く心に誓うのだった。
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