「殺さずにいられない男」と「死ねない少女」の異世界転生物語

マスターボヌール

第1話:殺意感応

手が、赤い。


なぜ。


俺は手を見つめる。指の間に、何かが挟まっている。柔らかいもの。温かいもの。


なぜ。


視線を上げる。


目の前に、何かが転がっている。


いや、違う。


「転がっている」じゃない。


「倒れている」だ。


人間が。


男が。


口が開いている。目も開いている。でも、動かない。


なぜ。


胸に、穴が開いている。


いや、違う。


穴じゃない。


えぐれている。


ろっ骨が見えている。


内臓も見えている。


それが俺の手の近くまで、引きずり出されている。


吐いた。


胃の中身が全部出た。


でもまだ吐く。


何も出ないのに吐く。


涙が出る。


鼻水が出る。


よだれが出る。


全部が混ざって、地面に落ちる。


男の血と混ざる。


逃げた。


三歩で転んだ。


膝を擦りむいた。


痛くない。


いや、痛いはずなのに、感じない。


立ち上がる。


また走る。


どこに向かっているのか分からない。


ただ、あの場所から離れたい。


あの「もの」から離れたい。


いや、違う。


あれは「もの」じゃない。


人だった。


さっきまで、生きていた。


でも今は──


また吐いた。


もう何も出ない。


胃液だけが喉を焼く。


---


気づいたら、川の近くにいた。


手を洗った。


何度も何度も洗った。


でも、赤いものが落ちない。


爪の間に入り込んでいる。


指紋の溝に入り込んでいる。


こすった。


石でこすった。


皮膚が剥けた。


血が出た。


自分の血だ。


それでも、まだ赤いものが残っている気がする。


「やめろ」


誰かが言った。


いや、違う。


俺が言った。


自分の声が、他人の声に聞こえる。


「やめろ、もう落ちてる。もう落ちてるから」


でも、手を見ると、まだ赤い気がする。


臭いがする。


鉄の臭い。


生肉の臭い。


吐いた。


もう何も出ない。


ただ、喉が痙攣するだけ。


---


どれくらい経ったのか分からない。


川辺に座り込んで、膝を抱えている。


震えが止まらない。


寒いのか。


いや、暑い。


汗が出ている。


でも震えている。


頭の中で、あの光景が何度も再生される。


男の顔。


開いた口。


抉れた胸。


引きずり出された──


「やめろ」


また自分に言う。


「考えるな。考えるな」


でも、止まらない。


なぜ。


なぜ、あんなことになった。


俺は、何をした。


思い出せない。


男に絡まれた。


ナイフを突きつけられた。


それから──


何も覚えていない。


次に気づいた時には、あの光景だった。


「スキル」


そうだ。


スキルが発動したんだ。


《殺意感応》


他者の殺意に反応して──


殺す。


でも、覚えていない。


意識がなかった。


じゃあ、あれをやったのは誰だ。


俺じゃない。


いや、違う。


俺の手だ。


俺の体だ。


俺が殺した。


でも、覚えていない。


覚えていないのに、殺した。


また吐き気がこみ上げる。


---


夜になっても、震えは止まらなかった。


川辺から動けない。


あの場所に戻る気にならない。


街にも戻れない。


人がいる。


人がいたら、また──


「やめろ」


考えるな。


でも、考えてしまう。


もし、また誰かに絡まれたら。


もし、また殺意を向けられたら。


また、あんなことに──


震えが激しくなる。


息ができない。


喉が締め付けられている。


苦しい。


手が冷たい。


指先の感覚がない。


このまま死ぬのか。


そう思った瞬間、少しだけ楽になった。


死ねば、もう誰も殺さなくて済む。


でも、どうやって死ぬ。


川に飛び込むか。


溺れて死ぬか。


苦しいだろうな。


でも、あの男も苦しかっただろう。


俺は、あの男に何をした。


胸を──


「やめろ!」


叫んだ。


自分の声が森に響く。


ばさばさと鳥が舞い上がった。


静寂が戻る。


ただ、川の音だけが聞こえる。


---


3日目。


まだ、川辺にいる。


食べていない。


飲んでいない。


いや、川の水は飲んだ。


でも、何も食べていない。


空腹だ。


でも、食べたいと思わない。


何かを口に入れることが、怖い。


体の中に何かを入れることが、怖い。


なぜだろう。


分からない。


ただ、怖い。


震えは少しだけ収まった。


でも、頭の中では、まだあの光景が再生され続けている。


何度も、何度も。


夢でも見る。


あの男の顔が、夢に出てくる。


でも、夢の中では、男は笑っている。


「お前が殺したんだろ」


そう言って笑っている。


「覚えてないのか? お前、楽しそうだったぞ」


違う。


俺は何も覚えていない。


「嘘つけ。お前、笑ってたぞ」


違う!


