第1話 ここが地獄の異世界らしい
最初に来たのは、頭痛だった。
頭の芯を、鈍器でぐりぐり押されているような、質の悪い痛み。
その次に、背中の痛みと、腕と脚と、ついでに全身の重だるさが「お前は今すごく不幸だ」と自己主張してきた。
(……まだ、階段を転げ落ちている最中か?)
うっすらと目を開ける。
そこに、階段はなかった。
見慣れた天蓋付きの寝台も、豪奢なレースのカーテンも、銀の燭台も、何一つない。
代わりに、薄い白い天井。
やや黄ばんだクロス。角には小さなひび。
質素というか、貧相というか、貴族の寝室とは無縁の世界。
(……どこだここは)
ゆっくりと上体を起こす。
狭い部屋だ。窓は一つ。カーテンは安物。
壁には、紙でできた何かが何枚も貼ってある。女の子が描かれた絵やら、文字だらけの紙やら。
ベッドの横の棚には、薄い本と、見慣れない箱や板が雑多に積み上げられている。
そして。
「……誰の手だ、これは」
自分の手を見下ろして、ユリウスは眉をひそめた。
白い。細い。
身分を示す指輪もなければ、剣だこもない。
よく手入れされているが、貴族のそれとも違う。ひどく若い。
ベッドから足を下ろして立ち上がる。
鏡を探して視線をさまよわせると、壁に立てかけられた、細長い鏡が目に入った。
近づき、覗き込む。
「……誰だお前は」
鏡の中にいたのは、黒髪に青い目の少年だった。
黒髪は寝癖でボサボサ、目はやや眠たげ。線の細い顔立ちで、どことなく頼りない印象を与える。
身長は、以前の自分より少し低いだろうか。肩幅も狭い。
だが、瞳の色だけは見慣れていた。
ユリウスが「自分のもの」として認識できる、青色。
(……そういうことか)
さすがにそこまで鈍くはない。
あの白い世界。あの光る何か。
文明が発達したとか、醜い魂が集まっているとか、嫌な宣告をしてきた声。
この身体は、おそらくその「地獄の世界」の住人なのだろう。
(
ふと、名前が浮かんだ。
知らないはずの文字列を、知っているような感覚。
誰かの記憶が、脳の奥からじわじわと染み出してくる。
(俺の名前、じゃない。……この身体の持ち主、か)
頭を押さえる。
まるで二冊分の帳簿を、無理やり同じ帳にまとめようとしている感じだ。
ユリウスの記憶の上に、「御影慧斗」の日常の断片が、流し込まれている。
この部屋が、自分の部屋だと分かった。
壁に貼ってあるのは、漫画だかアニメだかのポスターらしい。
棚の上の薄い本は「ラノベ」と呼ばれるもの。知らないが、知っている。
机の上には、黒い板のようなもの――スマートフォン。
これが世界と繋がる魔道具であることも、手にしたことがないのに理解していた。
理解してはいるが、納得はしていない。
「……何だこの世界」
ユリウスは小さく呟いた。
文明は確かに発達しているらしい。
見たこともない道具が、生活の中に当たり前のように溶け込んでいる。
一方で、この身体には――
「……痛っ」
首筋から肩、肋骨のあたりにかけて、鈍い痛みが走る。
服をまくって確かめてみると、黄色や青紫の痣が、まだくっきりと残っていた。
腕にも、脇腹にも、背中にも。
打撲痕。何度も何度も殴られ、蹴られた形跡。
美しい世界ではなさそうだ、ということだけは、よく分かる。
ベッドの脇には、黒い鞄が置かれていた。
試しに開けてみる。
ノート。教科書。筆箱。
どれもボロボロだった。角は潰れ、表紙は破れ、紙はところどころシミになっている。
(……これは、偶然じゃない)
自分で雑に扱った結果こうなったのではない。
誰かに踏まれ、蹴られ、投げられた物の傷だ。
そして、その「誰か」を、この身体は知っている。
