コンテナの向こう側

@isshobouzu

コンテナの向こう側

 夕方の労働街は、いつものように薄い鉄の匂いが漂っていた。

 工場群の隙間を抜ける冷たい風は肌を刺し、錆びた鉄骨の匂いを引き連れる。俺は歩くたびに軋む義足の付け根を押さえながら、店じまいの準備をしていた。

 といっても、店と呼べるほどのものではない。廃工場跡の一角に勝手に作った簡易の作業台と、小型の発電機、拾い集めた工具がひとまとめになっているだけだ。だが、この街ではこれで十分だった。故障した小型端末、壊れた換気ファン、落下で基盤が割れたドローン、そういうものを引き取って直すだけで、一日分の食費にはなる。


 今日は珍しく客が多かった。昼から断続的に人が来て、そのたびに修理の内容を聞いた。機器を分解し、古いパーツと組み替え、基盤を焼き直す。機械の調整は慣れれば片脚でもできる。はじめは細い配線を屈んで扱うとき、バランスを崩して身体が揺れることもあったが、それも数年繰り返せば勝手に体が慣れてくれる。


 最後の客は、向かいの鉄板で作った集合住宅に住んでいる男だった。古い携帯端末をぶん投げて壊したらしく、画面の半分が黒い影になっていた。

 「またかよ」と俺は言いながら受け取ったが、直せる範囲だ。画面を固定していた接着剤を剥がし、ヒートプレートで歪んだ枠を一度柔らかくしてから押し出す。背面の基盤を外し、新しく拾っておいた同型落ちの端末から部品を移植すると、端末はかすかな振動とともに起動した。


「助かった。また暴れて壊しても直してくれよ」


 男は冗談めかして言い、小さな紙幣を二枚置いていった。この街の人間は気が荒いが、払うものは払う。


 作業台を片付ける頃には、空が暗い紫色に変わっていた。外灯は半数が壊れて点いていない。薄闇が路地を塗りつぶし、遠くでパトロールドローンの低い羽音が聞こえる。

 普段と同じ一日。特に良いことも悪いこともない。だからこそ、俺はこういう日が好きだった。


 発電機のスイッチを切り、工具箱の蓋を閉める。簡易テントの布を巻き取ってリュックに詰める。この街では盗みは当たり前のため、少なくとも貴重な荷物は身の近くに置いておかなければならない。


 荷物を肩にかけると、身体の重心がわずかに傾いた。義足で歩くときはこの傾きを意識しないと、段差で転びやすい。脚があった頃は当たり前にやっていた「立って歩く」という行為を、今は頭できちんと考えたうえで行わなければならない。


 その時、作業場を離れて数十メートル歩いたあたりで、警備局のサイレンが聞こえた。

 この街では珍しい音だった。


 ちょうど労働街の中心通りに差し掛かろうとしていた時、普段は来ない種類の大型装甲車が二台、並んでゆっくり進んでいるのが見えた。黒い車体に政府警備局の紋章が貼られ、側面には外付けのライトが点滅している。道路脇の住民たちがざわつき、習慣的に壁際へ避けていく。


「なんだぁ今日は……」

「あんなにサツが来るなんて、俺は十年いて初めて見るぞ」

「あいつら、この街なんて興味なかったじゃねえか」


 誰もが口々にそう言った。俺も同感だった。治安維持に金を使うより、壁で囲んで放置するほうが安上がりだと政府が判断している以上、この地区は見捨てられて久しい。何か特別な理由がなければ、ここに警備局が大挙して入ってくることなどない。


 装甲車の後ろには、装備を固めた警備局の隊員が十数名歩いていた。ヘルメットのバイザーは黒く、顔は見えない。銃は抜かれてはいないが、いつでも構えられる位置にあり、その無言の圧力が街全体を固くした。

 俺は作業道具の入ったリュックを少し抱え直し、通りの端を歩いた。


 隊員の一人がメガホンを持ち、通りに響く声で叫んだ。


 「住民に告ぐ。現在、この地区に逃走中の大量殺人鬼の女が潜伏している。年齢は十代後半から二十代前半、身長百七十五前後。体に大きな怪我を負っているはずだ。女を見つけた者は、近づかずにすぐ通報しろ」


