薔薇の名前

浅見カフカ

パリ -1941-

半日の休暇を貰った私は、友軍が駐留するパリの街を散策していた。

主要な通りに機甲師団の装甲車や戦車が停車している以外は、映画で観ていたパリの景色であった。


軍靴が響く石畳の路地を歩く。

通りの店の多くは看板を降ろして、かつての賑わいは感じられない。

そんな中、1軒の店の前で足が止まった。

甘い蜜の薫りがする小さな花屋だった。


カランカラン。

ドアを開けるとカウベルのような音が鳴った。

背を向けて花の手入れをしていた女性が振り返る。

「いらっしゃいま・・・」

私の姿を見るなり笑顔が消え、あからさまに嫌な顔をする。

「小銃の弾なら此処には無いわよ」

「いや、花屋に来たつもりなんだが」

私が答えると既に後ろを向いていた。


しばらくキョロキョロと見回すが、花の事はさっぱり分からなかった。

「花を、花を選んで貰えませんか?」

「総統閣下に差し上げるのかしら?」

再び振り向いて彼女が言う。

「いや、妹に。ミュンヘンに住む妹の誕生日に贈りたい」

「花束を!?」

驚いた表情だ。

その様子に私が困っていると、初めて優しい笑顔を見せて言った。

「軍人さん、切花では届く迄にしおれてしまうわよ。」

「そうなんですか?」

「そうなんです」

2、3秒の沈黙の後、クスクスと声を出して彼女は笑った。


「貴方、軍人っぽくないわね。出世しないわよ」

そう言うと花を選び始めた。

「輸送機に花を載せます。行き先は言えませんが、そこからならミュンヘン迄は枯れずに着くかと・・・」

私は彼女にそう伝えると改めて店内を見回した。

「植物も、戦時下では品不足なんですね」

これは私の失言だった。

「誰が戦時下にしたの?ラインラントへ進駐したのは誰?チェコ・スロバキアを地図から消し去ったのは!?美しいアルデンヌの森を焼き払い、パリをクロウラーで蹂躙したのは他ならぬナチでしょう!!」

私はただ黙るしかなかった。

「済まない」

そう言うのがやっとだった。

彼女も困った顔をしていた。

「貴方に言っても詮無い事なのにね」

フウと大きくひとつ、溜め息をついた。

「ねぇ、明日・・・明日貴方の基地へ届けるわ。今日はなんだか上手に選べない」

彼女はそう言うと私の名前と基地の場所を聞いた。

「クラウス・フォン・エアハルトです」

私は名前と基地として仮使用している空港の名を告げると店を後にした。


将校になれば下士官ほど不自由は無いだろう思っていたが政治的な付き合いも増え逆に不自由になった気がする。

私は気乗りのしないパーティで所在無くグラスを弄んでいた。

ナチスに協力的なフランスの役人や資産家が保身の為に幾人もすり寄ってくる。

いや、彼ら責めることは誰にも出来ない。

誰しもが生きるために出来ることをしているだけなのだ。

ただ、疲れる。

本心の無い会話、下地にある怯え。

腹の探り合いだ。

愛想笑いで場を辞するとバルコニーへ出た。

夜風にあたりたかった。

接収した館はパリの街並みが見える丘にあった。

花屋はどあたりだろうか。

ふと昼間の花屋の女性を思い浮かべていた。

この制服を見てよくも言いたいことを言えたものだ。

私でなければどんなことになっていたか。

考えたくもなかった。

ただ、率直で私には心地よかった。

また逢いたい。

一瞬浮かんだ気持ちに少し驚いた。


人の醜悪さ煮詰めたようなパーティ会場を後にした。

どうにも私に政治は向かない。

少しでも早く離れたく早足になる。

この先の通りに部下が車をまわして待っているはずだ。

石畳に軍靴が響く。

丘橋の下を抜けようと通り掛かったところで憲兵が女性に銃を向けていた。

不審者への尋問か。

夜間外出の許可が出ているとは思えない。

まずいことにならなければ良いが....

