転生悪役令息、現代日本の高校で無双する
早瀬
プロローグ 悪役令息、間抜けに死す
その国の人々は、侯爵家の嫡男ユリウス・ヴァレンシュタインを、陰でこう呼んでいた。
「おとぎ話に出てくる悪役令息そのものだ」と。
金糸を束ねたような髪。宝石より澄んだ青い瞳。
立っているだけで絵になる容姿と、天賦の才と、容赦のない傲慢さ。
貴族社会ではそれなりに評価され、街に降りればもっぱら嫌われるタイプである。
「……ふむ。これでは支出がかさみすぎるな。下層地区への救済金は三割削るべきだ」
書斎の机に広げられた書類を、ユリウスは指先でとん、と叩いた。
向かいで控えていた老執事が、申し訳なさそうに眉を寄せる。
「しかし、坊ちゃま。これ以上削れば、冬を越せぬ者も出ましょう。治安の悪化も――」
「治安が悪化したら兵を出せばいい。仕事が増えて兵も喜ぶし、反乱分子の洗い出しもできる。一石二鳥だ」
ユリウスは、心底どうでもよさそうに肩をすくめた。
「そもそも飢える程度の蓄えもないのなら、そんな無能どもは早々に淘汰された方が国のためだろう」
老執事は、なにも言えなくなる。
その沈黙を、「異議なし」と解釈して、ユリウスはペンを走らせた。
「……しかしまぁ、民草とは便利だな。こちらが少々締め付けても、勝手に『悪役令息』などとあだ名をつけてくれて、責任を一身に押しつけてくれる」
くつくつと喉の奥で笑う。
「薄汚れた現実を見ないための、物語の悪役。悪くない役どころだと思わないか?」
「……は。坊ちゃまのお考えの及ぶところではございません」
表情を変えないまま老執事は、深々と頭を下げた。
長年仕えてきた彼だけが知っている。ユリウスが単なる残虐な悪人ではないことを。
しかし、それを知っているからといって、発言権が増えるわけでもないのもまた事実だった。
「さて、今日はこの程度にしておこう。あとは父上に目を通してもらえばいい」
ユリウスは立ち上がり、軽く体を伸ばす。
昼下がりの陽光が、廊下の窓から差しこんでいた。
磨き上げられた大理石の床に、金の髪と黒い影がくっきりと落ちる。
「お疲れでしょう、坊ちゃま。お部屋までお送りいたしましょうか」
「必要ない。階段くらい一人で降りられる」
「ですが――」
「私は侯爵家の嫡男だぞ? 階段ごときで転げ落ちるような愚か者ではない」
それは、この日一番の自信に満ちた言葉だった。
──このあと梯子を外されることを、本人だけが知らない。
ユリウスは、背筋を伸ばしたまま廊下を進んでいく。
一糸乱れぬ歩調。
自分の人生が、今まさに最終コーナーを曲がっていることなど、露ほども感じていない足取りだ。
階段の前に立つ。
何度も往復した、慣れきった場所。
侯爵家のなかで最も危険度の低い場所のひとつ――の、はずだった。
「では、休ませてもらう。夕食まで誰も近づけるな。騒がしいのは好かん」
誰に聞かせるともない命令を残し、ユリウスは一段目を踏みしめた。
二段目。
三段目。
四段目。
五段目で、足がすべった。
「あ?」
間抜けな声が漏れた。
ほんの少し、靴底が湿っていただけだ。
そのありふれたコンマ数秒が、侯爵家の未来と、この国の歴史と、一人の悪役令息のプライドをまとめてぶち壊した。
体が、ふわりと宙に浮く。
視界がひっくり返る。
天井、階段、床。
景色が高速でシャッフルされ、どれが正しい向きなのかも分からなくなる。
(……は?)
