第7話 聖女、ジャンクに堕つ
草木も眠る、
静まり返ったリビングから、妙な音が聞こえてきた。
カサッ……カサッ……。
パリッ、サクッ。
ネズミか?
いや、あの規則正しい
私はベッドを抜け出し、音の発生源へと忍び足で向かった。
リビングのドアを少しだけ開ける。
月明かりが差し込む部屋の中央、こたつの上で、神々しいシルエットが動いていた。
長い銀髪が月光を浴びて輝いている。
慈愛に満ちた横顔。
聖女エレナ・サンクチュアリ。
異世界では「癒やしの
「……神よ」
エレナが独り言を漏らす。
その声は、祈りのように震えていた。
「なぜ、これほどまでに罪深いものを、人間にお与えになったのですか……」
パリッ。
彼女が
カルビー・ポテトチップス(コンソメパンチ味)。
私が昨日買ってきて、棚の奥に隠しておいたはずの禁断の果実だ。
「……見つかっちゃった」
私が声をかけると、エレナはビクゥッ! と肩を跳ねさせた。
袋を取り落とす。
中身が少しこぼれた。
「ま、まもりさん!?」
「こっそり食べるなんて悪い子だなぁ」
「ち、違いますの! これは、その、
エレナは真っ赤な顔で、明後日な方向へ向いた弁明を始めた。
口の周りに、茶色い粉がついている。
説得力ゼロだ。
「この袋から、抗いがたい誘惑の波動を感じまして……私が身を
「美味しかった?」
「……はい」
即答だった。
彼女は観念したように、
「信じられませんわ。薄く切った芋を油で揚げ、魔法の粉をまぶしただけのものが、これほどまでに脳髄を揺さぶるなんて」
「魔法の粉っていうか、化学調味料だね」
「カガク……やはり錬金術の産物ですか。この『コンソメ』という味、教会の
そりゃそうだ。
企業努力の結晶だもの。
私は彼女の対面に座り、こぼれたポテチを拾って食べた。
ん、湿気てない。
開封したてだ。
「夜中に食べると太るよ?」
「太る……?」
「脂肪になるの。お腹のお肉になるの」
「なんと恐ろしい呪い……」
エレナは自分のぺたんこのお腹をさすった。
しかし、その手は止まらない。
袋の中に手を突っ込み、次は二枚重ねで口に放り込む。
バリボリバリボリ。
豪快な音が響く。
清貧を誓った聖女の姿は、そこにはなかった。
あるのは、深夜のテンションで食欲のリミッターが外れた、ただの腹ペコ女子だ。
「でも、美味しいなら仕方ないね」
「……まもりさんは、怒らないのですか? 私が盗み食いをしたのに」
「怒らないよ。お腹すいてたんでしょ?」
「……夕食のハンバーグも三つ食べたのですが」
「育ち盛りだからね」
私がニコニコしていると、エレナは申し訳無さそうに、でも嬉しそうに目を細めた。
そして、テーブルの下から「あれ」を取り出した。
プシュッ。
赤い缶。
コーラだ。
「あーっ! コーラまで!」
「申し訳ありません。この黄金色の円盤(ポテチ)には、この黒い聖水が不可欠だと、
わかってる。
ポテチとコーラ。
それは現代栄養学が全力で否定し、人類の欲望が全力で肯定する、悪魔のコンボだ。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……プハァーッ!
エレナが豪快に喉を鳴らして飲み干す。
炭酸の泡が弾ける音が、深夜のリビングに爽やかに響いた。
「くぅぅ……!
「おっさんくさいよ、エレナちゃん」
「神への祈りよりも、コーラのゲップを我慢するほうが辛いですわ」
名言が出た。
教皇様が聞いたら卒倒するレベルの背信行為だ。
しかし、ふとエレナが眉をひそめた。
頬に手を当てる。
「……む」
「どうしたの?」
「ここ……口の横に、微かな違和感が。痛みと、腫れの予兆……」
「ああ、ニキビできたかもね。油っこいもの食べたから」
「ニキビ? 魔の刻印ですか?」
「吹き出物だよ。女の子の天敵」
エレナの顔色がサッと変わった。
美意識は高いらしい。
鏡もないのに、指先の感覚だけで患部を特定する。
「許せません。私の聖なる肌に、不浄な
彼女の右手が、淡い光を帯びた。
神聖魔術の輝きだ。
え、まさか。
「《聖なる癒やしよ、不浄を
フォォォン……。
柔らかな光が彼女の頬を包み込む。
光が収まると、そこには生まれたてのようにツルツルの、陶器のような肌があった。
ニキビの予兆どころか、毛穴すら見えない。
「……治りましたわ」
「えぇ……」
「回復魔法ですもの。細胞の活性化と浄化など、造作もありません」
私は絶句した。
回復魔法。
それは、傷ついた戦士を癒やし、病に苦しむ人々を救うための奇跡の力。
それを、今。
深夜のポテチでできたニキビ(自業自得)を消すために使った?
……最強か?
最強の美容法か?
「まもりさん、これなら幾ら食べても大丈夫ですわね」
「いや、カロリーは消えてないよ?」
「脂肪燃焼の魔法も併用すれば、理論上はゼロカロリーです」
「そんな
エレナは悪魔的な笑みを浮かべた。
堕ちた。
完全に堕ちた。
彼女は「健康リスク」というブレーキを、魔法の力で粉砕してしまったのだ。
これぞ、聖なる力の私物化。
権力の乱用。
「さあ、まもりさんも。この『のり塩』という緑のパッケージも開けましょう」
「ちょ、まだ食べるの?」
「夜はまだ長いですわ。神よ、感謝します。現代日本という楽園に、私を導いてくださったことを!」
バリッ!
二袋目が開封された。
海苔の香ばしい匂いが漂う。
私は悟った。
この聖女様、たぶん四人の中で一番、現代社会の欲望に忠実だ。
清廉潔白だった反動が、すべて食欲に来ている。
「あーん、してくださいまし」
「……」
差し出されたポテチを、私はパクリと食べた。
美味しい。
悔しいけど、背徳の味がする。
「美味しいですわね?」
「……うん、美味しい」
「ふふ、共犯者ですね」
エレナは楽しそうに笑い、指についた海苔と塩の粉を、ペロリと
その仕草があまりにもあどけなくて、そして少しだけ扇情的で。
私は何も言えなくなってしまった。
翌朝。
胃もたれで死んでいた私を、エレナが涼しい顔で「ヒール」してくれた。
ずるい。
魔法って、本当にずるい。
でも、朝日に照らされた彼女の笑顔が、昨日よりもずっと人間らしくて、可愛かったから。
空になったポテチの袋をゴミ箱に捨てながら、私は「よしよし」と心の中で呟いたのだった。
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