第1章
第1話 『黒瀬ゆめ、入学式の日』
玄関の鏡に映る私は、朝の光を浴びているはずなのに、どこか冷たかった。
跳ねた前髪を手で押さえ、アイロンをさっと当てる。
制服の襟を整えるだけで、胸の奥がきゅっと固くなる。
(今日こそは……あの頃の私と別れられるはず)
新品のローファーは、歩くたびに私の足を他人みたいに扱った。駅までの道は、リボンの色があちこちに咲いて、春の景色としては完璧なのに、胃の奥が固い。
電車の窓に映る自分は、笑おうとしても表情が引きつってしまう。鏡で練習したそれとはまるで別物だ。
校門前には花のような声が降り積もっていた。シャッター音が跳ね、輪ができては弾けていく。その輪のどこにも私は馴染めそうにない。
昇降口の掲示板――一年C組。
人の肩越しにようやく自分の名前を見つけ、胸の奥がざらつく。
教室には、もう“雰囲気”が出来上がっていた。
窓際の三人、廊下側の二人。まだ誰も本当の性格なんて見せていないのに、「笑顔」だけが初速から速い。
私は自分の席に鞄を置いて、「おはよう」の出しどころを探した。
「お、おはようございま——」
声は、机の木目に吸われた。前の席の子が軽く笑ってくれる。その優しさに返す言葉が、喉でほどけた。
私は教科書を盾のように立て、周りのざわめきに紛れた。
開式。体育館。白い光。椅子の足音。
吹奏楽が空気をゆっくり染め、校長の言葉は春の匂いに薄められていく。
拍手のタイミングを一拍間違え、両手だけがやけに大きく響いた。
ホームルーム。プリントの束。新しい名前の群れ。
そして、自己紹介。
隣の列から順に名前が上がっていく。
笑い声。拍手。軽い冗談。
それらが全部、透明な壁みたいに私の前に積み上がっていく。
立ち上がった瞬間、視線が集まった。
優しさも興味も、ただの“確認”も、全部同じ重さで肩に落ちる。
「く、黒瀬ゆめです。……す、好きなものは、えっと——」
声が転んだ。
笑いが起きた。悪意とは違う。けれど、その曖昧さが一番刺さる。
私はうなずき、座った。手のひらが湿って、スカートの布が冷たい。
放課後。
校門前では、まだ花の輪が途切れていない。
コンビニに寄って冷蔵ケースのガラスに映る自分を見た。前髪も襟も崩れていない。
でも胸の奥で、ひゅう、と風が抜けた。
「どうだった?」
家に戻ると母が聞いた。
「楽しかったよ」
嘘は簡単に形になる。息を吸うより簡単だ。
夜。
ベッドの上でスマホを開く。
#高校デビュー #新高一
どの画面も眩しくて、どの笑顔も“正しい”。
ケーキの箱、友だちの肩、彼氏の腕。
その全部が、自分とは別世界の温度をしていた。
私は「私も」と打っては消し、「わたしだって」と打っては消した。
胸の中央がきゅっと縮む。言葉がどこにも着地しない。
インカメラを開く。
部屋の光を一段落とし、前髪を少し下げ、袖で指を隠す。角度を変える。
フィルターが、現実の私と少しだけ距離を置いてくれる。その距離が心地いい。
キャプションを書いた。
はじめまして。がんばれますように。
#新高一 #はじめまして
送信。
♡がひとつ灯る。
指先がそれに小さく反応した。
まぶたを閉じると、白い体育館の光と、拍手のずれと、笑い声の余韻が浮かんだ。
悪意なんてなかったことくらい分かる。でも痛みは、理由なんて必要としない。
眠りに落ちる直前、通知が鳴る。
♡は二つになった。
私はその音に、ほんの少し救われた。
――そして、それがすべての間違いの始まりだった。
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