脳が状況を理解するより先に、背中に衝撃。
肺から空気が強制的に押し出される。
ごん、と鈍い音がした。自分の頭蓋と階段のどれかが、決定的な妥協をした音だ。
(ちょっと待て。私は侯爵家の嫡男で、聡明で、美形で、そして悪役令息だぞ? 死ぬにしても、もっとこう、処刑台とか、毒杯とか、そういうドラマチックな――)
さらなる衝撃。
今度は肩。
その次は腰。
階段を転げ落ちるたびに、プライドの断片がそこかしこに撒き散らされていく。
(……よりによって、階段から転落死? いやいや、さすがに冗談だろう)
冗談ではなかった。
最後の段を過ぎたとき、視界がふっと暗くなる。
冷たい床の感触も、どんどん遠ざかっていく。
(こんな……みっともない死に様を、誰が許可した……)
意識が、闇に沈んだ。
次に目を開けたとき、世界は真っ白だった。
床も、天井も、空気すらも、すべてが白い。
色彩という概念ごと塗りつぶされた空間。
ユリウスは、ゆっくりと身を起こした。
(……ふむ。私が死んだことは認めざるを得ないようだな)
痛みはない。
身体の感覚はあるのに、重さだけが曖昧だ。
手を握れば、指は動く。胸に手を当てれば、鼓動もある。
しかし、それが本当に「身体」なのかどうか、確信が持てない。
そして、目の前に――それはいた。
人のようでいて、人ではない。
光の塊が、そこに立っていた。形があるようでなく、輪郭が揺らいでいる。
だが、不思議と「こちらを見ている」という感覚だけははっきりしていた。
「……誰だ?」
問いかける。声は普通に出た。
光は、しばし沈黙したあと、淡々とした声を響かせた。
「なんて憐れな人間なのだ」
性別も年齢も分からない声音。
「お前のような人間は、早く排除しなければならなかった。ようやく排除できた」
「排除、ね。ずいぶん勝手な言い分だな」
ユリウスは、薄く笑う。
「少なくとも私は、この国の役には立っていたつもりだが?」
「お前の価値など、私にとっては誤差だ」
冷たい一言だった。
「だが、確かに役には立った。お前のような魂が、どれほど醜く歪むことができるのか――それを観察するという意味ではな」
「観察対象ときたか。随分と楽しそうな趣味をお持ちで」
光の揺らぎが、ほんの少しだけ強くなる。
「これから地獄に送ってやろう」
唐突に告げられる。
「地獄?」
「そうだ。私が作った、もう一つの世界。文明は発達したが、醜い魂が集い、他者を卑下するものが集まる世界だ」
淡々とした説明だった。だが、その内容はなかなかひどい。
「そこで苦しみながら生きるがいい」
ユリウスは肩をすくめる。
「ふむ……それは、それなりに興味深い提案だな」
「提案ではない。裁きだ」
「だろうな」
ユリウスは一歩、光に近づいた。
「一つ訂正しておこう。私の魂が醜いかどうかはともかく、この世界で一番醜かったのは、お前だと思うがね」
光が、ぴたりと動きを止める。
「……何?」
「自分で人を造り、観察し、飽きたら排除して地獄に落とす。物語の悪役としては、なかなかの趣味の悪さだ」
にやり、と口角を上げる。
「私などまだ可愛いものだろう? せいぜい街の一角を冷やしていた程度の、ちっぽけな悪役令息だ」
「黙れ」
空間そのものが震えた。
白い世界に、ひびが入ったかのような錯覚。
「お前は、そこで苦しみ、後悔し続ける。お前が見下してきた者たちに、今度は見下される側としてな」
「そうか」
ユリウスは、ほんの少しだけ笑みを薄めた。
階段から転げ落ちた自分の死に様を思い出す。
あまりにもみっともない最期だったが――。
「……階段から落ちたまま終わるよりは、多少マシか」
ぽつりと呟く。
それが、この状況で彼が出せた最大限の負け惜しみだった。
「好きにしろ。その地獄とやらで、今度は誰を悪役にしてやればいい?」
光が、眩しく輝き始める。
視界が白に飲み込まれる。
輪郭が溶ける。
身体が、何かに引きずり込まれていく。
(地獄の世界、か――)
ユリウスは、最後の最後まで、薄く笑ったままだった。
こうして、おとぎ話に出てくるような悪役令息は、あまりにも間抜けな死に方と、妙に手厚い「お仕置き」をもって、この世界から姿を消した。
これは、その続きの物語である。
彼が「地獄」と呼ばれた別の世界で、再び悪役として――そして、少しだけ違う何かとして生きていく物語だ。
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