 ざわつきが一段階高まった。


「女の殺人鬼だってよ」

「なんだそりゃ……ただの噂だと思ってたが、マジなのかよ」

「ここに入り込んでんのか……怪我してるって話だが、どれだけ危険なんだよ」


 通りの奥の方で、別の隊員が住民に乱暴に質問しているのが見えた。

 警備局はスラムを嫌っている。この街に住んでいるというだけで、俺たちは最初から真っ当な扱いを受けない。


 俺は少し息を吐き、警備の列から離れるように裏道へ進んだ。次の日に体力を残すためにも、家路はなるべく早く行きたい。


ーーーーーーーーーーーー


 夕闇の路地は湿った臭いが広がっていた。

 水道設備はとうに壊れ、配管から漏れた排水が地面の下で腐っている。細い道の両脇には、傾いた建物が上から押しつぶしてくるような感覚があった。


 俺は義足の付け根の違和感を感じながら歩いていた。こういう狭い路地では、足元にある小さな段差でも躓きやすい。


 ――小さな怒声が聞こえた。

 最初は、どこの家の喧嘩かと思った。金属が蹴られるような高い音が混じって聞こえた。

 路地の曲がり角に差し掛かったとき、見えた。


 五人の不良が、ひとりの女を囲んでいた。街灯は壊れていて暗いが、女は背丈が高く、痩せていて、長い髪が肩に落ちている。服は汚れて破れていた。


 不良の一人が、女の腕を掴んで引き寄せた。


「どこからきたのぉ?」

「動くんじゃねえよ、ねえちゃん。金でも何でも置いてけよ」


 女は答えなかった。身体をわずかに揺らしただけだ。

 助けないと――そう考えた瞬間、身体が前へ出かけた。


 だが、次の瞬間、状況は一変した。


 女が、ほんの一瞬だけ身体を沈めた。

 それから、信じられない速さで跳ねるように前へ踏み込み、腕を振った。


 不良の一人の顔に、乾いた衝撃音が響いた。鈍い音ではなく、何か固いものが割れたような音。不良はそのまま地面に崩れ落ち、動かなくなった。


 残った連中が叫び、女を囲み直すより早く、女の身体は滑るように動いていた。

 拳、肘、膝、足――どれがどれだけ動いたか、俺には見えなかった。ただ一つずつ潰されるように、不良たちが倒れていった。


 俺は腰を抜かした。足下の義足が地面を滑り、尻もちをつく。心臓が痛いほど早く打っているのに、身体がまったく動かなかった。


 最後の一人が壁に叩きつけられた頃、女はゆっくりこちらを向いた。

 暗がりの中で、白目が一瞬光ったように見えた。


 女は俺に歩み寄った。


 腕を上げた。殴られる、殺される――そう思った瞬間、女の視線が俺の脚に落ちた。


 義足。


 俺の右脚がない部分を見つめて、女は動きを止めた。

 そのまま、なにもせずに背を向け、路地の奥へと消えた。


 俺はしばらく呼吸が乱れたまま動けなかった。喉が渇き、息が痛い。なんとか地面に手をついて身体を起こし、不良たちに近づく。


 一人は頭を打って倒れ、こめかみから血が流れていた。俺は自分の服の裾を裂き、傷口に当てて押さえるように巻きつけた。

 別の一人は胸を押さえ、浅い呼吸のまま白目をむいて痙攣していた。俺は仰向けのままにならないよう、肩を支えて横向きに倒した。


「おい……誰か!誰か来てくれ……!」


 声は路地の奥へ吸い込まれていったが、しばらくして近くの家の扉が少しずつ開き始めた。

 見に来た住民たちはその数を見て顔をしかめた。誰かが短く「また喧嘩か」と言った。このスラムには警備局を呼ぶという発想も、率先して助けるための技術もない。


 さっきの女の姿は、もうどこにもなかった。


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 不良たちは近くの屋内に運んだ後、しばらくのあいだ俺と住民たちの手当てをした。しかし、五人の内三人は呼吸も心臓も止まってしまった。恐らく死因は脳をひどく損傷したことだろう。もっとも、医者などこの街にはいないため分からないが。


 しばらくすると、「警備局の車が何台も来ている」という噂が流れてきた。


「なんかあったらしいぞ。女を探してるとか……」

「さっきの騒ぎと関係してるんじゃねえか?」

「知らん。けど、あの数は普通じゃねえ」


 普段この街を無視する警備局が、夕方から夜にかけて異例の規模で動いているらしい。

 俺は不良たちを迎えに来た人たちを見送り、ようやく自宅に戻ろうとした。


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 家の近くまで戻ったころ、路地の入口で制服の警備局員数名が立っているのが見えた。

 ヘルメットのライトが俺の顔に向けられ、照らされる。


「そこの男。少し話を聞かせてもらう」


 拒否権はなかった。

 俺が事情を知っている可能性は高いと判断されたのだろう。

 ......やっぱりあの女が。


「さっき、このブロックで傷害死があったと通報が入った。目撃者として事情聴取が必要だ」


「……通報」


 誰がしたのかはわからない。

 だがスラムに住む人間に通報で警備局が動くのは全く珍しい。

 しかし今日は、警備局が異様なほど動いている。


「歩けるな。こっちだ」


 義足側の腕を雑に掴まれ、俺は押し出されるように連れて行かれた。


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 警備局の建物は、労働街の外れにある旧倉庫を改装したものだった。内部は白い光で過剰に照らされ、床はやたらとよく磨かれている。


 取調室だけは逆に薄暗かった。天井の中央にだけ白い光が落ち、机の上と俺の顔だけがはっきり浮かび上がる。壁際は影に沈み、監視カメラの赤いランプだけが点いている。

 取調室に通されたとき、俺は少し目を細めた。蛍光灯の光は、手製の義足に付いた擦り傷までやけにくっきり浮かび上がらせる。


 部屋の真ん中に古い机が一つ、その片側に椅子が二脚。もう片側に一脚。壁には監視カメラとマイク、それから録画中を示す赤い小さなランプ。


「座れ」


 言われた通り、椅子に腰を下ろした。背もたれが低く、妙に座り心地が悪い。


 向かい側には二人の男が座った。一人は階級章を付けた年配の警部らしき男、もう一人は若い補佐役だ。


「名前」


 年配のほうが、タブレットに視線を落としたまま言った。


「ルイス・エレラ」


「フルネームだ」


「……ルイス・エドゥアルド・ペレス・エレラ」


「住所」


 俺は労働街のブロック番号と、棟と部屋を告げた。警部は最低限の相槌だけ打ち、表情を変えない。


「じゃあ、始める。さっきの件について話せ。見たものを順に言え」


 俺は深呼吸を一度してから、見たままを話した。


 帰り道だったこと、不良たちが女を囲んでいたこと、助けようと思って近づいたこと、その直後に女が不良たちを一瞬で叩きのめしたこと。そして、自分が腰を抜かし、動けなかったこと。


「女は怪我をしていたか」


 その問いには、一瞬だけ言葉が詰まった。

 胸部の血。暗がりでも分かるほどの黒い染み。


「……ああ。胸を押さえてた。血が出てたと思う」


 警部はようやくタブレットから顔を上げた。目は笑っておらず、ただ冷たかった。


「……その後女はどっちへ行った」


 俺は頭の中で路地を思い浮かべた。


 女が消えたのは、労働街の中央通りに続くほうではなく、裏の"古い工場群"へ抜ける細い道だった。そこからさらに進めば、高速道路の高架下を通って、街の境界へと近づける。

