第5話 自然な誘い方?について
六月も半ばを過ぎ、中間テスト一週間前。
放課後の廊下は、いつもより少しだけ静かだった。
部活動停止期間に入り、いつも見かけるジャージ姿の上級生たちの姿はない。
代わりに、参考書を抱えた生徒たちが、教室や図書室へと散っていく。
一年一組の教室でも、友人たちが口々に言い合っていた。
「やばいって、数Iとか全然わかんないんだけど」
「数Iなんて最終日でしょ! まずは英単語だよ英単語!」
「英単語は受験の時の貯金があるからまだマシだべ」
そんな会話を横目に、立花律香は自分の机の中を、ごそごそとあさっていた。
(英語……数学……国語……。理科と社会は……今日は諦めよ)
教科書とノートをとりあえず鞄に突っ込んでいく。
入るだけ全部入れた結果、持ち上がらないほど重たくなった。
「……お、おも……」
しかしそこは運動部員。
半ば抱きかかえるように持ち上げて、律香は内心で小さくため息をつく。
(これ全部、家でやるの、無理じゃない?)
机の横で友人が首をかしげる。
「律香、その量やばくない? どこ行くの?」
「えっと……図書室、行こうかな〜って思ってた、だけ……」
「“だけ”って何」
「いや、わかんない。行くかもしれないし、行かないかもしれないし」
「どっちだよ」
友人に軽く突っ込まれて、律香は曖昧に笑った。
(本当は、先輩と一緒に勉強できたらな〜とか、ちょっとだけ思ってるんだけど……)
そう心の中でだけ認めて、頭を振る。
(違う違う。別に“そういうんじゃない”し。
ただ、先輩と一緒だと頑張れる気がするだけで……)
入試の日に道を教えてくれた、あのときの先輩。
その人と同一人物だと気づいたときは、本当にびっくりしたし嬉しかった。
あれからこうして毎日のように話せているのだから、満足してもいいはずだ。
なのに——
(……欲張りになってるなぁ、私)
律香は自分の頬をそっと指でつねった。
「いでっ」
「なにしてんの?」
「ちょっと自分への戒めを……」
「テスト前に追い詰められてる人のセリフなんよそれ」
友人に呆れられつつ、「じゃあね」と軽く手を振って教室を出る。
向かうのは——もちろん、いつもの場所だ。
◆
昇降口を抜け、校舎裏への通路を通ると、湿った風がふわりと頬を撫でた。
空は相変わらず雲が多いが、今のところ雨は落ちてきていない。
(降らないでほしいな……今日は)
そう願いながら角を曲がると、予想どおりの光景が目に入った。
コンクリの壁に背を預け、空を眺めている橘集の姿。
シャツの袖を少しだけまくり、気だるげに片膝を立てて座っている。
その姿を見ただけで、胸の奥がふわっと軽くなった。
「先輩!」
思わず声が弾む。
集はゆっくり顔だけこちらに向けた。
「……鞄、どうした」
開口一番、それだった。
律香は自分の肩に食い込んだ重みを思い出す。
「あはは……テスト勉強セット、です……」
「セットってレベルじゃねぇだろ。災害用の備蓄かなんかか」
「最低でも国・数・英は、と思って……」
「一年でその量は、だいぶギリギリ感あるな」
「ひどい!」
でも図星なので、強くは言い返せない。
律香は集の隣に、どすん、と盛大な音を立てて鞄を下ろした。
集はその音に少しだけ目を丸くし、そして「あー……」とだけ言って視線を空へ戻した。
「部活は?」
「テスト週間で、今日から休みです」
「そっか。じゃあ勉強三昧だな」
「……耳が痛い」
律香は自分の頭を両手で軽く押さえた。
(そう。だから、だからこそ……!)
ここからが本番だ。
さりげなく、自然に、それでいて図書室へ誘導する会話をしなければならない。
「先輩は……テスト前って、どこで勉強するんですか?」
さりげなく、を心がけたつもりだったが、声が少しだけ上ずった。
「どこって。家か、教室か、図書室か」
「わ……バリエーション多い!」
「普通だろ」
「普通じゃないですよ〜……。私、家だと誘惑に負けて、すぐスマホ触っちゃうんですよね」
「触るなよ」
「先輩のそういう正論、テスト前に刺さります」
ぶーぶー文句を言いつつも、話題は無事に“図書室”へと近づいた。
(よし……いい流れ……!)
律香は内心でガッツポーズをしながら、さりげなさを装って続ける。
「図書室って、いいですよね〜……」
「まあ、静かだしな」
「静かだし、集中できるし、なんか“勉強してる人感”出るし」
「そこ重視すんな」
「雰囲気って大事なんですよ! 雰囲気が……!」
言いながら、自分でも何を言っているのかよく分からなくなってくる。
(ここで、“先輩は図書室行ったりします?”って聞けば……)
頭の中では完璧なルートが組まれている。
しかし、口がその通りに動いてくれない。
「せ、先輩は……」
「ん?」
「先輩は、その……テスト前とか、図書室使う派ですか……?」
なんとか言った。
言ったのだが——自分でも分かるほど遠回しだった。
集は少し視線を上げて考え込み、
「まぁ、たまにな。うるさい教室よりマシなときは」
と、いつもどおり淡々と答えた。
(あれ……? 普通の回答……?)
当たり前といえば当たり前だ。
ただ、律香の頭の中では勝手に、
『図書室? いいな。じゃあ一緒に行くか』
みたいな台詞まで自動再生されていたので、そのギャップに少しだけ胸がざわついた。
(いやいやいや、何期待してるの私……?
