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雲ひとつない晴天、広がるコバルトブルーの海──その波に揺られるのは優雅な装飾を施した華麗なガレオン船だ。海と空を混ぜたようなブルーの帆を風に膨らませ、船首に飾られた像”白銀の女神キオナティ”の先導で推進する。キオナティは左の鳥の翼、右の蝙蝠の翼を風に添わせ、狼の下肢を走らせた格好で両手を祈りの形に組み、航行の安全を祈っている──はずだった。
その祈りを嘲笑うかのように、海が突然牙を向いたのだ。
「カレン様! カレン様どうかブリッジにお戻りください! この場は戦闘員に対処を任せます!」
フォアデッキに青年の声が響く。足場は激しい波に揺られて幾度となく傾き、満足に立つ事すら困難な状況だ。晴天の空であるのに海は荒れ、強風も不規則に吹き荒れている。突如として起こった海の異変に、カレンと呼ばれた少女は亜麻色の髪を押さえながら周囲を見渡していた。
「ヴァルター、お客様は避難されましたか?」
「避難はとうに済んでいます! ですからカレン様も!」
「ええ、ですが……ヴァルター、あれを見てください!」
カレンの濃紺のワンピースが強風にはためく。デッキの手すりに掴まり、かろうじてその場に身を留めていたカレンは、何とか片手を前に突き出し、視線の先を指差した。
「見えてますとも! あのような異形、見たことがありません! ですからとにかくブリッジにお戻りください!」
ヴァルターと呼ばれた青年がデッキを這うようにしてカレンに近づく。その間も彼の声は声量を衰えさせず、必死にカレンに呼びかける。その声が耳に入っているのかいないのか、カレンは波飛沫も構わず視界の奥に焦点を定めていた。
海から巨大な足のようなものが何本も生え、それが時に海面を叩きながらのたうちまわっている。その一本の大きさは、カレンたちの乗る大型ガレオン船、ベンダバール号などひと叩きで大破させることが出来る程だと容易に予測出来る。
透明な表面の中に黒い靄のようなものが蠢き、星空のように煌めいている。神秘と邪悪をねじ込んだような異形だ。一見タコやイカの足にも見えるが、似て非なるものだった。
周囲では船のクルーの声が行き交い、フォアデッキやアフターデッキには戦闘要員として乗船している数名の魔法部隊が構えている。しかし魔法を打つには距離が遠く、距離を縮めるわけにもいかず、為す術がない。
次第に不可思議な異形を中心に雲が集約し始め、空に雷鳴の唸りが漂う。空気が湿り、天候悪化というさらなる危機が迫る。ヴァルターは不敬であると分かりながらもカレンの腕を掴み、手すりから引き剥がした。そして彼女を支えながら揺れるデッキを進み、ブリッジへと辿り着く。ラウンジに入ってドアを閉めたところでデッキを激しく打つ雨音が追加され、日差しは雲に遮られ、状況は悪化の一途を辿る。ヴァルターは内心で舌打ちしながら脳を捻って策を練ろうとするが、良案はすぐに浮かばなかった。
「カレン様、ひとまず自室へ避難してください」
「いいえ、操舵室に向かいます。ヴァルターも向かうのでしょう?」
「ですがカレン様──」
「一刻を争うのですから、さあ」
壁や床を伝いながら奥の階段室へと向かい、何とか二つ上の階にある操舵室へ到着すると、そこには舵を握る航海士の姿があった。
「舵が安定しません……!」
「舵はあの異形から離れるよう調整出来ればそれでいい。──動力室に待機する者に告ぐ! 魔導動力炉を最大出力で稼働させ、荒波から即刻退避する! 魔石はあるだけ使え!」
航海士にそう告げ、伝声菅に飛びついたヴァルターがすかさず指示を投げる。カレンはその背後を通り過ぎ、雨粒が叩きつけられる窓から異形をじっと眺めた。
「あれって一体何なんですか、ヴァルターさん⁈」
「知らん! まさか、エレヴァンの者はこれを隠していたのか? すんなりと客船事業の許可が下りたのは気がかりだったんだ。──アンスールの陰謀だということは……」
「ヴァルター、それは考えられませんわ。陰謀ならば先代とはいえ、ご領主のアーミル様がお客様として乗船なさるはずがありません」
航海士に問われて歯噛みするヴァルターを、焦りなど少しも浮かべない表情のカレンが振り返って嗜める。雷鳴が轟き、船の揺れが増していく。外のクルーたちの声にも悲鳴が混じり始め、動力を増した筈の船は異形と均衡を保つのが精一杯で逃れることが出来ない。苦し紛れの対応に追われるなか、不意に、カレンが右舷ウィングのドアを開いた。
「カ、カレン様⁈ 何を──」
