第4話 風について
昼休み。
昨日の晴れ間が嘘のように、今日はまた薄暗い曇り空だった。
けれど——
雨は、降っていなかった。
校舎裏に向かう通路の窓から差し込む光は弱々しく、外の風景は淡く白んで見える。梅雨特有の湿気がゆっくりと漂い、空気が少しまとわりつくようだった。
橘集は、いつもの場所に足を向け、無言で腰を下ろした。
(……風、出てんな)
雨は降っていないのに、風が妙に強い。
校舎の角を抜けた風が、シャツの裾を軽く揺らした。
「先輩っ!」
いつもの声が、風に乗って響いてくる。
「……あいつ来るの待ってるみたいで嫌なんだよな、この流れ」
ぼそりと呟いたすぐ後、律香が勢いよく回り込んできた。
「わっ! 今日ちょっと寒いですね!」
「風強いからな……走ってくるなよ。転ぶだろ」
「転びませんよ! そんな子どもじゃないですし!」
「昨日傘振り回す子ども扱いで怒ってただろ」
「うっ……!」
言い返せない律香が可笑しくて、集は小さく息を吐いた。
律香は集の隣に座り、風に揺れる前髪を手で押さえる。
「今日は雨降らないでよかったですね〜」
「まぁな。おまえのてるてる坊主のおかげか?」
「えっ……そ、そんな! 先輩からそう言われると……なんか……!」
「なんで感動してんだよ」
「先輩が言うと特別感あるじゃないですか……!」
「……意味わかんねぇよ」
そう言いながら、集は僅かに目をそらした。
律香は気付いていないふりをして、風を吸い込むように深呼吸した。
「風の匂い、昨日とまた違いますね」
「匂いなんて分かんのか」
「分かりますよ! 昨日は“雨が上がった匂い”で、今日は“乾く途中の匂い”です!」
「……抽象的すぎる」
「でも! 先輩も感じてますよね、たぶん!」
「押しつけんな」
そう言いながらも、集は少しだけ風の匂いを嗅いでみる。
確かに昨日より湿度は低く、空気は軽く感じる。
「……まぁ、昨日よりはスッキリしてるな」
「ほら! 言ったとおり!」
律香は嬉しそうに笑い、鞄から何かを取り出した。
「じゃーん!」
「……なんだよ、また変なの出す気か」
「変じゃないですよ! これです!」
彼女が取り出したのは、小さな紙の風車だった。
「……今度は風車かよ」
「昨日のてるてる坊主の流れで、“風の日はこれだなー”と思って作りました!」
「おまえ、ほんと毎日工作してんのか」
「えへへ、小学校の図工以来の才能です!」
「才能ってほどの出来じゃねぇだろ」
律香はむっとしながらも、誇らしげに風車を回してみせる。
風を受けて、くるくると軽く回る。
「……ちゃんと回るのは感心するけどな」
「ですよね!?」
「調子に乗るな」
律香は風車を集に向けて差し出した。
「先輩も回してみます?」
「……別に興味ねぇよ」
「興味なくても! ちょっとやってみてください!」
押しつけられた紙の風車を、集は仕方なく受け取った。
掌に乗せてみると、風に反応して微かに回転する。
「風弱いやつだな、これ」
「弱くても回るのがいいんですよ! これ!」
「……なんかおまえっぽいな」
「えっ!? どういう意味です!?」
「いや……風弱くても元気に回る感じが」
「つまり私、風車ってことですか!?」
「意味わかねえだろ。風車ちゃん」
「初めて呼ばれたちゃん付けがこれぇ!?」
律香はむすっとしながらも、どこか嬉しそうだった。
風が強くなり、紙風車が勢いよく回り始める。
「わー、今日の風すごいですね! なんか台風前みたい!」
「梅雨の風は気まぐれだからな。急に強くなったり弱くなったり」
「先輩、また自然博士モード入ってます?」
「博士じゃねぇっての」
集は肩をすくめながらも続けた。
「梅雨の終わりの頃は、湿った南風と乾いた風がぶつかるんだよ。だから強くなる」