 だが俺が「見ていた」のは自分だけだ。路地に集まった人間たちは、女が去ったあとにやってきた。


「どっちだ」


 警部の声は、さっきよりわずかに低くなった。

 俺は口を開きかけて、言葉が喉で止まるのを感じた。


 こいつらは早く女を捕まえたいのだろう。

 それは分かる。大量殺人犯だとラジオでもやっていた。警備局が全力を出すのは、大事になって政府からケツを叩かれたときだけだ。


「どっちだと聞いている」


 机の上に、警部の指が軽く叩きつけられた。音は小さいのに、部屋の中でやけに大きく響いた。


 ……そういえば、女は俺の脚を見て、何もしないで去った。


 なんであいつは俺を殺さなかったんだ。あの時少しでも腕を振っていたら、俺はここに座っていない。警備局にあいつの居場所の手がかりを探られることもなかっただろうに。


「……民間の居住区のほうだ。工場群とは"反対側"」


 タブレットの上で、若い補佐役の指が走る。


「中央通り側に向かったと?」


「そうだ。走ってはいなかった……ふらふら歩いてた」


「本当か?」


 その言い方は、すでに俺が嘘をついている前提のようだった。


「本当だ」


 自分の声が思ったよりも冷静なのに気づき、逆に戸惑った。

 警部はしばらく俺を見つめていたが、やがて興味を失ったように視線を落とした。


「他の証言とは違うな」


 補佐役がぽつりと言った。


「今までの連中は女の姿を正確に見れていなかった。何より報奨金目当てにあっちだのこっちだの嘘をついている可能性が高い。だが、男五人を一人でここまでやってのけるような、胸を負傷した女の話をしたのは、この男だけだ」


 警部が淡々と返した。

 警部はタブレットを閉じ、椅子から立ち上がった。


「お前、ルイスだったな。職業は」


「個人修理屋。廃材回収と機械の修理」


「正式な登録は」


「ない」


「だろうな。どうせ税金もろくに払ってないだろう」


 わずかに口の端が歪んだように見えた。


「スラムの住民は、いつもそうやって宙ぶらりんだ。義務は果たさない。責任も曖昧なまま生きる。迷惑をふりまくだけだから権利も与えられない。もう少し努力をしたらどうだ。なぁ?」


 警部がそう言うと、横の補佐役が小さく吹き出した。


「努力するくらいなら、こんなとこに住んでませんよ」


 二人は視線を交わし、声を殺して笑った。短い笑いだったが、からかう対象がどこにいるのかだけははっきりしていた。

 その言い方は、俺に聞かせてやっているという口調だった。


「じゃあ、今日はここまでだ。何か思い出したことがあれば、警備局へ情報を寄せろ。報奨金が出るかもしれんぞ。よかったな」


 報奨金、という単語だけが軽く響いた。


 部屋を出ると、廊下の空気は消毒液の匂いが強かった。

 案内役の隊員に連れられて建物を出ると、外はもう夜だった。労働街の方角に、うっすらと橙色の光が広がっている。


 門を出てから、俺はしばらく歩かなかった。夜気が肺に入るたび、胸の奥が重くなる。

 脚が痛いのか、心臓が痛いのか、区別がつかなかった。


 ふと、妹の顔が浮かんだ。

 まだ子どもだった頃の、痩せた少女。

 母親に似た、黒い髪と黒い目。俺や父とは明らかに違っていた。


 母は早くに死んだ。街で広まっている噂では、父の暴力が原因だと言われていた。

 正確なことは分からない。だが、父が酒を飲むたびに何かを殴らずにはいられない男であることは、子どもの俺たちは“身をもって”十分理解していた。


 妹が殴られる日もあったが、あの頃はまだ、手加減というものがわずかに残っていた。

 ただ、ある夜、父の視線が変わった。

 妹の身体に、大人の輪郭が出始めた頃だった。


 ……そして俺はあの夜。


 その夜の光景を思い出しそうになって、俺は首を振った。

 労働街へ続くバス停の前で立ち止まり、ベンチに腰を下ろす。

 義足の金属が冷たい。


 さっきの女の顔と、妹の顔が重なった。少し顔が似ていた。

 もちろん、骨格も、目の形も、年齢も違う。理屈では分かっている。

 それでも、「あいつが大きくなったらあんな顔になるかもしれない」と一度思ってしまったら、簡単には頭から離れなかった。


 俺は立ち上がった。

 帰るしかない。

 明日も、日銭の仕事をして生きていかなければならない。


ーーーーーーーーーーーー


 数日が過ぎた。

 空はいつも工場の煤で濁り、風は排水溝の臭いを引きずって流れていく。俺の生活も特に変わらなかった。修理の道具を担いで仕事場へ行き、壊れた機械を直し、日銭を稼ぎ、夜は鉄板屋根の薄暗い集合住宅の一室へ戻る。それだけだった。


 ただ、あれからずっと、あの女のことが頭のどこかに常に張り付いて離れない。


 逃がしたわけじゃない。俺はただ、逃げる方向を偽った。

 女がどうなったか、ラジオでは続報がない。

 あの化け物みたいな動きを思い出すたびに、「死んでいないかもしれない」という思いが胸の奥に小さく残った。


 そんな折だった。


 ある晩、スラム街の中心部から黒い煙が上がった。最初は小さかったが、風がひとつ向きを変えた瞬間、煙は炎の色に染まり、建物の外壁を舐めるように火が走った。

 誰かが叫び、どこかの家族連れが走り、警備局のサイレンが遅れて響き始めた。


「火事だ!東区画が燃えてるぞ!」

「おい、水は!?」

「水なんてかけてもしょうがねぇよ!」

「あぁ!まだ息子が中にいるんだ!」


 街全体が一瞬で地獄のような騒ぎになった。

 老朽化した配線が原因だという声もあったし、誰かの放火だと叫ぶ者もいた。政府の連中が「再開発のためにわざと燃やした」と怒鳴るやつもいた。何が本当かなど、混乱の渦の中では誰にも分からなかった。


 火はその晩のうちに、どうにか外側だけは押さえ込まれた。

 だが、翌日もまだ、どこかの建物から細い煙が上がり、焦げた匂いが街全体にこびりついていた。焼け出された連中は空き地や広場にテントを張り、簡易の配給所の前に列が伸びていた。