暴風と雨粒が操舵室に乱入する。外の轟音が室内に殴り込み、ヴァルターが戸惑いの声を上げる。しかしそんなことはお構いなしに、カレンはドア外の壁にあるラダーを登り、ブリッジの天井部分に消えていく。慌てて駆け出したヴァルターがそれに続くと、雨に濡れるのも構わず跪き、祈るように胸の前で両手を組んで目を閉じるカレンの姿があった。
「ヴァルター、アンスールに伝わる”勇者様”の伝説──荒れ狂う海から生まれた異形を治めるため、突如として現れた英雄の逸話。何度も聞かせたでしょう?」
「カレン様、今はそんな話を、」
「荒れ狂う波、見たこともない異形──状況が似ていると思いませんか? もしかしたら今この時、”勇者様”が現れてわたくしたちを助けてくださるのかもしれません。わたくしは、もしかしたら”勇者様”にお会いできるのかも……」
轟音と雷鳴、頬を打つ雨粒、得体の知れない異形──地獄のような光景にも関わらず、夢を見るかのように表情を綻ばせ、歌うように言葉を紡ぐカレンに、ヴァルターは脳内で頭を抱えた。この主人は幼少の頃から、西大陸に伝わるという”勇者伝説”に対する憧れが強かった。何をどうしてそうなるに至ったのか定かではないが、この有り様でもその話題が出るとは恐れ入る。
ヴァルターが再度強引に彼女の手を引こうと近づくと、場違いな歌が空間に入り混じる。出所はカレンだ。かつての吟遊詩人が歌ったとされる勇者の歌。カレンがこれまでの人生で最も口ずさんで来た歌だ。
止めさせようと試みるも頑として場所を譲らず歌に興じる。その調べを聞いたデッキのクルーたちが、状況を察して困惑の声を上げ始める。
「お、おい……この一大事に呑気に歌なんか歌ってやがる……」
「やっぱりあのガキ、トチ狂ってるんだよ! 逆らえなかったとはいえ、乗るんじゃなかった……」
「も、もういい! どうせここに居たってあの異形には届かないんだ、避難だ避難!」
「もう駄目なのか? ……俺、死ぬのか……?」
聞き捨てならない台詞の羅列に、ヴァルターが熱り立つ。
「貴様ら、持ち場につけ! それにカレン様を愚弄するとは何事だ!」
しかしそのヴァルターも、クルーからすれば若造だ。窮地に立たされたことにより立場は崩れ、組織はあっという間に瓦解し始める。クルーたちがヴァルターの声を無視してブリッジに消えようとした、その時だった。
唸る風と雷鳴の轟に、内臓を振動させる重低音が重なった。ヴァルターやクルーたちは思わず耳を塞ぐ。カレンは目を閉じたまま歌い続け、美しい旋律との不協和音が続く。すると、そんな彼女の目前の空間が歪み始め、ヴァルターは瞠目した。渦巻くように景色が湾曲し、得体の知れぬ圧力が周囲を支配し始める。カレンを庇おうにも足が動かず、脳をねじ曲げるような不協和音に耳を塞ぐことしか出来ない。
歪みが増した空間は球体を模るように湾曲した後、その中央に集結した。そして、一際強い重低音が鳴り響き、視界を眩ませる。思わず目を閉じたヴァルターだが、全ての音が引いた一瞬に再び目を開けた時、衝撃の光景を目の当たりにした。
「な、何だここ──?」
戸惑いの声を漏らし、嵐の中視界を彷徨わせる、見慣れぬ装束を纏った少年。黒髪の総髪、臙脂色の浄衣と黒い下衣。手には一風変わった弓を握っている。
その声に誘われるようにカレンがゆっくりと目を開く。少年がよろめいて彼女の前に倒れ込む。二人の視線が交わった時、カレンの瞳だけが明らかに煌めいた。
「勇者様──!」
両手で口元を押さえて感極まるカレンを、困惑の瞳で見上げる少年。信じがたい光景を見たヴァルターは、驚愕に口元を震わせた。
「ゆ、勇者だと……⁈ 単なる伝説ではなかったのか──」
戸惑いの空間で少年は思い出したかのように上体を起こし、再び周囲を見渡した。そして絶望にも似た表情を浮かべ、カレンとヴァルターを交互に見やる。
「お、おい……あんたら誰だ? 一体どこなんだよここは? 師匠は? どうなってんだよ⁈」
段々と声を荒げる少年。震える声は混乱そのものだ。見惚れるように見上げるカレンのことは一先ず考えず、ヴァルターは少年に向かって大声を上げた。
「ええい、くそ! どうなってるかなどオレが知るか! ──貴様、勇者だというのならその力見せてみろ! あの異形を何とかするんだ! カレン様を落胆させるなよ!」
「は、はぁ──?」
突然の状況に加え、いきなり捲し立てるヴァルターに身を引きながら、少年は彼が指差す方向に瞳を移した。その先に、海面から何本もうねってのたうち回る巨大な異形を確認し、目を見開く。
「なっ──何だあれ……」
揺れる船上で雨に打たれ、みるみるうちに髪や衣服が水を吸うのも思考の外に飛んでいく。そんな呆けたように膝をつく少年に身を寄せ、カレンは彼の空いている方の手を両手で取り上げた。
「勇者様! わたくしたちを助けに来てくださったのですね」