余計なことに関わるのは良くないことだがエスカレートしそうな憲兵を看過出来なかった。

私は憲兵に右手を上げて敬礼をした。

そして銃口の先の女性を見て息を飲んだ。

昼間の花屋だ。

「この女性は花屋だ」

私は憲兵にそう言った。

憲兵は私の真意を探ろうと考えるが理解できないようだ。

当然だ。

こんな唐突に花屋と言われても『だからどうした』となるのが普通だ。

そうならないのは私が将校だからで、彼がこの階級社会に実直な男だからだ。

「昼間、彼女の店で花を頼んだのだ。明日で良いと言ったのだが早く届けようとしたらしい」

その言葉に憲兵は彼女の姿を確認するように見るが一輪の花すらない。

「しかし花など」

「花を届けている」

憲兵の言葉を強く遮った。

「花を届けている」

もう一度言うと憲兵は銃を下ろして立ち去った。


「貴方、偉かったのね」

彼女は意外そうな表情を隠そうともせずに言った。

「階級なんて、組織の外では何の役にもたちませんよ」

「そうかもしれないわね」

「はい。その証拠に、階級章は弾避けにもなりませんから」

そう言って襟元を指さした。

彼女は私の指先をジッと見つめてクスクスと笑った。

「貴方と話をしていると、とてもナチスの軍人だとは思えないわ」

「戦場でなければ、私も軍人の顔をしなくて済みます」

思わず本音が出てしまった。

彼女は少し悲しげな顔をした。

「こんな戦争・・・早く終わればいいのに」

「人と人が殺しあう。憎しみも怒りも無く。障害物を避けるように、何の感情も感傷も無く人を殺す。異常が日常のこんな事態は早く終わらせなければいけない」

私がそう言うと、彼女は大きく頷いた。

そして、まるで私を試すかのように言った。

「でも、それを生業にしている貴方は?効率の良い殺戮、確実な命の奪い方を研究、訓練している貴方はそれでいいの?」

その蒼い澄んだ瞳は、真っ直ぐに私を見ていた。


私は彼女を見詰め返して言った。

「あの花束の送り先・・・」

「ミュンヘンの?」

「えぇ。誕生日の後に入籍します。私の友人と」

「妹さん、幸せなのね」

彼女は優しい顔で微笑んだ。

「そんなささやかな幸せを守りたいのです。私が望むのは、そんな小さな幸福が、いくつもいくつも溢れることなのです」

「詭弁よ、それは詭弁。その為に血が流され、憎しみを呼び、哀しみに沈む人々が無数に生まれる」

彼女は少し声を荒げ、最後は消え入りそうに話した。

「ですから私は士官になりました。兵卒ではなく、士官を選びました。この戦争に責任を負うために」

「何故貴方が責任を負うの?」

理解出来ない様子だった。

「私はね、既に多くの命を奪いました。直接手を下した事もあまたあります」

彼女はハッとした表情を見せた。

「意外ですか?」

私の問掛けに微動だにしなかった。

「貴方の前に居る私は人殺しなのです」

私は大きく溜め息をつくと言葉を続けた。

「殺された人々も、彼等の身内も、私の未来や幸せは望まないでしょう。何年かしてこの戦争が終わった後、きっとささやかな平和な時代が来ます。その時代の礎として、責任を負う者が必要なのです」

