第3話 封印されし混沌の奈落

「ダンジョンとは、畏怖され敬遠され踏み込むだけで震えるほどの混沌に満ちた闇でなければならないのだ。しかし、放っておけばそこから湧き出る魔物に蹂躙されるという危惧も与えてやらねばならない。存在を示し! 畏怖を集め! 避けて通れぬ関門たりうることこそ! ダンジョンのだな──」

「それはまあ、それらしいのだけど? 前にその方針でやっていて、ついに封印されたわけでしょ、あなた?」


 静かに着席した俺は、反論を考えながらバタークッキーに手を伸ばす。

 サク、サク、サク、と噛みながら思考を巡らせるが反論が浮かんでこない。

 封印から何年経ったのか正確なところはまだわからないが、魔王軍の幹部として混沌の前線基地たるダンジョンを開いたにもかかわらず、情けなくも封印されたのは言い逃れができない事実だ。

 ……俺だって反省はしている。魔王様にどう言い訳しようか考えていたし。


「そ、そんなに落ち込まなくてもいいわよ……──ああもう、私が悪かったわよ。でもほら、事実は事実としても、こうして復活できたのだからね? 完全な負けってコトじゃないんじゃない?」


 取り繕うように励ましてくるミリスティアは、焦ったように笑みを浮かべて手を動かしながらいろいろ言い募ってくる。

 慰めか。余計惨めになってきた。


「──やめろ。人間の分際で僕を励ますんじゃない」

「やっぱりあなた、本当の一人称は僕なんでしょう?」

「うるさいな」


 ソファの上で膝を抱えながら、マドレーヌとバタークッキーの皿をテーブルから取って次のマドレーヌを口に運ぶ。


「…………そうやってバカにしてればいいだろ。どうせ負けたんだ。敗者は誹りを受けても致し方ないとも」

「──はぁ。言い過ぎたわよ。ごめんなさい。ええと……それじゃあ、これ……」


 コトン、とルビー色の何かが入った瓶をテーブルに置いたミリスティアを見上げると、あいつはその瓶を開けた。

 そして、自分が最初に出した飾り付きの皿からパンの出来損ないのようなものを手に取る。半分に割ったそれにトロリとルビー色のそれを掛けて、こちらの皿にことりと置いた。甘酸っぱい香りが皿から立ちのぼり、舌の奥から唾液が滲み出てくるような感じがした。


「食べてみて?」

「……………酸っぱくて、甘い。これは……?」

「ストロベリージャム。うちの庭で採れた赤い実を毎年ジャムにするの」


 夢に見た草原の、赤い果実。ワイルドラビットの一団が手土産に持ち帰ってきたあの赤い果実の味がする。

 あの時、また持ってきてくれと頼んだっけ。あいつらは勇者とやらに滅ぼされてしまったな。結局ダンジョン生物を出しても出しても敵わず、最後には──……。


「これは──とっても美味しいな。うん……懐かしい味がする」

「じゃあ、これで仲直り。そうしない?」

「そんな簡単に気分を変えられるほど、単純じゃない」


 そう言って、瓶に手を伸ばす。

 手に取ってコントロールルームの照明である白い炎、魂の灯に翳す。

 闇に煌めく光は見事なルビー色になり、宝石よりもなお深く鮮やかに輝いている。


「だが、引きずるほど子供でもないぞ俺は。…………これを瓶でいくつかくれるなら、話の続きを聞いてやる」



◇◆◇



 それから、ミリスティアは紅茶とかいうものを俺に差し出してから、ストロベリージャムを勧めてくる。


「本当はスプーンに盛って、紅茶を楽しんでから口に含むのが正しい作法だけれどうちみたいな貧乏貴族じゃそんなの気にしないで農家風に混ぜてしまうの。たっぷりいれて、甘酸っぱくなるまで」


 スプーンで山盛りにジャムを掬って、三杯ほど入れる。もう少し入れたいが、ミリスティアはもうそれくらい、という風に指を振る。


「…………これは気に入った。今度からこっちを飲むことにする」

「気に入ったみたいね。──それじゃあ、続きを話しましょうか?」


 スッ、と指を立てたミリスティアはテーブルにほっそりした指を乗せて、魔術書を書くように指をすらすらと動かしながら話し始めた。


「このダンジョンの燃料は感情の揺れや、魂の昂りだということが何となく掴めてきたわ。そうすると、私はこのダンジョンを──」


 トンッ! と指をテーブルに打ちつけたミリスティアの群青色の瞳が、魂の灯に照らされて爛々と光っている。

 思わず、ジャムの香りがする紅茶を飲む手が止まる。


「何度も訪れて、必死に、夢中に、足掻き、求め、喪い、得るような訪れるものが昂り熱狂するダンジョンにしようと思うの。そう──このダンジョンから離れられなくなって、寝ても覚めても次はどう攻略しようか、どんな宝を狙おうかを考えるような、そんな場所にね」