そんなの、あるわけないじゃん……)
自分で自分にツッコミを入れつつ、話題を続ける。
「図書室って、一人で行くと緊張しません? なんか、周りがみんな頭良さそうに見えるというか」
「被害妄想だろ、それ」
「でも、静かすぎて落ち着かないっていうか……」
「うるさいよりマシだろ」
「それはそうなんですけど……」
あまりうまく運べていない気がする。
会話としては成立しているけれど、「勉強会に誘う」という目的には、まだ遠い。
(どうしよう。このままじゃ普通に世間話で終わっちゃう……)
焦りがじわじわとせり上がってくる。
そんな律香の心境を知ってか知らずか、集はふいに尋ねた。
「で、おまえはどうすんだよ。今日」
「今日……?」
聞き返すと、集は律香の足元——床に置かれたパンパンの鞄を顎で指した。
「その量、家まで持って帰るの、だるいだろ」
「だるいです……」
「途中でどっか寄んのかと思って」
「どっか、って……」
(いま、“図書室”って答えたら、なんか自然な流れな気がする……!)
ここだ。
たぶん、今がそのタイミングだ。
「……図書室、寄ろうかな〜……なんて、ちょっと思ってました」
意を決して、なるべく軽い調子で言ってみる。
集は「ああ」と短く返す。
「いいんじゃね。空いてるだろ」
「……ですよね」
(うん……そうだよね……“行ってこいよ”って話だよね……)
想像していた展開と違いすぎて、律香の胸がわずかに沈む。
(先輩だって忙しいし、受験生だし……。
一年の私が、“一緒に勉強してください”なんて、図々しいよね)
頭では分かっている。
それでも、どこかで“もしかしたら”を期待していた自分がいて、そのことに気づいてしまった。
律香は慌てて笑って、言葉を足した。
「ま、でも……一人で行っても、どうせあんまり集中できないかもなので。
結局、家でのんびりやることになりそうですけどね〜。アハハ」
笑いながら言って、自分でも「あ、今の笑い方ちょっと寒い」と内心で頭を抱えたくなる。
集はそんな様子をじっと見ていた。
「……おまえさ」
「はい?」
「一人だとサボるタイプだろ」
「ぐふっ」
図星を刺され、変な声が漏れた。
「な、なんで分かったんですか……」
「今日の鞄見れば分かる。やる気はあるけど、実行力が追いついてない」
「ひどい! でも反論できない!」
「だろ」
短い会話。
それだけなのに、胸の奥を見透かされている気がして、妙にドキリとする。
(あー……もう、ほんとやだ。
なんで先輩にだけこう、すぐ見抜かれちゃうんだろ……)
恥ずかしさをごまかすように、律香は立ち上がった。
「じゃ、じゃあ私、そろそろ帰りますね!
教科書、落とす前に!」
「そうだな。腰やる前にな」
「ほんとそれです……!」
鞄を抱え直し、少しだけ距離を取る。
これ以上ここにいると、余計なことまで口にしそうだった。
「先輩は、これから……?」
「職員室寄って、プリントもらって、帰る」
「受験生って感じだ……」
「三年だしな」
当たり前のことを当たり前に言われて、それが少しだけ遠く感じる。
(立場、全然違うよな……当たり前だけど)
そう考えた途端、さっきまで一瞬だけ抱いていた「一緒に勉強できたらいいな」という願望が、急に場違いに思えてきた。
(やっぱり……言わなくてよかったのかも)
胸の奥に、ちいさなモヤモヤだけが残る。
それを押し込めるように「じゃあまた明日!」と言いかけたそのとき——
「……おい、律香」
呼び止められて、足が止まった。
振り返ると、集が立ち上がり、いつもの気だるげな調子で言う。
「図書室、行くなら今だぞ」
「え……?」
「この時間ならまだ空いてる。
プリントもらうついでに、途中まで一緒にやるか。
どうせおまえ、一人だとすぐスマホ触るだろ」
「っ……!」
その言葉に、胸の奥で何かが一気にはじけた。
(かわされてたわけじゃなかったんだ……)
勝手に空回りして、勝手に「スルーされた」と決めつけて、勝手に落ち込んで——
でも、先輩は先輩で、ちゃんと考えてくれていた。
それが分かった瞬間、足取りから力が抜けてしまいそうになる。
「い、いいんですか……?」
やっと出た言葉は、情けないくらい小さかった。
集は特に気にした様子もなく、「別に」と言って肩をすくめた。
「どうせ帰っても勉強だし。
最初の一時間くらいなら付き合ってやる」
「……!」
一時間。
たった一時間。
それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「じゃあ……お言葉に甘えます!」
「素直だな。最初からそう言えよ」
「む、むりです!!」
「なんでだよ」
「……なんか、恥ずかしいので!!」
集は小さくため息をついた。
「わけ分かんねぇな、女子高生」
「自分でもそう思います!」
言ってから、ふたりで同時に笑った。
さっきまで胸の中に渦巻いていたモヤモヤは、いつの間にか風に運ばれたみたいに薄れていた。
「じゃ、職員室寄ってから行くぞ。
図書室、先に席取っとけよ」
「はいっ!」
律香は、一気に軽くなった鞄を抱え直す。
重さは何も変わっていないはずなのに、足取りは、行きとは比べ物にならないくらい軽かった。
(先輩と一緒なら、勉強も……ちょっとだけ、頑張れる気がする)
それが、ただの「仲のいい先輩と後輩」以上のものだとは、まだはっきり自覚していない。
ただ——
図書室へ向かう階段を駆け上がりながら、律香は胸の奥で小さく呟いた。
(日曜日も、誘ってみようかな……)
その“次の一歩”を踏み出すのは、もう少し先の話かもしれない。
それでも、今日という日は、確かにひとつのきっかけになりそうだ——そんな予感だけが、やけに鮮明だった。
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