沈黙が流れた。

夜風に乗って湿った空気が重く絡んだ。


「本当に不思議な人」

シャルロットがようやく口を開いた。

「ドイツが負けると思っているみたいな口ぶりね。今やヨーロッパの大多数がドイツの占領下だというのに」

「きっと負けます」

私は短く答えた。

「どうして?」

「その肥大した体故に・・・」

「自らを支えられないの?」

「そうです。それに・・・」

私は思わず言葉を詰まらせてしまった。

彼女が続きを促す。

「それに、何?」

「肥大した体を支える自らの手足を潰して、どうして生きられるか」

「・・・・」

「我々は、道を失った。」

無意識で握り拳を作っていた。

強く握りすぎた掌からはうっすらと血が滲んでいた。


「・・・過ちと」

彼女は私の手にそっと触れると、問掛けるように呟いた。

「私達は、過ちと悲しみを積み重ねなければ先へ進めないのですか?」

私はその問掛けには答えずに質問を返した。

「私達は、血と涙を流さなくては未来を語れないのでしょうか?」

永く見詰めあったような気がした。

いや、おそらくはほんの数秒。

互いの瞳の中に揺れる真実の姿を見い出すほんの僅かな時間。

魂の邂逅というものがあるのなら、それはこんな物なのかもしれない。

一瞬の永刧。

再び刻が動き出した時、ふたりの問掛けの答えは同じだった。

「違うね」

同時に口を開いた。

その事に別段驚くでもなく、むしろ当然の事のようにふたりは言った。

「シャルロットよ、シャルロット・シュバリエ。明日、妹さんの花を持っていくわ」

シャルロットはそう言って手を振ると路地へ駆けて行った。


翌日、シャルロットは約束通り花束を持って基地を訪れた。

スピラエラ・アルバ。

純潔の花言葉を持つ薔薇と教えてくれた。


「貴女に逢えて良かった」

私はそう言うと懐中から金時計を差し出した。

彼女は手を出さずに黙って見ていた。

「今や紙幣には価値の保証は有りません。この時計にしても足元を見られてしまえば数日のパンにしかならないかもしれません」

受け取ろうとしないシャルロットに私は再び促した。

「さぁ、私の心を受け取って下さい。戦地へ出てから初めて人として話が出来た。こんなに嬉しい事はありません」

そう言うとシャルロットの掌に金時計を握らせた。

「私は花屋です。花以外の事で代金は頂けません」

シャルロットはあくまでも固辞の姿勢を崩さなかった。

そこで私は彼女の納得出来る理由で一計を案じた。

「それでは、私に花を選んで下さい。戦争が終わったら伺います」

シャルロットは諦めた風に受け取った。

そして、一言呟いた。

「・・・必ず」



シャルロットを見送った2時間後、私のドーバー海峡への転戦が決まった。

この急な移動は昨夜の憲兵が親衛隊麾下にあったのかもしれない。

まるで出来の悪いファルスだ。

今や疑心暗鬼の忠誠の元に行われる粛清や更迭。

ナチス・ドイツという風船はこのまま破裂するまで膨らむか、そのまま収束して萎むかの二択だろう。

私は帽子を正すと基地をあとにした。


昨年から幾度と無く、間断無く行われているイギリスとの制空権争い。

その戦いの空への参加が決まった。

今日迄の撃墜数53機。

チーム撃墜数では120を超える私の部隊に白刃の矢がたてられたのだ。

現在の戦況は、我が軍に圧倒的に不利であった。

イギリス沿岸には新兵器のレーダーと無数の高射砲。

そして日々増産される最新鋭戦闘機、スピットファイアが空を駆けていた。

この小回りの効く好敵手は、その機動性で友軍達を苦しめていた。

ヨーロッパ戦線に於いて、ドイツとの講和に唯一反対するイギリスを沈黙させる事が出来たなら、この戦争は終わるのだ。

もっとも、あの饒舌なチャーチルの事だ。

ビジーフランスと共にアメリカ辺りに亡命政府を作りそこで吠え続ける事だろう。

・・・あくまでもドイツが勝利すればの話だが。

正直、私には勝てる要素を見い出せないでいた。

それは、諜報機関から手に入れた情報のひとつ。

エニグマ解読機の存在だった。


ドイツが誇る暗号製造機エニグマ。

解読は不可能と言われたこの暗号を、イギリスの数学者が攻略したという情報があった。

連合国は解読の成功を秘匿しているようだが、我が国もその情報は得ていた。

だが総統閣下に於いては、些末な事として重要視はしなかったらしい。

確かに以前、ポーランドに看破された時もローターの増設で更なる複雑化を図りこれに対処した事はあった。

容易に対処出来る事も、エニグマの解読不可能と言われる所以だ。

しかし、今回は違うような気がする。

イギリス暗号局が、あらゆる数学者を集めて同じ轍を踏むとは私には到底思えなかった。

レーダーでは我が軍の位置が、解読機では情報が、それぞれに丸裸なのだ。

「素手に目隠しか・・・」

思わずそう呟いていた。


年の暮れも迫っていた。

イギリスへの攻撃は制空権を奪えないまま、泥沼の様相を呈していた。

恐らくは年明けには撤退だろうか?