 数日が経つころには、焼け落ちかけた建物は放置されたままになり、支援もほとんど届かなかった。


 その放置が原因で街はさらに不安定になった。

 広場では、配給待ちの列が崩れ、争いが起き始めた。

 倉庫の扉がこじ開けられ、食料品を奪う者、押し返そうと殴り合う者が入り乱れ、地面には倒れた人間が何人も転がっていた。


 遅れて警備隊がやってきたが、統率は取れていなかった。

 怒鳴り声と命令だけが飛び交い、誰が指揮をしているのかすら分からない。

 隊員同士が動線を塞ぎ合い、住民とぶつかり、状況はかえって悪化していた。


 俺はここから離れないとまずいと判断し、人混みを抜け、よりおとなしい区域まで荷物を持って歩いていった。


ーーーーーーーーーーーー


 息を切らしながら、小さな廃墟のビルの一階に身を隠すように入った。


 ここは数年前に閉鎖された宿舎だ。内部はほとんど廃墟で、天井の剥がれた板が散乱しているが、スラムの人間がまだ住んでいる部屋もあり、古い布団やゴミが転がっている。

 その中で倉庫だったのだろう狭い空き部屋で俺は、しばらく呼吸を整えようとした。


 壁にもたれ、目を閉じる。

 暴徒の怒号が遠くでくぐもって聞こえる。少しだけ安全圏に来た気がした。


 その時だった。


 背後から、腕が首に回された。

 あまりに静かで、気づいた時にはもう遅かった。


 喉を締め付ける力は、完全に人間のものではなかった。俺の背中に重さがのしかかり、首の後ろに冷たい手の感触が食い込む。


 息ができない。

 喉が押し潰され、口から空気が漏れるだけになった。

 視界が白くなり、意思が薄れていく。


 だが、締めつける腕が不意に止まった。


 力がわずかに緩んだ瞬間、俺は前に体重を落とすようにして上体を沈めた。

 首に回っていた腕がずれ、その手首を両手で掴む。腰をひねりながら腕を引き下ろすと、背中に乗っていた重みがバランスを失い、俺の横へ崩れた。


 俺は床に倒れこみ、咳き込みながら喉を押さえた。

 世界がぐるぐると揺れる中、ゆっくりと振り返る。


 痩せた体つきに、焦げと血でまだらに汚れた服。

 ――路地で不良を叩きのめした、あの女だ。

 なんでここにいるのか、一瞬理解が追いつかなかった。


 あの時よりもさらに酷かった。

 あの時の怪我とは違い、腹部が大きく裂け、そこから腸がはみ出している。

 汚れた布が濡れたように張り付いていたが、それでも内臓の形が分かるほどだった。

 顔は血と煤に汚れ、頬は削れ、唇は乾き切っている。


 俺は思わず女の腹に手を伸ばした。

 裂けた布の隙間から覗くものを、これ以上直視すると頭がおかしくなりそうだったが、目をそらしている余裕はなさそうだった。


「……くそ」


 女の身体をゆっくり仰向けに倒し、壁際に転がしてあった古いマットを引き寄せてその上に寝かせる。倉庫時代の名残りなのか、隅には埃をかぶった毛布と、誰かが飲みかけて忘れたボトルが転がっていた。


 俺は自分の上着を脱ぎ捨て、義足側の膝をついて腹の傷を覗き込む。

 腹部の皮膚が大きく裂け、その間から灰色がかった腸が外に滑り出している。血は思ったほど噴き出してはいないが、代わりにどろりとした液が傷口の周りにこびりついていた。


「動くな。少し……押し戻す」


 自分でも何をやっているのか分からなかった。ただ、このまま空気と埃に晒しておくよりはマシだとしか考えられなかった。

 リュックから水筒を取り出し、残っていた水を手にかける。完全に汚れを落とせる量じゃない。この水も決して清潔ではない。でも汚れて乾いた手よりはましだと思った。喉が焼けるように渇いていたが、自分のために飲む気にはならない。


 外に出ている腸に、できるだけ触れる面積を小さくするよう指を添え、ゆっくりと腹の中へ押し戻す。

 女の喉がかすかに震えた。肩がびくりと揺れる。だが、悲鳴は上げなかった。歯を食いしばった首筋の筋肉だけが、硬く浮き上がる。


「すぐ終わる、我慢しろ……」


 俺は息を止め、腹壁の裂け目を寄せて合わせる。

 自分のシャツの裾を両手で裂き、大きな布片を作る。身体の向きを変えるたび、義足の付け根に鈍い痛みが走ったが、構っていられなかった。裂いた布を何枚も重ねて傷口に当て、その上からさらに女の服を破り、包帯代わりに巻き付ける。


 傷口を縫合する技術は俺にはない。

 工具袋を引き寄せ、そこからビニールテープと細い紐を引っ張り出した。

 修理の仕事で配線をまとめるときに使っていたものだ。布の上からきつく巻き付け、圧迫するように固定する。巻きながら、壊れた配管のカバーを無理やり押し戻してテープで固定したときの感覚が、生々しい形で手の中に蘇る。