「…………寝ても覚めても、次を考える?」

「そう。だってそうでしょう? 命を落とすような危険地帯ならやがて凄腕の冒険者や、軍隊に攻め落とされるかもしれない。そんなのオチが見えているわ」


 爛々と光る瞳がスッと細められ、炯々とした輝きに変わり、さらにミリスティア──いや、欲望のダンジョンマスターは続ける。


「でも命を落とすでもなく、適度に金銀財宝が得られて、時に何もかもロストするような達成感と満足感と喪失感と焦燥感でぎりぎりまで締め上げるようなものなら? ……きっとこの地は欲望で膨れ上がるわよ。その膨れ上がった欲望は、ダンジョンを潤し、やがてこの地を潤す」


 そして彼女は語る。莫大な形なき財で望むものを買うまでの道筋を。


「このダンジョンが魅力的で中毒性があれば──遠からず、ここに潜る人間たちを相手にする商売が生まれる。そして彼らが持ち帰る財宝を売り買いする市場が生まれ、膨れ上がる商売と市場が人口と経済を育てる。やがて大きく育った人口と経済は領主家を名家へと押し上げる。そうすればリュミエルに伸びる魔の手は届かなくなり、自由に恋して結婚相手を選べる。人々の血ではなく、汗と涙がこの地を潤すの」


 まるで闘志をみなぎらせるような口ぶりでそう語ったミリスティアの白い頬は、ストロベリージャムを溶かしたように赤く染まっている。

 俺はその姿に息を呑み──それから、浮かんできた最大の懸念を指摘するために口を開いた。


「それは──それこそ危険地帯だろう。まさしく欲望のるつぼだ。それを巡って人間は絶えず争っていた、と私は記憶しているが? いったいどうやってそれをいなすつもりなんだ?」

「そうね。力と地位と名誉を持つ業突く張りは、いつもそうやって欲望の渦を手中に収めようとするわ。そうねえ……そこは我がフィッセルブルク家の采配に懸かってくるわね。まあ、そんな人間同士の旗の奪い合いは貴方の仕事じゃないわ」


 そう言い切った彼女は、指先で紅茶のカップを摘まんで目を細めながらスッと口に運んで、真っ赤な唇をぺろりと舐めた。

 それはまるで、欲望という獲物を前に舌なめずりをするような仕草だった。


「──それは、フィッセルブルク家の仕事」


 そこまで述べたミリスティアは、スッと指をテーブルに置いた。そしてサラサラと指先を動かして、続きの話を始める。

 俺はその指先を見つめながら、もう一度紅茶のカップに口を付ける。甘酸っぱい香りに、ふくよかな香りが入り混じるそれを口の中で転がして沈黙する。

 そこでふと気づいてしまう。

 いつの間にか、ミリスティアの言葉に聞き入ってしまっていたことに。

 慌てて咳ばらいをして、ミリスティアに忠告をしておく。


「ンン! 人間の欲望というのは確かに強い。人間は多くのものをそれだけで征服してきたんだからな。しかし、それはその──ロマンがない。汚い物語ばかりになるじゃないか」

「──え?」


 俺の言葉に、ミリスティアは心底不思議そうな声を出した。

 不思議そうにするのがわからないが、こいつは生き様の物語と言うやつを知らないのだろうか?


「俺のアビスは、戦いの美学や一命を賭けるロマンがあった。死ぬこともほとんどなく、ただ藻掻きさえすればいつかは得られそうな生ぬるいところには、美学もロマンもないじゃないか」

「アビスって、意外とロマンチストなの?」

「そういう話じゃない。ただカッコつけて言ってるわけじゃあない。戦う人間の命がけの輝きがあればこそ────」


 そこまで言った俺に、ミリスティアは弓弦に弾かれて空を切り裂く矢のような視線を向ける。


「アビス? 日常を生きる人々が命がけじゃないとでも思ってるの? この国の領民が、魔族と戦う戦線を支えるために税に喘ぎ、富を持てず、奪い奪われしている人々の暮らしが命がけじゃないと?」