崇めるようなマリーゴールドの瞳に、少年の黒い瞳が吸い込まれる。二人はそのまましばし見つめ合う。まるで時が止まったかのように二人の間の音は消え、衝撃の全てが遠くなる。
「カレン様、今は悠長な事をしている場合ではありません! このままでは間も無く船は転覆します!」
空間を裂くようなヴァルターの声に二人は我に返った。すると少年が徐にカレンの手を外し、弓を握り締めて立ち上がる。まるで操られているかのような挙動で両足を肩幅に開くように足踏みし、異形に対して胴を造る。床に膝をついて満足な体勢を取れずにいる二人を尻目に少年は姿勢を正すと、矢筒から一本引き抜いた矢を持って鉉に手をかけ、息を整え異形を睨んだ。
少年はまるで一人だけ異空間にいるかのように雷雨も暴風もものともせず、ゆっくりと両腕を打ち起こす。そのまま弓を引き分け、静かに狙いを定めた。
その瞳が色を無くす。白い虹彩が瞳孔を絞り、異形の一点を視界に捉える。引き切った弓が、まるでそうなることが決められていたかのように放たれ、矢が高い音を立てて嵐を引き裂く。そして、飛沫をあげる海面──異形の根元に突き刺さった。
異形の足が鼓動するように波打った。根本から先端へ向かい、内部の靄と光の粒が流動する。間も無く、矢が消えた一点から黒い霧が噴射され、それが異形の足を覆っていく。黒いヴェールに包まれ、それが風に消えた時、異形は姿を消していた。
「や、やったのか──」
ヴァルターが吐息混じりの声を漏らす。黒い霧を攫った風は嵐を中和し、やがて辺りに平穏な海が戻った。波の余韻に揺れる船はあちこち損傷し、それを雲間から降り注ぐ日差しが照らす。瞬きの間の天地は過ぎ、ただ美しい紺碧の海に船は取り残された。
矢を放った体勢のままじっと異形の顛末を見据えていた少年が、突然荒い息とともに膝をつく。カレンは重くなったワンピースの裾を持ち上げながら駆け寄ると膝を折り、胸を抑える少年の肩に両手を添えた。
「大丈夫ですか? 勇者様──本当にありがとうございます! やはり伝説の勇者様は存在していて……とても素晴らしいお力をお持ちなのですね」
少年は何とか息を整え、濡れた亜麻色の髪の間で日差しを浴びて煌くマリーゴールドの瞳を見上げた。
「……っその、”ユーシャサマ”っての……さっきから何なんだ……」
完全なる憧憬の眼差しに眉を寄せ、少年が頭を垂れる。するとカレンは口元を押さえ、目を丸くした。
「──そうでした! きちんとお名前でお呼びしなければなりませんわね。わたくしは、カレンドラと申します。あなたのお名前をお聞かせくださいませんか?」
少年の困惑も動揺も、陽だまりのようなカレンの笑顔と柔らかい声に打ち消されていく。そのまま促されるように、少年は口を開く。
「タケル……」
「タケル様──耳慣れない響きですが……とても素敵なお名前ですね」
呑気に自己紹介を始めた少年少女に呆気に取られていたヴァルターは、溜息を溢す。だがその意識を現実に引き戻したのは、デッキからのクルーたちの声だった。
「ヴァルターさん、船の状態が芳しくありません! 魔導動力炉の燃料をもってしても、エレヴァンに帰還するのが精一杯かと……」
「分かった。修理できる箇所は直ちに取り掛かれ。とにかくエレヴァンに帰還することを最優先に動こう。オレはアーミル家の方々に事の顛末を報告に向かう」
階下のクルーに指示を出すと、ヴァルターは濡れて張り付く執事服のベストを忌々しげに脱いだ。そして主人の方を振り返れば、少年少女は相変わらず寄り添うように向かい合い、その場に座したまま何やら語り合っている。──正確にはカレンが、一方的にタケルに語りかけている。ヴァルターは再び肺の奥底に溜まった空気まで吐き出すように、深いため息を漏らす。そして居住まいを正すと、革靴の音を立てて二人に近づき、両手を腰に当てた。
「いつまでそうしているのですか! カレン様、ひと先ずお召替えを。その後アーミル家の方々に説明に上がらねばなりません。──勇者とやら、貴様も濡れ鼠のままでは困る。……諸々の事情は落ち着いた後に説明してもらう」
「ええ、ヴァルター。さ、タケル様、こちらへいらしてください」
今度は素直に返事をしたカレンが立ち上がり、タケルに手を差し伸べる。タケルがおずおずとその手を取ると、そのまま手を引いてラダーへと向かう。穏やかな押しの強さに困惑しつつ、タケルがそれに着いていく。その背に再びヴァルターの硬質な声が投げられた。
「カレン様、まさか自室に連れて行かれるおつもりですか⁈ いけません! ──おい、貴様はオレと一緒に来い!」
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