 それが終わる頃、女が低く息を吐いた。


「……やめろ」


 かすれた声だった。


「殺してくれ。そのほうが早い」


 手が一瞬止まった。

 指先の力が抜け、巻きかけていたテープが重力でだらりと垂れる。


「……できない」


 喉から出た自分の声が、思っていたよりも小さかった。

 どうせ助からないだろう。理屈ではそう分かっているのに、傷口を見てからここまで動き続けた手は、まだ止まりきれていなかった。


 ふいに、妹の顔が浮かんだ。

 痩せた頬と黒い目。子どもの頃の記憶は、輪郭がぼやけているくせに、殴られるたびに歪む妹の表情だけはやけに鮮明だった。

 何もできなかった自分の、妹の腫れた頬を撫でた時の手の感触を振り切るように、今この手を動かしている。


「どうせ……私は死ぬ」


 女が、腹に巻かれた布の上から自分の手をそっと乗せた。


「私を殺したほうが、この街にとっても良い。火をつけたのは私なんだ」


 耳に届いた言葉に、遅れて意味が追いつく。

 身体の内側から汗が噴き出すような感覚がした。首筋に冷たいものが伝う。指先が勝手に震え、テープの端を掴み損ねる。


「……なにを、言ってる?」


「この火事は、私が始めた。殺したほうがいい。世のためだ」


 女の声は、感情を削り落としたように平らだった。

 倉庫の外ではまだ遠くで怒号がくぐもって聞こえる。焦げた匂いが、薄い壁を通り抜けてここまで染み込んでくる。


「これを……これを生き延びたら、また人を殺すつもりなのか」


 ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど掠れていた。


「そうだ」


 一拍も置かずに女は答えた。

 あまりにもあっさりした返答に、胸の奥がきしむ。怒りなのか、恐怖なのか、横たわる人間の口から「そうだ」と出てきたことへの違和感なのか、自分でも分からない。


「なんで……そんなことしたんだ」


 口が勝手に動いた。

 理由なんて聞いてどうする。聞いて納得したいのか。同情の余地を探して、見つけて、それで俺は何がしたいんだ。

そう思う一方で、それでも聞かずにはいられなかった。


 女は薄く目を開け、天井を見た。


「なんでって……」


 そこで言葉が途切れる。

 部屋の中に、女の荒い呼吸だけがしばらく続いた。


 俺の頭の中も、ようやく少しずつ整理され始めていた。

 こいつは、路地で俺を見逃した。あれだけの怪我を負っていたのに、不良を五人叩き潰してから、俺には何もしなかった。そして今も、さっき首を絞めたとき、途中で力を抜いた。


 ラジオや警備局が言うような「殺人鬼」そのままなら、俺はもうここにいないはずだ。


「……なにか事情があるんじゃないのか」


 自分でも、どこからそういう言葉が出てきたのか分からなかった。

 だが、一度口にした途端、それははっきりした形を持ち始める。


「俺は、お前を殺したくない」


 女の視線が、わずかにこちらを向いた。

 焦点の合っていない黒い瞳が、俺の顔をなぞる。


「どっちにしろ、私がもう助からないのは見て分かるだろう」


 女は淡々と言う。


「服まで破って包帯代わりにして。布の無駄遣いだ」


「助かるかもしれないだろ」


 俺は布を押さえ直しながら言った。

 そう言いながらも、現実にはほとんど望みがないことくらいは理解している。だが、その理解と、手を止めることは繋がらなかった。


 それからのしばらく、二人とも黙った。

 俺は女の腹の上に置いた手に体重をかけ、出血が少しでも収まるように圧迫し続けた。女は時折小さく呻き声を漏らしたが、それ以外は動かなかった。


 やがて夜が深くなり、廃宿舎の中の物音も少なくなっていく。

 配電が止まって久しい廃墟の中で、窓枠の向こうに見える炎の色だけが、ゆらゆらと形を変えながら天井を染めていた。


ーーーーーーーーーーーー


 いつの間にか、目を閉じかけていたらしい。

 外の騒ぎが遠のき、壁の隙間から淡い光が差し込んでいるのに気づいたとき、俺は慌てて顔を上げた。


 女は、まだ息をしていた。

 胸がわずかに上下している。唇は相変わらず乾いているが、昨夜よりも血の気が戻っているように見えた。


「……生きてるのか」


 思わず漏れた声に、女のまぶたがゆっくり動いた。


「びっくりしただろ、生きてて」


 掠れた声が、薄暗い部屋に落ちる。


 俺は返す言葉を失った。

 腹の布は血と汚れで硬くなっているが、下から新鮮な血が滲み出してくる様子はない。昨夜、あれだけ乱暴に押し戻した腸も、ひとまずは腹の中に収まっているようだった。


「普通じゃないな、お前」


 口から出た本音に、女はかすかに笑ったような気がした。

 表情が動いたのか、光の加減なのか、自信はなかったが。


 女は、ゆっくりと上体を起こそうとした。

 俺は慌てて肩を押さえる。


「おい、まだ――」


「大丈夫だ」


 女は俺の手を払うでもなく、ただ自分の腕で体を支え、壁に背を預けて座った。

 腹の布が引きつるたび、顔がわずかに歪むが、それでも姿勢は安定している。人間離れした筋肉の締まり方だった。


「ありがとう」


 女は短く言った。

 それから、壁に手をつきながら、ふらつく足取りで立ち上がる。


 俺はその様子に、改めて戦慄した。

 生きているだけでも十分にあり得ないのに、立ち上がり、歩こうとしている。普通の人間なら、とっくに意識がないか、感染症で熱を出して呻いているはずの傷だ。


 女はドアの方へ向き直り、足を一歩踏み出そうとした。

 俺は咄嗟にその肩を掴んだ。


「どこに行くつもりだ」


「やめろ」


 女は視線だけこちらに向けた。

 その目には、怒りも苛立ちもなく、ただ決めたことを邪魔されたときの、決意の色だけが浮かんでいる。


「……どこに行くんだよ」


 女は少し黙り、吐き出すように言った。


「出頭する」


「は?」


「警備局に行く。捕まれば、少なくとももうこの街には追手は来ない」


「そんなことしたら――」


 言いかけて、口をつぐむ。

 あの装甲車の列と、取調室の白い光を思い出す。あいつらがここまで本腰を入れる相手を、まともに扱うはずがない。


「殺されるぞ」


「罪は、償わないといけない」


 女の言葉は揺れていなかった。

 自分の腹の傷を見下ろしながら、それでも落ち着いた声でそう言う。


「警備局に出頭したら、罪ってもんは償えるのかよ」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


「あいつらに渡した時点で、お前に贖罪の機会なんて与えられない。あいつらの”富の材料“にされるだけだ。撃たれるか、もしくはどこかの施設に運ばれるか……二度と外に出て来られない。そんな簡単な世の中じゃない。お前も分かってるはずだ」