目が覚める。


汗でびっしょりだ。


また震える。


---


7日目。


やっと、少しだけ食べ物を口にした。


木の実。


噛むと、口の中に味が広がる。


でも、味が分からない。


何を食べているのか、分からない。


ただ、飲み込む。


胃が痛い。


でも、吐かない。


吐いたら、また思い出す。


あの日のことを。


考えないようにする。


でも、考えてしまう。


あの男には、家族がいたのだろうか。


妻がいたのか。


子供がいたのか。


今頃、誰かが泣いているのか。


「殺された」と。


「誰かに殺された」と。


それが、俺だと知ったら。


いや、誰も知らない。


あの路地裏に、俺以外誰もいなかった。


証拠もない。


ただ、死体だけが残っている。


もう、見つかっただろうか。


腐り始めているだろうか。


また吐き気がする。


---


10日目。


少しだけ、歩けるようになった。


川から離れて、森の中を歩く。


目的はない。


ただ、動いていないと、また考えてしまう。


木々の間を抜けて、獣道を歩く。


鳥の声が聞こえる。


虫の音が聞こえる。


生きている音だ。


俺も、生きている。


あの男は、死んだ。


俺が殺した。


でも、俺は生きている。


これでいいのか。


分からない。


ただ、歩く。


足が痛い。


靴は、もうボロボロだ。


でも、歩く。


止まったら、また考えてしまう。


---


15日目。


誰かに出会った。


旅人だった。


男だった。


目が合った瞬間、体が固まった。


心臓が、止まりそうになった。


男は笑顔で手を振った。


「やあ、こんなところで人に会うとは」


俺は、何も答えられなかった。


ただ、震えていた。


男の笑顔が、消えた。


「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」


近づいてくる。


やめろ。


来るな。


「おい、しっかりしろ」


手が、俺の肩に触れた。


その瞬間──


ゾクリ、と背筋を何かが走った。


「あ」


声が出た。


男の顔が、歪んだ。


いや、違う。


男の目に、何かが浮かんだ。


警戒。


いや、違う。


恐怖。


いや、違う。


殺意だ。


こいつ、俺を──


視界が、暗くなった。


---


気づいた時、男は死んでいた。


首が、ありえない方向を向いていた。


また、だ。


また、殺した。


また、覚えていない。


また、俺の手が──


今度は吐かなかった。


ただ、座り込んだ。


男の死体の隣に。


どれくらい、そうしていたのか分からない。


日が暮れた。


暗くなった。


でも、動けなかった。


男の顔が、月明かりに照らされている。


目が開いている。


でも、何も見ていない。


「ごめん」


そう言った。


「ごめんなさい」


何度も言った。


でも、男は答えない。


当たり前だ。


死んでいるんだから。


俺が殺したんだから。


---


それから、何人殺したのか。


もう、数えていない。


いや、数えたくない。


盗賊。


冒険者。


酔っ払い。


行商人。


女も、いた。


子供は──


いや、やめろ。


考えるな。


でも、忘れられない。


あの小さな体。


あの泣き声。


あの──


やめろ。


やめろ。


やめろ。


---


街を、出た。


人がいる場所には、いられない。


森の中で、一人で生きることにした。


誰とも会わない。


誰とも話さない。


そうすれば、もう誰も殺さなくて済む。


でも、時々、迷い込んでくる者がいる。


そして、彼らが俺に気づいた瞬間──


不審者だと思うのだろう。


警戒する。


恐れる。


そして、時に──


殺意を向ける。


その瞬間、俺の意識は途切れる。


次に気づいた時には、また死体が増えている。


もう、泣けなくなった。


吐けなくなった。


震えなくなった。


ただ、死体を埋める。


森の中に。


誰にも見つからないように。


そして、また一人で、焚き火の前に座る。


---


3ヶ月が経った。


何人殺したのか。


分からない。


十人か。


二十人か。


それとも──


やめろ。


数えるな。


でも、夢に出てくる。


全員の顔が。


全員の最期が。


そして、夢の中の俺は──


笑っている。


楽しそうに、殺している。


「違う」


目が覚める。


「俺じゃない」


でも、俺の手だ。


「俺は、何も覚えていない」


でも、やったのは俺だ。


もう、分からない。


俺が殺したのか。


スキルが殺したのか。


境界が、曖昧だ。


もしかしたら──


俺は、殺すことを──


「やめろ!」


叫ぶ。


森に響く。


誰も答えない。


ただ、静寂だけが戻ってくる。


---


「ねえ」


声がした。


幻聴か。


いや、違う。


焚き火の向こう側に、誰かがいる。


少女だ。


銀色の髪。


赤い目。


「あんた、転生者?」


体が、固まる。


また、だ。


また、殺すのか。


少女は、笑っている。


でも、その目は笑っていない。


「私も転生者なの。同じ匂いがする」


匂い。


血の匂いか。


死の匂いか。


「私ね」


少女が、一歩近づく。


「死にたいの」


また、幻聴か。


「でも、死ねないの」


少女が、懐から何かを取り出す。


ナイフだ。


「これ、見てて」


そして──


自分の手首を、切った。


「やめろ!」


叫ぶ。


でも、遅い。


血が噴き出す。


少女は、ケロッとした顔で自分の手首を見ている。


そして──


傷が、塞がっていく。


数秒で、完全に元通り。


「ね? 死なないでしょ?」


少女が、笑う。


その笑顔は──


俺と、同じだ。


絶望の匂いがする。


「あんたのスキル、《殺意感応》でしょ?」


なぜ、知っている。


「私のスキルで鑑定があるから、それよりさ」


「私を、殺してみてよ」


また、幻聴か。


いや、違う。


この少女は、本気だ。


「私、あんたに殺されても、死なないから」


赤い目が、俺を見つめる。


「試してみようよ」


その目には──


狂気と、期待が混ざっていた。


---


【第1話 完】

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