鯨の唄

陸離なぎ

鯨の唄


 鯨は今日も鳴いていた。

 一〇ヘルツから数万ヘルツの鳴き声で、今日も遠くの同胞へ唄を送っていた。



 今から五〇〇〇万年ほど昔。

 それは恐竜の時代が終わり哺乳類の時代が始まって一五〇〇万年が経った頃、地球はある生き物、陸上哺乳類――パキケトゥスと呼ばれる生き物が支配していた。

 当時に霊長という言葉があったのなら、パキケトゥスこそがそう呼ばれていただろう。彼らは頭が良く、持ち前の泳ぎの得意さから、海辺に生息しては浅瀬で追い込み漁を行い、暮らしていた。

 誕生から数百万年経つ頃には、一部地域で言語を手にして小さな社会を築き始めていた。やがてパキケトゥスは二足歩行を始め、前足は腕となり、道具を作ることを覚えた。パキケトゥスが完全に陸上に住むようになり、信仰と王が生まれたのもこの頃である。

 そうして数千年、数万年と社会を維持させたパキケトゥスは、現在の人類に匹敵するほどの文明を手にし、地球全土を支配していた。このまま何も起きなければ、パキケトゥスは現代も地球を支配し、人類、ひいてはホモ属の誕生すらなかっただろう。

 だが、事件は起こった。

「このままだと、魚が捕れなくなる……?」

 神妙な面持ちで学者からの報告にオウム返しをしたのはパキケトゥスの水産大臣、ルクターヌである。茶色い皮膚の、少し顔から飛び出した上顎に手を置き、目線を送って報告の続きを学者に促した。

「直ちに、と言う事ではありません。おそらく我々の生きている内は問題ないでしょう。ですがこのまま温暖化が進めば、我々の主食である魚は数を減らし、一方で人口増加の影響も考えると、数百年後には飢死するものも現れます。今から手を打たなければ、それを起因とした絶滅も考えられます」

 数万年の文明を築き上げたパキケトゥスだったが、魚の養殖は研究目的程度にしかされていなかった。というのも、必要な分は海から取れていたからだ。故に漁獲量の低下は重要な問題だった。

 ルクターヌは閣僚を招集し、未来の食糧危機問題を議題に上げた。会議はすんなりと進み、大量の予算が投じられて世界中の学者が集められた。

 そうしてパキケトゥスが生き残るため、二つの案が国会に提出された。


一、温暖な海でも寒冷な海でも暮らせる、巨大で脂肪を多く含む生き物を遺伝子組み換えで生み出し、海で養殖する。

二、温暖化はそもそも、パキケトゥスの地上での生活にも支障をきたすので、巨大な水産養殖場を有する移動シェルターを作る。


 国会はパキケトゥスの歴史上類を見ないほど荒れた。

 一つ目は、パキケトゥスの技術をもってしても遺伝子組み換えの技術は完璧ではなく、また、生態系にどのような影響を与えるか分からないということで。

 二つ目は、シェルターに暮らし始めたら、事実上地上を捨てることになるという忌避感や、種として快適な環境に慣れてしまえば、生物として弱っていく一方であるという意見で。

 現にパキケトゥスは、かつてほど泳ぎを得意とせず、仮に泳げても素手で狩りができる者はごく一部の格闘家ぐらいだ。科学文明の発達により、そのぐらい身体能力は落ちていた。

 数年もの間議論が続き、やがて結論が出た。

 温暖化が予想以上の速度で進んでいることが判明したからである。

 早急に一つ目の案、温暖な海でも寒冷な海でも暮らせる、巨大で脂肪を多く含む生き物を生み出してその場をしのぎ、その間に二つ目の案を進める。

 これがパキケトゥスたちの選んだ生き残るための道だった。



 新たに生み出しされた生物はアンブロケトゥスと名付けられ、パキケトゥスの食料として好まれた。

 余談だが、アンブロケトゥスは国民には知らされていない秘密がある。それはアンブロケトゥスは魚ではなく、パキケトゥスの遺伝子をベースに作られた哺乳類であるということだ。食料である魚のことよりもパキケトゥスのことの方が、パキケトゥスたちは詳しいからである。