「それでも……」


「せめて、あと数日はここで寝てろよ」


 俺は女の腕を掴んだまま言った。

 立っているだけで腹の布がじわじわと赤く染まり直している。どう見ても「歩き回っていい」状態ではない。


「お前が何者か知らない。けど、今歩けるのだって、単に運が良かっただけかもしれないんだぞ」


 女はしばらく黙っていた。

 やがて、決心したように口を開く。


「私は……」


 言葉を選ぶように、一拍置く。


「AM-2B。政府と企業が共同で作った、戦術用クローンシリーズの一体だ」


 その言葉が意味を結ぶのに、少し時間がかかった。

 クローンの噂くらいは聞いたことがある。労働力や兵隊にするために、人間を工場で増やす計画がある――そんな話は、酒場でも配給所の列でも、都市伝説の一つとして囁かれていた。


 だが、目の前の女の口から、それが平然と出てくるのを聞くと、話はまったく別物になる。


「本来、クローンは人間に害を与えないように作られている。命令には従順で、勝手なことはしない。それが前提だ」


 女は窓の方に視線を向けた。

 外の遠い煙を見ているのか、何も見ていないのかは分からない。


「だが、私たちのシリーズは違う。戦場で自律判断をさせるために、意思の領域を広げられた。そのせいで、こうして施設を出ていくこともできた」


 おそらく、その「自律」のせいで、今こうして俺と向かい合っているのだろう。

 工場みたいな場所で、人間の都合で育てられた命が、こうして意思を持って逃げて、掃き溜めのスラムを焼いたというのは重い皮肉だ。


「私は貴重なサンプルだ。だから、ずっと追ってくる。逃げ続けて、とうとうこんなことになった」


 あの火事の夜を思い出す。

 黒い煙と、炎の壁と、互いを押しのける人間たち。誰かが叫んだ「放火だ」の声。

 その中心のどこかに、こいつがいた。追手を振り払う過程で出た火だったんだろう。


「君たちから見れば、あの傷は助からないものに見えるだろう」


 女は、自分の腹を指先で軽く叩いた。


「だが、私たちにとっては“大怪我”程度だ。

 君の処置のおかげで、死にはしない」


 俺は言葉を失った。

 あれで「大怪我」なら、こいつらは一体どんな環境で使われるつもりだったのか。


「私が捕まれば、この街に向いている追手も引き上げる。

 最初から、そうするべきだった」


「……違うだろ」


 思わず声が出た。


「お前が捕まったところで、この街のやつらが得するとは限らないだろ。

 元々この街は見放されてたんだ。十二年前にも火事は起きたが、その時は今ほど政府はこの街を相手にしなかった。でも今は偶然が重なって、街の奴らには警備局、政府に訴えかける機運が出てきた。」


 女は黙って俺を見た。

 その沈黙は、反論できないからではなく、そこまで考えていなかったからでもなく、ただ「それでも」と言おうとして飲み込んだものに見えた。


「……ここじゃない遠くに行く方法を、俺は知ってる」


 自分で言いながら、胸の奥が冷たくなる。

 ずっと黙っていた場所のことを、今になって口に出している。


「前に働いてた工場だ。海外向けの貨物を詰め込んでた場所がある。

 そこから出るコンテナに紛れれば、この街どころか、この国からも離れられる」


 女は目を細めた。


「その類のことはとっくに試した。でもこの街は実質的に包囲されている。検問も、センサーも、全部無視しては通れない」


「そこじゃない」


 俺は首を振った。


「今の搬出口じゃなくて、もっと古い方だ。俺がまだ正式な契約を切られる前の、廃材を運び出すために使っていた搬入口がある。今は図面から消されてるはずだ」


 夜中にスクラップを抱えて抜けた、錆びた鉄扉と、崩れかけた通路を思い出す。

 まともな人間なら通らない。だからこそ、監視も薄い。


「そこから入って、貨物の中に隠れればいい。

 俺の脚じゃ、もうあそこまで走れないから案内は途中までになる。けど、お前なら行ける。」


 女はしばらく視線を落としたまま黙っていた。

 やがて、ぽつりと訊く。


「……なんで、そこまでしようとする」


 俯いた顔から落ちた声は、昨夜の「殺してくれ」とは違う色をしていた。


「なんでって……」


 言葉が出かかったところで、喉の奥が詰まる。

 自分でも、はっきりした理由は分からない。

 こいつを匿えば、自分も巻き込まれる。警備局に知られれば、足もう一本どころか命まで持っていかれるかもしれない。それなのに、先に出てきたのは逃がす方法のほうだった。


 胸の奥がざわめく。

 妹の背中と、路地でこちらを見て手を止めた女の視線が、頭の中で重なっていく。


「……後悔したくないんだ」


 ようやく出てきた言葉は、それだけだった。


「目の前にいるのに、何もしなかったっていうのは、もう嫌なんだよ」


 自分の手を見下ろす。

 油と血で汚れた指先が、かすかに震えている。


「お前に死んでほしくない」


 それは、思っていた以上に素直な言葉だった。


「頼む。逃げてくれ。

 なんでお前が死んで良いなんてことになるんだよ」


 女は長く息を吐いた。

 その吐息は、怒りでも諦めでもなく、どこか肩の力が抜けたような響きを持っていた。


「……分かった」


 女はゆっくりと頷いた。


「ありがとう……本当に」


 その返事を聞いた瞬間、張り詰めていた何かがわずかに緩んだ。

 外ではまだ、焼け残った街のどこかで煙が上がっている。


ーーーーーーーーーーーー


 夜の工場地帯は、人の声より機械の残骸のほうが多かった。

 壁ぎわには壊れた搬送レーンやひしゃげた鉄骨が積み上がり、その隙間を縫うように細い通路が伸びている。遠くでは警備ドローンの航行灯がゆっくり動いていたが、このあたりまで巡回が来ることはほとんどない。