喉の奥がきゅっと締め付けられるような、嫌な感覚が喉をひっかいた。
名前が出かかって、霧に遮られる。
(……まぁいい。いずれ分かる)
ユリウスは、ベッドの端に腰を下ろした。
御影慧斗の記憶が、少しずつ整っていく。
今日の日付。ここが「日本」という国であること。
この部屋が、両親と三人暮らしをしている一軒家の一室であること。
そして――明日から「高校二年生」になること。
(高校、ね。騎士科でも魔法学院でもないらしい。平民の子弟が行く学び舎、という理解でいいのか)
メモを取る代わりに、頭の中で整理していく。
驚いたことに、この身体はそれなりに頭が回るようだった。
ユリウスの冷静さと、慧斗の基礎知識が、妙に相性よく噛み合っている。
「……とりあえず、今日は寝るか」
まだ外は暗い。
時計を見ると、早朝と言うには遅く、朝と言うには早い中途半端な時刻だ。
これ以上無理に情報を詰め込んでも、混乱が増すだけだろう。
ユリウスはベッドに潜り込み、目を閉じた。
地獄の世界の初日は、頭痛と打撲の痛みを抱えたまま、静かに始まって、静かに中断された。
◆
「慧斗、起きて。もう朝よ」
柔らかい声が、耳元に届いた。
ユリウスは、ゆっくりと瞼を開ける。
今度は、本当に朝だった。
カーテンの隙間から差し込む陽光が、部屋の埃を照らしてきらきらと舞っている。
ドアのところに、女性が立っていた。
三十代半ばくらい。エプロン姿。
疲れた様子はなく、穏やかに笑っている。
御影慧斗の記憶が「母だ」と教えてくれた。
遠い地で暮らす侯爵夫人ではなく、目の前で日々の世話を焼いてくれる、普通の母親。
「……おはよう」
自分の声が、思ったよりも柔らかく出た。
ユリウスは少し驚きながら、上体を起こす。
「今日は始業式でしょ? また寝坊したら大変よ」
「ああ……分かってる」
本当に分かっているのか自信はなかったが、口が先に動いた。
御影慧斗が、これまで何度も同じやり取りを繰り返してきたのだろう。
「顔洗ってきなさい。ご飯できてるから」
「……ああ」
母親は、それだけ言うと、ドアを閉めて部屋を出ていった。
ユリウスは、軽く息をつく。
(……優しすぎるな)
打撲痕のことを知っている目だ。
何かを心配しているくせに、問いただすことができない目でもある。
事情を知らない「他人」から見れば、甘いのかもしれない。
だが、ユリウスには分かる。
これは、弱さではなく、守ろうとする方向が違うだけの強さだ。
顔を洗い、制服に袖を通す。
ブレザーとネクタイ。
見慣れた騎士服とはまったく違うが、「制服」という概念自体はどこか懐かしかった。
階段を降りる。
……慎重に、一段一段。
(さすがに、またここで死ぬのはごめんだ)
自分でも笑ってしまうくらい、慎重な足どりになった。
侯爵家の階段よりずっと低く、段数も少ないのに、心の中の警報は鳴りっぱなしだ。
リビングには、食卓と、テレビという名の光る箱があった。
ニュース番組とやらが流れている。知らない国名、知らない事件。
テーブルには、焼き魚と味噌汁とご飯。
父親が新聞を読みながら座っていた。
「おはよう」
ユリウスが挨拶すると、父親は新聞から顔を上げた。
「ああ、おはよう。……大丈夫か?」
何が、とは言わない。
しかし、その視線が向かっている先は一つしかない。
「無理してるなら、学校休んでも――」
「平気だよ」
口が勝手にそう答えた。
御影慧斗が、ずっとそう返してきたのだろう。
嘘だということは、ユリウスにも分かる。
だが、ここで「実は地獄から来ました」などと言っても、事態は改善しない。
母親が味噌汁を運んできて、三人で「いただきます」をする。