あまりに損失が大きかった。

ふと視点を下に移した。

白波さえも雲に見える。

高みから眺める海は、まるで空と交わるかのように見分けがつかない。

高度計が指す数値だけが、自身が空に居るとこを示していた。

空も海も、所詮は人間が区別しているだけの物だ。

地球という大局で見てしまえば随分と細かな話だ。

さらに敵や味方、国家など、なんて矮小な区分だろうか。

見渡す景色に【国境】などという下世話なラインは見当たらない。

結局は愚かな心が引いた妄想のラインが、愛国心という魔物を育て、ナショナリズムという狂気を生むのだ。

そうして人は争い、憎み、殺しあう。


虚しい思考の淵を彷徨う私を、一筋の火線が現実へと引き戻した。

レーダーで我々を捉えたイギリス空軍機の機銃掃射だった。

スピットファイアではない。

どうやら鈍重なハリケーンらしい。

愛機Fw190の前に出てくるのは無謀だった。

私は一気に機体を上昇させた。

ハリケーンの上を抑えると、そのまま落下するように高度を落として後部へつけた。


トリガーに指をかける。

右翼を撃ち抜いた。


ハリケーンは翼から煙を昇らせて、次第に高度を下げて行く。

慌てなければ基地までは飛べる筈だ。

偽善とは知りつつも撃墜まではする気にはなれなかった。


物量では遥かに圧倒している筈だった。

撃墜数も尋常ではなかった。

にも関わらず、フロントラインは後退していた。

理由はレーダーの存在だった。

イギリスは索敵した場所へ、ピンポイントに航空機を送り出して来た。

こちらの進路にのみ、厚い防衛線を敷くのだ。

次から次へと現れる敵機に、いつしか友軍機も力尽き始めた。

囲われて撃墜される者。

退路を絶たれ、燃料切れで墜落する者。

士気は明らかに低下していた。

武装を撃ち尽した所を狙われる者も居た。

我々は、蟻地獄へ引き込まれる憐れな兵隊蟻だった。

1機、また1機と死神の顎へ堕ちて行った。


文字通り防壁のような敵機の群れ。

とにかく撃てば当たるのだ。

今回ばかりは初陣の新米でも戦果を獲られるだろう。

それを生きて誇れるか、墓碑に刻まれるかは神のみぞ知る所ではあるが・・・


残弾は2割、燃料は3割を切った。

帰投するには十分だ。

此処で死ぬワケにはいかなかった。

部下達へ帰投を命じると、私自身も基地へ向けて旋回した。

死の香りに満ちた世界から離脱すると、空は蒼く美しい。

戦争が終われば、この蒼は世界に広がるのだろうか。

その時ふと、シャルロットの言葉が浮かんだ。


『必ず・・・』


あれは【必ず選ぶ】と云う意味だと思っていたが、【必ず取りに来て】と云う意味だったのだろうか?

彼女は私にどんな花を選ぶのだろうか?