「────それは、どういう……」

「武器を持って華々しいところで戦う人間だけが戦っているとでも? ハッ。莫迦じゃないの? 毎日の暮らしでほんの少しでも愛する者に良い物を与えたいと願うのも、立身出世を夢見て少しでも稼ぎを得られる場所を望んで身を投じるのも、得られる稼ぎに期待を掛けてそれを受け取る人の笑顔を考えるのも──」


 轟々と燃える青い炎のような瞳が輝いている。

 欲望という言葉では語りつくせない、切なる願望を説く彼女はまるで怒りと誇りを燃料にして輝いているようにすら見える。


「──すべて、命がけの戦いなのよ? これは私たちの戦いでもあり、このダンジョンを訪れる人々の願望のための戦いなの」


 その言葉に、俺はカップの中に視線を落とす。

 生きているだけでは満たされない、無限の欲望。それこそが魔大戦で我々と戦った人間という種の強さの根底だった。しかしその根幹は、飢えと渇きという決して消えない渇望だった。

 あの時、我がダンジョンを踏破して迫ってきた勇者が背負っていたのは美学でもロマンでもなかった。勇者の心に燃えていたのは、飢えと渇きに苦しむ人々の渇望を背負った──巨大な怒りだった。

 その渇望がどれほど深いのかは、ダンジョンの石壁に囲まれた空間で最期を迎えた者たちの嘆きや喘ぎで俺はよく知っている。

 彼らは水と食べ物を求めていた。少しでも多く愛した仲間に与えるものを求めていた。一言たりとも、美も夢も語っていなかった。


「……なるほど。よく理解できた。多分、君が思っているよりも」

「──そう? ならいいわ。まあでも、大言壮語を吐いたとてやることは地道なところからね。いくらビジョンを語ったとて、一枚の銅貨にもならないもの」


 顔を上げると、ミリスティアははにかむように笑って俺に言う。

 まるで散歩に行くときにカバンの中を確かめるような、そんな軽い口調で続ける。


「まずは、できることと、持っているものの確認からよね」



◇◆◇



 そう言ったあと、ミリスティアは何度か頭をひねってからなにかを呼び出そうとするのだがうまくいかずに腕を組んでいた。


「何が出したいんだ? ミリスティア」

「ミリスでいいわよ。私もアビスって呼ぶから。地図を出したいのよ地図。私の記憶にある地図だと、ほら。こんな落書きみたいなものしか出てこない。この力なら正確な地図が出てくると思ったのだけど……」

「地図? これか?」


 俺が手をかざして羊皮紙に描かれた世界地図を出すと、ミリスはナイスと小声で言う。それからペンとインク壺を呼び出して、地図を睨みだす。


「この地図、ちょっと地名が違うわね? ん~……でも、私が見たことがある略図と違っているようでもないし……」

「む。地名とは?」

「今いる場所はわからないけれど、ここ。ここからここは魔族領ではなくて人間領。それから、これ。おそらく魔族の本拠地なのかしら? そこに領土と書いてあるけれど、所有者の名前がデミウルゴスじゃない」