 それを知る一部の学者や官僚たちは中々アンブロケトゥスの肉を食らうことはできなかったが、一般市民からは舌が肥えているからだと嘲笑されるに留まった。

 閑話休題。

 それから数百年経ち、全人口が乗り込めるほど巨大な白い箱――水産養殖場を有したシェルターが完成した。

 中の空気を外に漏らさないほどに重圧な鉄の扉が何重にもあり、そこを抜けると、とにかく手すりの多い廊下が続いた。

 途中でいくつもの通路が左右に伸びているが、真っ直ぐに進むと大広間がある。

 中央に進むにつれて傾斜となっており、真ん中は外周よりも二メートル、低くなっていた。そこは噴水があり、パキケトゥスたちが皮膚の渇きを潤せるようになっていた。

 各壁に十ずつ扉があり、商店エリアや遊行エリア、住居エリアなどへ続いている。

 そこまでは初めに想定されていた設備であった。だがそのシェルターには、当初想定していたものとは異なる点があった。

 そのシェルターは、宇宙船だったのである。

 パキケトゥスたちは、千頭のアンブロケトゥスと数十年分のアンブロケトゥスの肉を保存食用に加工した。

 環境が変化しそのたびに一喜一憂する地球と別れること。それがパキケトゥスたちの選んだ道だった。

 地上に残ったパキケトゥスの文明の痕跡は自然が押しつぶし、数万年経つ頃には跡形も残ってはいなかった。

 パキケトゥスが宇宙へ飛び立ち五〇〇〇万年が経過した現在。そのことを知る者はいない。アンブロケトゥスの子孫――鯨たちを除いて。



 鯨は今日も鳴いていた。

 近くの同胞へ、歴史を伝えるために。

 親から子へ、子から孫へ。

 そしてこの鯨、ザトウクジラのトニーは幼い妹に言い聞かせていた。

「いい子にしていないと、宇宙からパキケトゥスがやって来て食べられちゃうよ」

「きゃあ、こわーい」

 ミカは笑って兄に身体を擦りつけた。

 パキケトゥスなんて、誰も、どこにいるかなんてわからない。本当にいたのかも分からない。そういう意味で、ミカたちにとっては想像上の生き物でしかなかった。

 なんなら人間の方が鯨にとっては身近な恐怖だ。

 それでも鯨たちはパキケトゥスのことを語り継ぐ。

 唄に乗せて語り継ぐ。

「もしパキケトゥスが来たら守ってね、お兄ちゃん?」

 ミカはトニーの身体に顔を擦り付け甘えた。トニーもそれに応え、胸鰭でミカの頭を撫でる。

「もちろんだよ」

 その時だった。

 海の中からでも分かるくらいに空から光が降り注ぎ、続いて海に何かが落ちてきた。トニーはその衝撃からミカを庇い、考える。

(まさか、パキケトゥス⁉)

 すぐに頭を振って思考を切り替えた。

(正体がなんであれ、まずは逃げないと)

 海に生きるものにとって、外から来るものは良くないものかどうでもいいものだ。

「ミカ、離れるよ」

 トニーは尾鰭を思い切り動かそうとした。

「行ってみようよ?」

 幼さゆえに道理の分からぬミカは好奇心が勝り、言いながらトニーの下を離れて落下物に泳いでいく。トニーがミカの方へ振り返ると、随分と離されており、胸鰭で捕まえることのできない距離だった。

「待てミカ」

 しばらく泳いだ後にミカは止まり、トニーも追いついた。

 その場所は岩場の陰で、巨大な体を持つ鯨の二人でも、隠れながら落下物を観察することができた。

 落下物はトニーよりも一回り大きいくらいの鉄製の乗り物のようで、海底に突き刺さっている。

「人間の乗り物かな?」

 興味津々なミカに対してトニーは低い声で否定した。

「違うと思うよ」

 トニーは知識ではなく本能的に違うと感じた。

(もっと人間からは遠くて、だけど鯨に近しいものを感じる)

「もう、行くよ!」

「何か出てきた」

「え?」

 落下物は扉が開き、中から透明な防護服を身に包んだ人のような大きさの生き物が出てきた。茶色い皮膚に、上あごの突き出た生き物が、背負ったボンベから空気を吸っている。

 人間ではない。

 だが人間のようだ。

 その訳の分からなさに、トニーは思わず身を乗り出してしまった。

「ほほう。これは食いでがありそうだ」

 人間の言葉は鯨にはわからない。

 鯨が分かるのは、鯨の言葉だけだ。

(まさか本当に、パキケトゥスが⁉)