キャノピー越しにパリの方角を眺めた。

空と雲と海だけが瞳に映る。

それだけで十分に彼女を感じられた。


ふと、視界に航跡が見えた。

海面に蛇行する白波。

船舶の回避行動の跡だ。

だが、付近には作戦中の艦船は無い筈だった。

私は違和感を覚え、航跡を追った。

高高度を保ちながら、90秒程の哨戒飛行。

その先に、目を疑う光景があった。

非武装の民間船が黒煙を上げていた。

上空には3機の戦闘機が旋回しては急降下を繰り返していた。

数発を斉射しては離脱。

・・・弄んでいた。

私は先ず、降下から上昇に転じた1機にトリガーを引いた。

尾翼を吹き飛ばされた機体は、空中でバランスを崩して海面に叩き落ちた。

大きなしぶきがあがる。

敵もさるものだった。

味方の断末の水柱をブラインドにして機銃を打ち込んできた。数発を機体に受けた。

しかし飛行に影響は無い。

私は操縦桿を手前に引くと、対峙した敵機と絡み合うかのように上昇した。


速度と飛行高度ではこちらが上だ。

一気に上昇すると、敵機ハリケーンの上を押さえた。

照準機の向こうに、怯えた顔のパイロットが見えた。

ためらいは無い。

指先に僅かに力を込める。

13mm・・・

砲身から小さな死神が彼を迎えに行った。


枯れ葉のように落ちる様を一蔑すると、3機目を探した。

ミスだった。

編隊の1機を視界から完全にロストしていた。

私は急降下をして海面を飛行しはじめた。

海水面より5m上。

低空を飛び警戒する。

これにより、少なくとも下から狙われる事は無い。

更に太陽を背負う。

少しの後、影が海面に映った。

すかさず右に旋回をする。

一瞬高波に翼が触れたがなんとか3機目のハリケーンの斉射をかわした。

安心も束の間。

想定外の4機目が正面にいた。

スピットファイアだった。

刹那、機体が揺れた。

数発被弾したらしい。

飛行に支障はなかった。

しかし、少々不利な局面だ。

しばらくは回避しながら反撃を窺う必要がある。

あのスピットファイアは新型だと云う以外に、明らかに今までのとは動きが違った。

おそらくはエース級。

自然と掌に汗が浮かぶ。

ドッグファイトの開始だった。


すれ違う互いの速度の合計は音速。

空気の塊が機体を揺らすような感覚があった。

撃ち込みざまの至近距離でのスライド。

間違いない。

相当の手練れだ。

・・・15秒後。

次の交戦はその頃だろう。

そう。

それは邪魔なハリケーンの排除に許された時間でもあった。

私は斜め後方の上空から狙うハリケーンの正面に上昇した。

敵にとっては願っても無い状況だ。

当然ながら20mmの火線が襲いかかる。

私は冷静に見極めると次に急降下を仕掛けた。

案の定、追尾してきた。

おそらくは彼には私のテールしか見えていないだろう。

私を撃ち墜とす事しか考えていないのだろうから。

時間にして数秒。

海面が見えた。

私は一気に桿を引いた。

愛機は方向を変え、海面を撫でるように飛行した。

後方では大きなしぶきと爆音が上がっていた。

ハリケーンはその向きをかえる事が叶わずに海面に激突した。私は、だだのひとつも弾丸を撃たずにこれを退けることに成功した。

残弾は温存する必要があった。全ては優秀なる敵のパイロットの為に。


低空を飛ぶ私の上を火線が走った。

頭上を描く4本のライン。

スピットファイアの両翼から、20mmの4門が斉射されたのだ。

「その程度か。」

私はそう呟くと、高度も進路も変えずに敵機の前を悠然と飛び続けた。

低空を飛ぶのは勇気がいるものだ。

ましてや海面なら尚更である。

だが、相手より低く飛ぶ事が出来なくては戦果は得られないのも事実。

今の状況は相手にとっては屈辱以外の何物でもない筈だろう。

攻撃に対して回避も、反撃もせずに飛行しているのだから。

私は相手が焦れるのを待った。

不意に敵機が機首を下げた。

どうやら私の高度へ降りる様子だ。

500kmを超える速度で、僅か2m程度を下げるのだ。

やはり敵もなかなかなもの。

海面までは6m程しかない。

高度が並んだ瞬間、再度機銃が咆口をあげる。



一瞬の差。

私は更に高度を下げた。

超低空飛行。

既に海面までの距離は4mを切っていた。

同盟国、日本人のパイロットに教わった技術だ。

彼等はこの技術で真珠湾を朱色に染めたのだ。

零戦とパイロットの関係は刀と侍に似ているとあの時に思ったものだ。

それは今も変わっていない。

ならばさしずめ私達は騎士と馬の関係であろうか。

人馬一体。

この超低空飛行を続けるには、まさにその必要がある。

プロペラの巻き上げるしぶきが視界を遮り、猛烈な風圧が波のうねりを呼ぶのだ。

ほんの僅かに海面に触れたならば、機体は木屑となる。

更に波の気まぐれも死を身近にしてしまう。

それでもこの方法は、残弾の少ない私に最良の選択だった。

いや、選択の余地は無かった。

私の巻き上げるしぶきは後方のスピットファイアに襲いかかるのだ。

機体が作りあげる乱気流と、敵機の速度により、激しいスコールのような水の弾丸が注ぐ。

並のパイロットならば既に墜ちていてもおかしくはなかった。

追尾し続ける彼の腕は間違い


相手にとって、不足は無い。

自然と笑みがこぼれた。


次に仕掛けたのは私だった。

【後の先】だけでは彼とは戦えないと感じたからだ。

私は両方のフラップを操作すると一気に減速した。

減速と云うよりもはや失速に近い。

200km超の減速。

頭上2mをスピットファイアが通過した。