「は? デミウルゴス? なんで悪魔族の名前がそんなところに入るんだ」


 顔を上げたミリスティアは不思議そうな顔をする。


「魔王デミウルゴスよ。魔族の首領でしょ」

「違う。魔王様の名前はデウス・ウル・ケイオスだ」

「それっていつ頃の話?」

「いつ頃、と言われても……。人間と私たちでは暦が違うのだから、わからないのではないか?」

「じゃあ、アビスが封印されたのっていつ頃だったの?」

「魔大戦だ」


 ミリスティアは目を丸くしてペンを取り落とす。

 ここにやってきて初めて驚いた顔をしたその様子に、むしろこちらがびっくりしてしまう。手から零れ落ちたバタークッキーを拾い直して、俺はもう一度確認する。


「魔大戦から時間が経っているのはわかるが、今はどれくらい経ったんだ?」

「千年よ? あなた千年も封印されていたっていうの??」


 千年──。

 魂の灯が、ほんのわずかに揺らいだ気がした。


「──そう、か。そんなに経ったのか」


 ソファに腰かけて、バタークッキーをもう一枚口に運ぶ。

 そうか、千年か。

 だが、千年など魔王様にとっては瞬きのようなものだったはずだ。

 やはり──あの勇者に討たれたのだろうか。


「魔大戦、我々は負けたのか」

「いいえ。実質引き分けの、人類側勝利と聞いているわ」

「なんだその曖昧な……混沌と秩序の殲滅戦争がそんなぼんやりした結末になるわけがないだろう?」


 ソファから身を乗り出して尋ねると、彼女は首を左右に揺らした後に手を虚空に向けてからズルッと分厚い書物を取り出してくる。


「私が口で説明するより、読んだほうがわかるんじゃない?」

「記憶から出てきた書物でか──いや、これは違うな。創造物じゃないな、複写品だと?」

「え、私が出したものだけど? 何か違うの? 複写品って」

「その魔法は俺が与えたものだぞ。わかるに決まってるだろう。まあ待て──俺の疑問が先だ」


 おそらくこれは人間側の書物だ。

 人間側のプロパガンダも混じっているのだろうとは思うが、ずいぶんとこれは思いきった内容だ。勇者を賛美するでもなく事実列挙に徹した内容とは……人間にも骨がある奴がいるんだな。

 パラパラと頁をめくっていき、魔大戦終末期の記述を発見してその内容に目を通していく。

 そして見つけた奇怪な文章は、目で追うだけでは収まらず──俺の口からも零れ落ちた。


「魔族王デミウルゴスが殲滅戦となる大戦を憂いて、勇者を通じて人間界と取引を行い人魔大協約≪グラン・コード≫を締結。勇者と共に魔王クェウースを討つ……なんだこいつは? 知らんぞ。ああ、言葉に揺れがあるのか」


 バサッと頁をめくって注釈部分を読んでいく。


「ああ、これは人間の言葉なのか。魔族の呼び名では……──混沌の神? ウルケーノス、または──ウル・ケイオス」


 思いきり振りかぶって本を床に叩きつけた。

 頭が怒りに染まるままに、およそ容赦なくその本を蹴飛ばすが

到底気が済まない。


「デミウルゴス!! デミウルゴス!! デミウルゴス!!! あの汚らわしい悪魔族の裏切り者ッ!! 何が魔族王だ!! 奴は──たかが悪魔族の首領でしかないッ!!」


 室内にまるで周囲すべてが震えて軋むような音が鳴り響き、魂の灯が白く眩く燃え上がる。テーブルの上のカップが震えて転がり、バタークッキーとマドレーヌがばらまかれるがそれどころじゃない。

 怒りだ。目の前を真っ赤に染めるような怒りが、俺の髪の毛を逆立たせる。


「ちょ、ちょっとアビス!!」

「うるさいッッ!!! あいつ、あいつ魔王様を裏切って覇権を握りやがったんだッッ!! ──ッ……!! 混沌神の加護を受けておきながら!! 秩序神に尻を振ってッ!! 裏切りやがったッ!!!」

「ちょっ!! 落ち着きなさい、落ち着いて!!」

「クソがぁぁああアア!!!」


 手のひらを書物に向けて、魔力を漲らせて火球を打ち出す。

 拳大の炎の塊がぶつかった本は勢いよく燃え上がり、身をくねらせるように灰になっていく。


「クソッ!! クソッ!! クソがッ!!」


 夢中で石の床を殴りつけて叫ぶ。

 もはや虚ろなコントロールルームに、俺の叫びが吸い込まれて消えていく。

 地面にくず折れて拳を叩きつけようとしたところで、俺の手を包み込む手のひらがあった。

 ミリスティアだ。


「やめて。──血が出てる」

「…………すまない。取り乱した」


 ゆっくりと立ち上がって、顔に掛かる前髪を払い飛ばすように腕を払う。

 俺の怒りで散らばった菓子やカップ類がするすると元の位置に戻っていき、地図にしみ込んだ紅茶がカップに戻っていく。


 どっかりとソファに腰かけて、大きなため息をついた。

 魔王様は死んだ。それはつまり──俺はもう拠り所を失ったということだ。だが、同時に頭の隅にあった裏切りというくびきもまた消え去ったということだ。


「──……ねえ、大丈夫?」

「大丈夫だ」


 ダンジョン・マスターキーを解かれてこの人間に従うことになったことを、魔王様は『それこそ混沌である』と笑ってくれるだろうかと思っていた。なのに、もう笑ってくれる魔王様はいない。

 だが、これも善い。

 ────混沌とは己で作るものだ。

 俺の崇敬する王は、そう俺に教えてくれた。


「──……いっそ爽快な気分だ。何も悩むことなく、作り出してやる」


 ソファから立ち上がって、儚げにすら見える細身の人間の娘を見つめる。

 ならば──秩序から生まれ落ちたにも関わらず混沌を孕んでいるようなこの娘……ミリスティアとどこまでもやってやろう。


「さあ、望みを聞かせてくれ……。マイマスター・ミリスティア」




____________つづく




アビス君、激おこぷんぷん丸のち、覚醒。

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