†† N.P.

 人間というのは気まぐれなもので、一生を同じ楽器と過ごす者もいるがそれはまれである。たいていは、飽きたり、腕が衰えて次々と乗り換えてゆく。オレも年に一度、鳴らされることになってるが、前回の担当は茶色の巻き毛の少年だった。そいつは軽快なピッツィカートと繊細なハーモニクスだけはなかなかで、一瞬だけオレに昔の弾き手を思い出させてくれた。


 大昔にオレを奏でていたと言えるのは、N.P.と名乗る酔っ払いで、――つまりナイアルラトホテプである。酒場のテーブルに投げ出されたり、三弦を切ったまま曲芸じみた演奏をさせられたり、ろくな記憶がない。そんな悪魔の手先みたいなやつに比べれば、たとえ本当の音の一〇分の一しか鳴らせなくても、誠実な人間の方がましだ。


 そんなことをぼんやり思い返しているうちに、メシアとともに征く旅の話はどんどんと段取りが進んでいった。


 面倒だったのは、同じ展示室のテオンヴィーユやカンポセリーチェが「自分たちも行きたい」と騒ぐのをなだめすかすことだった。「次の一〇〇年後には誘う」とかなんとか適当な約束をしてなんとか黙らせることできた。


 ほかにも、長く不在になると人間に不審がられるので、代役も必要だった。オレの身代わりはオレと同じクレモナ生まれの東のダヴィドフが立つことになった。チェロのダヴィドフとは別のやつである。時期が近いから木肌の色が似ており、鑑定士でもない限り違いは分かるまい。


 一方メシアは、テールピースに天使の装飾があるせいで代役が難しかったのだが、同じく装飾を持つ緋の淑女、レディ=ブラントが引き受けてくれることになった。


 ただし条件付きで。


「旅から戻ったとき、あなたたちのうちどちらかが、何でも一つ、わたしのお願いを聞くこと」


 レディ=ブラントの正体は「千匹の仔を孕みし森の黒山羊」シュブ=ニグラスなのだが、そんな恐るべき存在にそんなことを言われて、メシアの顔は見事に引きつっていた。オレはこっそり笑ったが、同時に、そこまでしてでも行きたいというメシアの覚悟を少しだけ見直したのだった。



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