主翼裏に書かれた小さな文字が読めた。

識別番号の下に小さく囁くような書き込みが。


【マリア、君の空を・ジョージ、君の未来を護るよ】


海を越えても、地平線の彼方の国でも人の想いは同じだ。

護るべき愛する者の為に、見知らぬ者の命を奪う。

良き父であり、良き夫であり、良き息子である者が手を汚して生き延び、あるいは死んで逝くのだ。

見知らぬ同士は想いを共にする同志。

国が違うというだけで・・・


「殺しあうのか」

躊躇した。

照準に捕捉はしていた。

ほんの一瞬の遅れ。

私の放った火線は虚しく宙を裂いた。

スピットファイアはその優秀な旋回性能で瞬時に反転すると、太陽の光の中に向かって上昇した。

教科書通り。

正攻法だ。

これで私は彼を視認することは困難となった。

今頃あの光の中からこちらを狙っているだろう。

レンジは200m。

迂濶に彼の射程に入れば次は無いだろう。

最高速ならばこちらに80km程の分がある。

私は上空に浮かぶ雲を目指して上昇を試みた。


急激な上昇。

重力に抗う者に対し、容赦の無い圧力がかかる。

シートに体を押さえつけられたかのように身動きがとれない。

操縦棹を力の限りに握りしめていなければ、この両腕さえも弾かれそうだ。

機体もそろそろ悲鳴を上げ始める頃だ。

上昇能力と最高速度の限界は既に超えている。

私が気を失うか、空中分解をするか・・・

速度を緩めてしまえば撃墜される状況、選択の余地は無い。

あの雲まで辿り着けなければ全ては終わりなのだ。

私は暴れる機体と襲いかかる重力の中、上昇を続けた。



不意にキャノピーに水滴が着いた。

雲の外周に入った。

薄雲を纏い機首を雲へ向けた。

徐々に減速をしながら私は待った。

雲の中に逃げ込むように見せなくてはならなかった。

雲の中は雷と乱気流の巣。

この機体の損傷では引き裂かれるのがオチだろう。

チャンスは1度。

あのパイロットを相手に2度目は無いだろう。

私は次第に雲へ近付いてゆきながら、その一瞬を待った。


『奴は必ず、あの光の中から狙っている』


背後にそう感じながら。


呼吸が浅い。

自分でも分かる。

チャンスは1度。

私はその瞬間を待っていた。

表情を変えない雲の僅かな変化がその一瞬だ。

・・・そして、その時が来た。小さな点。

雲に機影が落ちた。

その小さな点は数秒の後にゴルフボール大になる。

それは私が敵の射程に捉えられた事を示していた。

同時に私の射程である事も。

操縦棹を手前に引く。

機体は瞬時に上を向き虚空に円の軌道を描いた。

いわゆる宙返りだ。

真下を向いた時に、小さな漁村が見えた。

既に遭遇点から15kmほど南下していた。

此処からならば基地は近い。

燃料はもちそうだ。

あとは弾薬が問題だった。

スピットファイアのテールが目の前にある。

形勢は逆転。

私は指先に力を込めた。

短い連続した破裂音が両翼から発せられた。

鋼鉄のスコールが襲いかかる。

垂直尾翼の一部を吹き飛ばし、主翼を撃ち抜いた。

やがて銃身からの音が金属を打ち付ける音に変わった。

全ての弾薬が尽きた。

そして今、敵機は目の前を悠然と飛行していた。

『万事休す』

不思議と焦りはなかった。

むしろ高揚感のような、諦めとは違う感情があった。

それも仕方がない。

私は敵機の反撃を覚悟した。

が、反転すると思った機体は白煙を上げて高度を下げて行く。

スピットファイアはゆっくりと沈むように墜ちて行った。


徐々に下がる高度。

戦いの舞台から降りる様子を眺めながら違和感を覚えた。

パイロットが脱出をしない。

コクピットには被弾していない筈だ。

私は機をスピットファイアに並べ右手を左下から斜めに引き上げ仕草を見せた。

パラシュートを開くジェスチャーだ。

伝わるはずだ。

私の機体が並走したのを見た彼は一瞬驚いた表情を見せたあと、ふっと笑ったように見えた。

そして首を振った。

そして指で地上を指した。

集落があった。

漁村だろう。

確かにこのまま墜ちれば民間人への被害は確実だった。

彼の機体はもう真っ直ぐにしか飛べない。

尾翼は中破し、ラダーにも無数の弾痕があった。


もう一度パラシュートジェスチャーを示した。

そして外翼30mmのトリガーに指を掛けて見せた。そしてスピットファイアへ人差し指と中指をむけて最後に親指を立てた。

ようやく彼は頷いてくれた。

その直後のことだった。

爆発音と共に、スピットファイアが火を噴いた。

何かが燃料に引火したようだ。

彼はそれでも海へ向けて操縦棹を握る。

「危険だ、脱出を!」

思わずそう叫んだ。

この人はこのままでは最期まで飛び続ける。

私はこのドッグファイトの最後の駆け引きに賭けた。

機体をスピットファイアの後ろに着けて撃墜の姿勢を取った。

頼む、騙されてくれ。


キャノピーが開いた。

脱出直前、彼は私に敬礼をした。

この高度では無事では済まないが生還は可能だろう。


パラシュートの降下を確認すると私は覚悟を決めた。

もちろん撃墜する弾薬は無い。

海はもう見えている。

出来る事はひとつだった。

私はスピットファイアの後方下へ機体をつけると機体を潜りこませた。

直線で数秒飛べばいい。

そのまま持ち上げる様に接触させた。

十数秒後、真下に海が見えた。

刹那、轟音を伴った爆炎が視界を覆った。

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