 女は腹を押さえながら、壁に手をついて歩いていた。足取りは重いが、ふらつきは少ない。包帯代わりの布の下で、圧迫した傷がかろうじて形を保っているのが分かる。


「ここを抜けたら、配管用のトンネルに出る。そこの格子が壊れてる。そこから工場の敷地に入れる」


 俺が小声でそう言うと、女は短く頷いた。


 配管室へ続く細い通路の途中で、俺は歩みを緩める。

 頭上には、かつて高熱の蒸気を通していた太い管が並んでいる。今は止まって久しいが、そのおかげで人が好んで通る道ではなくなっていた。


「……なあ」


 自分でも意外なくらい小さな声が出た。


「何だ」


「少し、話をしてもいいか」


 女は振り返りもせずに周囲に目を配った。

 耳を澄ませるように一瞬だけ動きを止め、それから低い声で言う。


「……人が来るかもしれない」


「この時間は大丈夫だ」


 俺は通路の先を指さした。


「巡回はあっちのメインゲート側だ。ここは古い搬入口の名残で、今は使われてない。配管も止まってる。叫ばなけりゃ、誰にも気づかれない」


 女は短く息を吐いた。


「……なんの話だ」


 それが許可なのか拒絶なのか、一瞬判断がつかなかったが、口はもう動き始めていた。


「俺には、妹がいた」


 自分で言って、少しだけ喉が詰まる。


「いつもおとなしくて、俺の後ろをついて歩くやつだった。小さい頃は、どこに行くにも手を離さなかった」


 目の前の錆びた配管の継ぎ目と、薄暗い集合住宅の廊下が重なった。


「父親は、酒を飲むと何かを殴らないと落ち着かない男でさ。殴る相手は、だいたい俺か妹だった」


 女は何も言わなかった。


「俺は、あいつをかばわなかった」


 言葉にした瞬間、胸の奥が少し沈んだ。


「いつも、殴られた後にそばに行って、腫れたところを冷やしたり、飯を分けたりするだけだった。殴られてる最中は、別の部屋で耳を塞いでた」


 配電の悪い家で、薄暗い電球の下、妹の頬の赤みだけが浮かび上がっていた夜のことを思い出す。


「母親が死んだときも、俺は何もしなかった。近所のやつらは、父親が殺したって噂してた。誰かと寝たのを知って、怒鳴り込んで、殴り殺したんだろうって」


 その話を初めて聞いた日の、胃のあたりの冷たさは今でも忘れられない。


「たぶん、本当なんだろうなって子ども心にも分かった。だから余計に怖くなった。あいつに逆らうのが」


 女が小さく目だけこちらに向けた。

 足音はない。遠くの工場の換気ファンが風に軋む音だけが聞こえる。


「妹が大きくなってきて、少しずつ体つきが変わってきた頃だ。ある夜、父親の視線が、殴るだけの相手じゃないものを見る目になった」


 あの瞬間の空気は、まだ皮膚の上に残っている気がする。


「そんとき、俺は一瞬、変なことを考えた」


 声が少し掠れた。


「これで父親の興味が全部妹に向かえば、俺への当たりは弱くなるだろうって」


 女の眉がわずかに動いた。


「同時に、もしここで妹を助けなかったら、もし父親を止めなかったら、たぶん俺はあいつの目を見て生きていけないだろうとも思った」


 そんな打算と、それとは逆の恐怖が、あの時は頭の中でぶつかり合っていた。


「じゃあ俺は、何のためにきつい仕事をして、生きていくんだろうなって考えた。守るやつがいなくて、自分の顔さえまともに見られないなら、何の意味があるんだろうって」


 喉の奥で、古い血の味のようなものを思い出す。


「その瞬間、父親と、自分自身と、妹を追い詰めてくる全部に、すごく単純な怒りが出てきた」


 俺は拳を握り込んだ。記憶の中の、あの夜と同じ動きだ。


「結果だけ言うと、その夜に父親を殺して、妹と一緒に逃げた」


 女は視線を戻し、前を向いたまま歩き出した。俺もそれに合わせて歩を進める。


「逃げた先で、俺たちは盗人になった。食うためには、誰かのものを奪うしかなかった。最初は店の端からパンを盗む程度だったけど、そのうち、抵抗したやつを殴り倒して財布を奪うのも当たり前になった」


 女は黙っている。

 足元には割れたガラスと、古いナットが点々と落ちていた。


「そのうち、俺の腕を買うやつが出てきた。マフィアだ」


 その言葉を出すと、腹の底がわずかに縮んだ。


「父親に殴られながら覚えた“殴られ方”が、そこで役に立った。どこまでやったら折れるか、どこまでやったら折れないか、体で知ってたからな。上には気に入られて、下には嫌われたが、少しマシな暮らしはできるようになった」


 取り立ての日々を思い出す。

 扉を蹴り破り、泣き叫ぶ家族から金をむしり取り、足りなければ別のものを差し出させる。


「そこで俺は、色んなやつの借金を取り立てた。払えないやつからは、家族を連れてこさせて、そいつらを売った。子供も、女も、全部金に置き換えて処理した。大した額でもないのにさ。」


 女の影が、足元の鉄板の上で揺れた。


「その頃、俺の妹は大人に近い年だった。仲良くしてた男がいてさ。マフィアの中でも少し上のほうのやつだった」


 あいつの笑い声が耳の奥で蘇る。

 部下を殴って、その顔が歪むのを眺めながら笑うような声だ。

 下をいびって笑いを取るのが日常のやつだった。


「妹は、ことあるごとに俺に報告した。『あの人は優しい』『私を大事にしてくれる』『外に連れて行ってくれた』って。俺は、それを聞いて安心した」


 俺自身が、そう信じたがっていた。


「ある日、その“彼氏”が妹を殺した」


 自分の呼吸がわずかに乱れた。胸の奥で空気の通りが一度つかえて、足が半歩だけ止まった。


「奴は妹がひっかいてきたからだと言った。自分の顔の傷を見せながらな。俺が何か言おうとしたら、逆に殴り倒された」


 頬骨が割れた時の鈍い衝撃が、また頭の奥で響く。


「『あいつは数ある女の中でも一番の出来損ないだった』『しつけのために殴り殺してやった』って笑いながら言われたよ。部下をいびって笑いを取るのと同じ調子で」


 俺は奥歯を噛みしめた。


「そのときようやく気づいた。人を不幸にして得た金で生きてるようなやつが、まともなわけがないって。少し考えれば分かる話だろ。あいつが部下をどう扱ってたか知ってたのに、なんで妹には優しくするって思い込めたのか」