静かな朝食だった。
親子の会話といえば、今日の天気とか、新学期のクラス替えとか、その程度。
些細で、平凡で――だからこそ、失われたら二度と取り戻せないタイプの日常だ。
(……地獄にしては、悪くない)
ユリウスは、箸の扱いに少し苦戦しながら、そう思った。
◆
家を出ると、世界はさらに騒がしかった。
自動で開閉する扉。
勝手に喋る箱。
一定の間隔で走り抜ける鉄の車両。
押すだけで飲み物が出てくる機械。
(文明の暴力だな)
心の中でぼそりと呟く。
御影慧斗の記憶のおかげで、それらが何であるかは分かる。
だが、「初めて見る」ユリウスの感覚とはかみ合っていない。
頭では当然の風景として認識できるのに、目と心臓が驚きを隠せない。
結果として、歩きながら小さなカルチャーショックを量産する羽目になった。
自動ドアに一瞬立ち止まり、後ろの人に舌打ちされる。
エスカレーターで片側に寄る文化を知らずに真ん中に立ち、微妙な空気になる。
改札でICカードを取り出すのにもたつき、後続の視線が刺さる。
(……確かに、醜い魂もいくつか混じっているようだな)
いちいち人の失敗に舌打ちし、苛立ちを隠さない者たち。
だが、代わりにカードの落とし物を拾って渡してくれる人もいる。
善と悪が、雑多に混ざり合っている。
それは彼の元いた世界と、大差なかった。
私立光ヶ丘高等学校に着くころには、ユリウスの脳はかなりの情報量に疲弊していた。
だが、ここからが本番だ。
校門をくぐる。
レンガ造りの門柱。校庭。校舎。
(……ふむ。城塞としては防御力に欠けるが、学び舎としては十分だな)
別に攻城戦をする予定はない。
靴箱で上履きに履き替え、廊下を歩く。
「久しぶりー」「クラスどこだった?」といった声が飛び交っている。
掲示板の前には、人だかりができていた。
「やった! 二年も一緒だー!」
「最悪……俺だけぼっちクラス……」
「C組かー、誰いるかな」
その中に混ざり、ユリウスも名簿を覗き込む。
――二年C組。
御影慧斗、という文字を見つける。
それと同時に、ある名前が視界に飛び込んできた。
瞬間、ユリウスの頭の中で、何かが弾けた。
映像が流れ込んでくる。
暗い場所。
「お前みたいな害虫が」と笑う声。
殴打。蹴り。
土の匂いと、鉄の味。
痛みの記憶が、打撲の場所すべてから一斉に蘇る。
「……っ」
喉の奥が勝手に詰まった。
拳を握る。指先に爪が食い込む。
(こいつか)
御影慧斗の世界を、身体を、日常を、打ち砕いていた男。
爽やかな笑顔。
クラスの中心。
教師からも信頼され、周囲からも好かれている人気者。
――その裏で、この身体を躊躇なく踏みにじってきた、ただの暴力装置。
(ほう)
ユリウスは、静かに息を吐いた。
創造主が言った。「醜い魂が集い、他者を卑下する世界」。
そのサンプルが、思ったより早く目の前にぶら下がってきたらしい。
(いいだろう。地獄の最初の仕事としては、ちょうどいい)
遠津颯真。
二年C組。
同じクラス。
ユリウスは、その事実を、ゆっくりと頭の中に刻み込んだ。
知っているのはただ、自分の名前と、クラスと、一人の加害者の名だけだ。
それでも十分だった。
新学期のざわめきの中、ユリウスはほんの少しだけ口元を吊り上げた。
(お前を地獄に落とす、か)
創造主が用意した「地獄」の世界で、まず誰が落とされるべきなのか。
答えは、掲示板の紙切れに、はっきりと印字されていた。
こうして、悪役令息の学園生活が始まった。
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