第2話 『通知の光に名前がついた日』
その日も、玄関の鏡は何も言わなかった。
前髪の分け目を数ミリずらしても、笑顔を練習しても、
映っているのは “昨日とほとんど変わらない私” だった。
駅へ向かう道には、もう小さな輪が生まれ始めていた。
中学の仲間同士が、偶然を装って集まっている。
笑い声の島を避けるように、私はそのあいだをすり抜ける。
教室に入ると、黒板には「自己紹介カード提出」の五文字。
隣の席ではすでに「昨日さ〜」と“共有できる昨日”の会話が始まっていた。
私の昨日は、入学式と、帰り道と、スマホの光だけで終わっているのに。
席に座ると、前の席の子が振り向く。
「ねえ、黒瀬さんってどこの中学?」
喉がひゅっと鳴り、声の出し方が一瞬わからなくなる。
「え、えっと……○○中、だよ」
「あー、あの制服のとこか。うちの中学と試合したよね」
会話の糸はそれだけで切れ、彼女はまた別の友だちのほうへ向き直る。
机に置いた自己紹介カードには、まだ白紙の「趣味」。
“読書”と書くには最近の本が浮かばない。
“音楽”と書くには、語り合った相手がいない。
結局、「音楽を聴くこと」と、つかみどころのない言葉で誤魔化した。
誰にも見せないはずなのに、嘘と本当の中間を選んでしまう。
昼休み。クラスの輪郭は、昨日よりはっきりしていた。
LIME交換の輪、写真撮影の輪、部活見学の相談の輪。
“私の入れる輪”だけがどこにもなかった。
母の弁当はいつも通りで、そこだけが安心だった。
ふと顔を上げると、教室の前のほうでスマホを掲げた声が弾ける。
「見てこれ、入学式のやつ五十いいね!」
「はやっ!」
画面の向こうの数字が、彼女たちの自信を膨らませている。
私のスマホは、鞄の中で沈黙したままだった。
昼休みの終わり、トイレの鏡の前でそっとスマホを取り出す。
ツブヤイッターのアイコンが光る。
けれど開くのは放課後、と決めた。
依存しないため、という理由を作って。
放課後の部活紹介では、拍手のタイミングを半拍ずらし続けていた。
心の奥で、「どうせ入らない」と、初日から結論が出ていた。
帰り道、昨日と同じコンビニでミルクティーを買う。
「新生活応援」のポップに、誰の生活が応援されるのかを考えてしまう。
レジ袋を持つ手が、ゆっくり重くなる。
◇
部屋に戻り、制服を脱いでパーカーに着替え、ベッドに座る。
ツブヤイッターを開くと、通知がまとめて点灯していた。
昨日の投稿は、二桁後半の♡。
知らないアカウントがいくつも増えていた。
誰かが “#新高一” で見つけてくれたのだと思うと、胸がざわついた。
タイムラインには、同い年くらいの子たちの“今日”が並んでいた。
加工アプリの光を浴びた教室。
腕を組んで笑う二人。
スタバのカップを持って自撮りする子。
そして、画面を飛び交う「かわいい」「尊い」。
画面の中でだけ、誰かが誰かをまっすぐ褒めていた。
ただ羨ましいだけでは説明できない感情が、胸のあたりで渦を巻く。
プロフィールを開く。
昨日作ったばかりのアカウント。
フォロワーは十数人。
ぼかした横顔のアイコンは、自分でも判別しにくくて、それが安心だった。
そこで、通知がひとつ増えた。
リプライ。
アイコンに青い点。
@amekun_0202――あめくん☔️。
今日もおつかれさまです。
新しい学校、どうですか?
知らない人。
顔も、声も、年齢もわからない。
でも“私の今日”を気にしてくれる誰か。
指先が勝手に動いた。
まだ慣れないけど、がんばってます。
すぐに既読がつき、返事が届く。
えらい。
無理しないでくださいね。
文字なのに、声のように胸に落ちた。
“えらい”なんて言われた記憶がなかった。
彼のプロフィールをひらく。
フォロワー五百。
日常と音楽の話。
顔写真はない。
どこにでもいるようで、どこにもいないような人。
(こういうの、警戒しなきゃいけないんだろうな)
頭ではそう思うのに、
胸の奥の “見つけてもらえた実感” のほうが勝っていた。
その夜、私は二枚目の写真を撮った。
照明を落とし、スタンドライトだけをつけ、
前髪を少し分け、フードをかぶり、肌の色を補正する。
画面の中の私は、現実よりも少し整っていた。
「変ではない」と思える程度に。
キャプションに短い言葉を置く。
今日はちょっとだけ頑張れました。
送信。
すぐに♡が一つ。
また、あめくん☔️。
見知らぬアイコンが、私の写真に小さく並ぶたび、
胸の奥で小さな何かが溶けるようだった。
◇
数日が過ぎた。
学校では、“雑談だけできる距離” の子ができた。
深くは関われないけれど、孤独の完全な否定にはなる関係。
放課後は早足で帰るようになった。
スマホの光が、家の中で私を待っている気がしたから。
ツブヤイッターでは、フォロワーがまた増えた。
あめくん☔️のリプライ経由で来た人もいる。
彼の名前は、私にとってひらがなで書かれた “安心” の記号になっていた。
今日もがんばっててえらい。
無理しなかったのも、えらい。
短くて優しい言葉。
学校の誰よりも、家族よりも、
私を“見てくれている”ように感じられる文。
(他の人にも言ってるのかな)
そう思いながら過去のツイートを見ても、
今この瞬間に私へ向けられている言葉だけで胸が満たされた。
◇
その夜。
小テストの範囲に蛍光ペンを引きながら、
スマホの光を無意識に待っていた。
通知がひとつ増える。
ツブヤイッターではないアプリの、別のアイコン。
「DMが届いています」
胸が跳ねる。
開くと、あめくん☔️からだった。
いきなりごめんね。
なんとなく、ちゃんと話したくなって。
もしイヤじゃなかったら、少しだけ仲良くしてくれませんか。
礼儀正しく、当たり障りのない文。
けれど“私だけに届いた言葉”という事実が、
胸の奥で大きく波を立てる。
怖さと、切れたくない気持ちが同時に押し寄せる。
教室ではつかめなかった誰かとの糸が、
ようやく指先に触れたような感覚。
こちらこそ、よろしくお願いします。
送信。
既読。
秒針の音がやけに大きい。
心臓と画面の光と夜の静けさが、
一つの部屋で絡まり合っていた。
――その瞬間、小さな境界線を越えたことに、
あのときの私はまだ気づいていなかった。
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