 考えている間に、落下物から出てきた生き物は、銃のようなものをトニーに向けた。

「逃げるよ! ミカ!」

 トニーは慌てて岩陰に戻り、胸鰭でミカを包むように捕まえ、全力で泳いだ。

 落下物から少しでも離れようと泳ぎ続け、一時間経ってようやく振り返る。追ってきていなことを確信してから海から顔を出した。

 ミカと共に深呼吸をすると再び海に潜り、ありったけの大声で遠くの仲間に知らせた。

「パキケトゥスだ! パキケトゥスが来たぞぉぉぉーーーー」

 パキケトゥスがなにをしに地球に――海に戻ってきたのかトニーには知る由もなかった。ただミカを胸鰭で抱きしめる。

 今の声で居場所がばれただろう。そう思いトニーは再び泳ぎ始めた。

 半日後。

 広く見渡しの良い海域で、ミカはトニーの尾鰭を見て悲しげな声を上げた。

「お兄ちゃん、ごめんね。わたしが落下物を見に行ったから……」

 逃げることに必死だったトニーの尾鰭は、何度も岩場にぶつかり、擦り傷だらけであった。

「いいんだよ、ミカ。ボクはミカが無事ならそれでいい」

「お兄ちゃん……」

「美しい兄妹愛だな」

 後ろから聞こえた声にふたりが振り返ると、そこにはパキケトゥスが銃のようなものを構えていた。

「ミカ、ボクの後ろに!」

 トニーは胸鰭でミカを庇い、パキケトゥスとの間に割って入った。

「なんなんだよ、お前たちは!」

「オレたちは知っての通り、かつてこの星を支配したパキケトゥスの子孫――今の地球風に言うなら、そうだな……鯨人間ってところだな」

「今更何をしに来たんだ!」

「帰ってきたんだよ! 惑星レベルで気温をコントロールする技術が誕生したから、オレたちは再び地球に住むことにした。だからまずは、食糧のアンブロケトゥスがこの星にまだ生きているか、調査員のオレがこのエリアに派遣されたってわけさ!」

「ふざけるな! 帰れよ!」

 トニーはありったけの大声で威嚇する。

「だから、帰ってきたんだろ!」

 パキケトゥスが引き金に掛けた指に力を込めたそのとき、時速五十キロを超える速さでパキケトゥスの腕に何かがぶつかった。



 鯨の唄は鯨にとって伝説であり、言い伝えでもある。

 言い伝え。即ち教訓。

――普段は食らい合うことのある敵でも、パキケトゥスが現れたときには協力して排除しろ。

 鯨の唄にはこんな意味が込められてきた。

「なんだこいつ!」

 武器を落としたパキケトゥスは腕を押さえ、ぶつかってきた存在を睨みつける。そこに居たのはシャチだ。キラーホエールと呼ばれるシャチもまた鯨の仲間であり、パキケトゥスを語り継ぐものであった。

 パキケトゥスが改めて周りを見回すと、さまざまな種類の鯨が辺りを取り巻いていた。

 鯨たちは取り囲んで逃げ道を封じ、数匹のシャチがパキケトゥスに代わる代わる体当たりを続ける。空気を入れたボンベを、剥がすように。

 この見晴らしのいい海域は鯨たちにとって、約束の場所なのである。

 トニーは勇気を振り絞り、パキケトゥスをこの場所におびき寄せたのだ。

 パキケトゥスが、自分が誘い込まれたことに気が付いたときにはもう遅かった。

 何度目かの突進でボンベと防護服の接着が剥がされた。慌てて海面に上がろうと顔を上げ、捕食者は絶望した。

 地球最大の動物と言われるシロナガスクジラが海面を覆い、パキケトゥスは海の中に閉じ込められた。

 かつて海より這い出たパキケトゥスは、大海に散った。

 いずれまた別のパキケトゥスが地球に降り立つことがあるかもしれない。

 だが、鯨が鯨の唄を忘れない限り問題はない。



 鯨は今日も鳴いていた。

 一〇ヘルツから数万ヘルツの鳴き声で、今日も遠くの同胞へ唄を送っていた。

 近くの同胞へ、歴史を伝えるために。

 親から子へ、子から孫へ。

 唄に乗せて語り継ぐ。

 彼らの歴史を。

 そして彼らの約束を。



〈鯨の唄・終〉


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