「へぇぇ……そうなんだ……」
律香はその説明に目を輝かせた。
「やっぱり先輩ってなんでも知ってますよね」
「なんでもじゃねぇよ。おまえが知らなすぎるだけだって言ってんだろ」
「ひどい!」
ふてくされながら笑う律香を横目に、集はふと思った。
(……ほんと、何が楽しくて笑ってるんだか)
律香が足元の水たまりをつつきながら言う。
「先輩、風ってちょっと好きなんですよね、私」
「なんで」
「気分が変わるからです! 落ち込んでてもちょっと元気でるし、なんか“運ばれてる感じ”がして」
「運ばれてる?」
「はい。昨日の嫌なこととか、ちょっと遠くに飛んでいく感じ!」
「おまえの“昨日の嫌なこと”ってなんだよ」
律香は急に黙り、もじもじし始める。
「い、言わないです……」
「なんだよ気になるだろ」
「嫌なことっていうか……えっとほら、帰りが土砂降りでずぶ濡れだったこととか……テストの勉強全然進まないこととか……」
「勉強しろよ」
「ひどい!」
律香はぶーぶーと抗議しつつ、ふっと笑った。
「でも、今日こうやって風が吹いてると……ちょっと楽になるんですよね」
集はその言葉の意味をゆっくり噛みしめる。
律香が言う“楽になる”の中には、自分と話すこの時間も少し含まれているのだろうか、と。
「……風が好きってやつ、初めて聞いたな」
「えっ!? でも先輩も好きですよね?」
「なんで決めつけんだよ」
「だって……先輩、こういう日必ずここにいるじゃないですか」
「……」
図星をさされて、集は少し言葉に詰まった。
律香は続ける。
「ここ、風が通るじゃないですか。だから……なんか、先輩が好きな場所なんだろうなって」
「別に……風がどうとかじゃねぇよ。静かだから来てるだけだ」
「ふふっ」
「なに笑ってんだよ」
「静かじゃないですよね、私来ますし」
「……確かにな」
「えっ、そこ否定してくれないんですか!? “気にしてねぇよ”とか言ってほしかったのに!」
「知らねぇよ」
律香は不満げに頬を膨らませ、風で揺れる髪を片手で押さえた。
「……でも、嬉しいですね」
「何が」
「先輩、私が来てもイヤじゃないってことですよね」
集はしばし沈黙し、そっぽを向いた。
「……なに、来る者拒まずってだけだ」
その小さな言葉を受け取った律香の表情が、ゆっくりとほどけた。
風が吹き、紙風車がまた勢いよく回る。
律香はそれを指先でつつきながら、ぽつりと言った。
「なんか……こうしてると、梅雨も悪くないですね」
「雨ばっかで鬱陶しいけどな」
「でも! 風が気持ちいい日は、ちょっとだけ得した気分です」
「おまえほんとポジティブだよな」
「そうですか?」
「そうだよ。いいことだけどな」
律香は、まるで風に押されるように小さく笑った。
「……あ、先輩。これあげます」
紙風車を差し出してくる。
「いや、なんでだよ」
「昨日てるてる坊主返され忘れてたから、そのセットです!」
「クーリングオフは?」
「適用されません〜! 貰ってくださいね!」
渋々受け取った紙風車が、集の手の中で軽く回る。
風が少し暖かくなっていた。
チャイムが鳴り、昼休みの終わりを告げる。
「先輩! また来ますね!」
「……分かったから走んなって」
「走りませんよー!」
そう言いつつ、やはり走っていく律香の背を見ながら、集は息をついた。
(……紙風車、てるてる坊主の横に置いとくか)
自室の窓際にぶら下げたてるてる坊主を思い返しながらそんなことを思う。
風が吹き、薄い雲がゆっくり動いていく。
集の手の中で、紙風車は静かに、優しく回り続けていた。
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