 女が、わずかに首をかしげた。


「妹は、俺にずっと嘘を言ってな」


 言葉にすると、胸の奥がきしんだ。


「俺に心配かけまいとして、『幸せだ』『大事にされてる』って言い続けてた。あるとき、妹の顔に殴られた跡を見つけたことがあった。『喧嘩しただけ』って言われて、俺はそのまま信じた。......いや、現実を見ないようにしてただけだ」


 少し沈黙が続いた。


「結局、俺はあの時も、自分を守るために現実から目をそらしただけだった」


 その後のことを思い出すのは、喉の奥がひきつるような吐き気がしたが、途中でやめてはならない気がした。


「妹が死んでから、俺は組から放り出された。役に立たないどころか、扱いづらい駒になったからな。半殺しにされて、道端に転がされた」


 あのときの冷たい地面の感触を、両足が覚えている。


「逃げ出して、倒れ込んでた俺を拾ったやつがいる」


 女は少しこちらを見た。


「そいつは、昔俺が取り立てした債務者だった」


 唇の端に、乾いた笑いが浮かんだ感覚があった。


「顔も髪も変わって、痩せて、声も変わってた俺に気づかなかった。もともと目が悪かったってのもあるんだろう。ボロボロの俺を見て、飯をくれて、布団まで貸してくれた」


 あの薄い毛布の重さは、今でもなぜかはっきりしている。


「そいつから、そいつが受けた仕打ちの話を聞いた。家を失って、仕事を失って、家族がバラバラになって、それでも自分だけがまだ生きてるって話だ」


 あの単調な口調と、壊れたような男の笑い声が耳に反響する。


「そいつから抜き取った金は、俺達にとっては小遣い程度だった。帳簿の端っこにも書かないくらいだ。けど、たったそれだけのために、そいつと、家族の人生はひっくりかえったんだ」


 俺は一度、呼吸を整えた。


「そいつの妹は、俺が売ったんだ」


 腹の奥が冷たくなる。


「今どうなってるかなんて分からない。売春か、臓器か、どこかの施設か。想像しても答えは出ない。出ないが、どれもまともじゃないだろう」


 女の足取りがわずかに止まったが、すぐにまた動き出した。


「その家に一晩いただけで、逃げた。そこに居続けることは俺にはできなかった」


 そこから先の記憶は、点々とした仕事と場所の連続だ。


「それから色んな仕事を渡り歩いて、その中で脚を失って、最後にここに流れ着いた。今は毎日廃材を拾って、機械を直して、適当に飯を食って、適当に眠る生活だ」


 俺は女の横顔を見た。


「……お前は、この街がこれ以上ひどいことにならないように出頭すると言った」


 女は視線だけをこちらに向けた。


「けど、生きてちゃ駄目なのは、お前じゃない」


 思ったより、はっきりした声が出た。


「俺のほうだ」


 しばらく沈黙が続いた。足音と、遠くの機械の残響だけが通路に満ちる。


「あのときも、その前も、そのまた前も、俺は結局、自分のためにしか動かなかった。妹を守ろうとしたときも、自分がこれ以上耐えられないからって理由だった。借金の取り立てだって、自分が殴られないために人を踏み台にしてきただけだ」


 自分の声が、通路の壁で弱く跳ね返る。


「だから、お前に一つだけ頼みたい」


 女は足を止めた。狭い配管室の突き当たり、古い点検扉が行き止まりのように塞いでいる。

 この扉の向こうは、急な縦梯子と、崩れかけた足場を伝って進む細い通路だ。片脚の俺には、ここから先は無理だと分かっている場所だった。


「何だ」


「約束してほしいんだ」


 女の黒い瞳が、薄暗がりの中でこちらを捉えた。


「国に着いたら、そこでは真っ当に生きてくれ」


 言葉を選ぶ余裕はあまりなかった。


「もう、人を傷つけずに生きてくれないか。誰かに追われても、避けようのない選択に直面しても、できる限りでそれは避けてくれ」


 喉の奥が乾く。


「俺が助けたばかりに、どこかの誰かが傷つくのは、我慢ならない。自分のためにしか動いてこなかった俺が、最後に自分のために願うわがままだ」


 女は、しばらく何も言わなかった。

 配管の継ぎ目から落ちる水滴が、床の上で静かに弾ける。


「俺は、結局どこまでいっても自分のためにしか生きられなかった」


 これは認める他ない事実だ。


「だからせめて、お前には……人を踏みつけにしてきた俺や奴らと同じ道を歩いてほしくない。俺の手で逃がすんだから、そうであってほしいんだ」


 女はゆっくりと目を閉じ、それから開いた。


「……分かった」


 短い返事だったが、その中に迷いはほとんどなかった。


「私は、もう人を傷つけずに生きていく」


 女ははっきりと言った。


「君から受けた恩だ。必ず守る」


 胸の中に、少し澄んだ空気が入るような気がした。

 深呼吸をすると、冷たい廃工場の匂いが肺に染み込んでくる。


 女は点検扉に手を伸ばしかけて、ふと動きを止めた。

 ここから先は、女一人で行くしかない。俺が同行できるのは、この錆びた扉の手前までだ。


 女は振り向く。


「私も」


 少しだけ、口元が緩んだように見えた。


「君みたいに変われる“人間”になりたい」


 その言葉を聞いた瞬間、何かを返そうと口を開きかけたが、言葉はうまく出てこなかった。


 代わりに、錆びた扉の蝶番がきしむ音が、静かな通路に広がった。

 女は身体を横向きにして狭い開口部をすり抜け、暗い縦穴のほうへ姿を消す。足元の金属を踏む音が、しばらく下方へと続き、それからゆっくり遠ざかっていった。


 その音が聞こえなくなるまで、俺は扉の前に立ったまま耳を澄ませていた。

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