第6話・真冬のマリーゴールド

第6話・真冬のマリーゴールド①


――2年前・12月24日


 季節の色を存分に映し、冷え込んだ夜。


 地上を光の海に浸すように、数多の照明が通りを飾る。

 遠く、黄金色の月がひとつ。孤独な空にぼんやりとした光の輪郭を浮き立たせている。


 街に溢れる要素のすべてを、彼は目にすることができない。

 彼は、音で世界を捉えている。


 人間が奏でる音は、多彩で複雑。自身の内側で響く生命の音も、他人の話し声も。絶えず満ちて、尽きることがない。


 飽和する音。

 聴覚に身を浸し、存在ごと音に溶かす。

 曖昧になる境界に呑まれて――そこで、ようやく息ができる。


 音が形作る影の間をすり抜ける。普段よりもひとつ、ふたつ。余計に荷物を抱えている人が多いのは、今宵がクリスマスイブだからだろう。終電まで1時間を切った駅のホームは人で溢れていた。家路を急ぐ人も、留まる人も。


 冷えた空気に体を縮め、分厚く着込んだ内側から聴こえるくぐもった音。乾燥した空気に吐く息が溶けて、ふぅわりほのかに熱が灯る。


 白石しらいし蒼葉あおばは人群れからひょこっと抜け出し、開けた空間へと足を進める。


 高い天井。突き当りの壁一面に並ぶガラス窓には夜景が映えて、まるで空を飛んでいるように見えるという隠れ人気スポット。記念撮影する人の声が通過していき、何人かの気配は待ち合わせなのか疎らに留まっている。


 蒼葉は開けた空間の中央まで歩を進め、キィと音を立てて椅子を引いた――誰でも自由に演奏することができる、いわゆる駅ピアノ。


 留まっていた人の視線が、チラリと向く。蒼葉はその気配を敏感に察して、軽く頭を下げた。

 ツゥ――、と。滑らかな表面を指の腹で撫でる。凹凸のないツルリとした質感。冷えた温度。一直線の窪みに指先を引っ掻け、重さを押し上げ蓋を開く。


 ふわっ、と。閉じ込められていた空気が舞い上がる。

 サァッ、と。吹き抜ける風が並ぶ鍵盤を撫でた。


 蒼葉は口角を上げて、冷えた指先を入念に揉んだ。じわりと血の通う感覚を確かめて、最初の一音を押し込む。


 ポォン、と。澄んだ音が、空気を震わせ波紋を広げていった。


 音は、留まる人の頭に、通り過ぎる人の肩に、遠くにいる人の耳に触れ――同心円状に波及していく。

 歪な反響を聞きながら、蒼葉は両手の指を開いて鍵盤に置いた。



 ざわめきが刹那――一斉に静止する。



 力強く押し込む指。次々と超速で叩く鍵盤。できるだけ大きく、激しく。周りの空気を巻き込み、染め変える。


 意図を込めて奏でた勇壮なプレリュード。


 短いフレーズを弾ききって、一度指を止める。


 空気が、張りつめた緊張の中でひそやかに呼吸している。プツリと針を通せばそこから一気に破れ、溢れ出す。蒼葉はイメージのまま、右端の音を小指で叩いた。


 繊細に高く、針のように突き抜けるか細い一音。


 蒼葉の演奏に足を止めた人たちが、息をひそめたまま距離を詰めた――まるで、ガラス一枚隔ているかのような。


 こうして蒼葉は、いちばん居心地のいい場所を自ら創造する。そしてその外側に、人を招く。

 口角を上げて、次に奏でるのは定番のクリスマスソング。赤い鼻を憂いて落ち込む相棒に、サンタクロースが誇りを送る優しい曲。そして、鐘の音を思わせる曲をテンポよく、弾むように奏でた。


 周囲の空気が笑っている。蒼葉も心地よく口を開けて、機能しない声帯を震わせハッと強く息を吐く。まるで笑い声を立てるように。


「――あ、雪だ」


 誰かが呟く声で、一点に集めていた意識が散漫に解けた。

 人群れの肩先を掠めて吹き込む風。ヒヤリ、と。氷を思わせる温度が頬を撫でる。

 口内に溜めた息を、フッと吐き出す。ほのかな熱を宿す息はきっと形を作り、揺れて、溶けた。


 雪――と、呟かれた言葉と、触れた風から連想する。


 氷のように冷たくて、形のある雨。氷点下の道路に、屋根に、街路樹に積もり、世界の温度を下げる。


 自然と、高音になる旋律。


 蒼葉は頭に描くイメージのまま、オリジナルの音を作り始めた。

 ひとつ、またひとつ。蒼葉が築いたガラスの向こうで離れて行く足音。


 蒼葉がもう、惹き付けることをやめたから。

 そしてもう、終電が近いから。


 構内を震わせる音は蒼葉の演奏だけではない。スピーカーから響くひび割れた音。発車のベル。大きな空気音と、枕木を打つ車輪の音。


 蒼葉はノイズを意識から追いやって、自身の音に没入する。


 空気の干渉を受けて尚、形を保ったまま地上に落ちる雪。水とも、氷とも違う、もっと微細な結晶の集まり。

 冷たいのに、触れるととても柔らかで。ほどけて水に変わるまではほんの一瞬。

 体温には干渉を許す儚さ。それでも降り積もれは、太陽の熱でさえ溶かしきるまで時間がかかるしぶとさ。


 指が、まどう。


「――冷たい音だね」


 硝子の膜を破って、思わぬ位置から声がした。


 風に紛れていた、微かな呼吸の揺れ――さっきまで気配にまったく気づけなかった。

 ホゥ、と。温かな息遣い。気管から零れる曖昧な音。


 蒼葉はギョッとして思わず指を止めかける。


 滑る指先が叩こうとした音を――別の指が継いだ。


 あっ、と。自身の思考にはない強さの音に、紡いできた音楽が変化していく。


「次、ここ? 弾いてもいいの?」


 女性の声だった。蒼葉と同じか少し年上の、若い声。

 風邪でも引いているのだろうか。ひどく掠れた声だった。


 彼女の指は躊躇いながら、それでも迷いなく音を選んで鍵盤を弾く。

 蒼葉は主旋律を彼女の音に任せて、自身は伴奏を添えた。蒼葉の作るベースラインに、彼女も控えめに乗り始める。


 連弾で紡がれていく、冬の音。


 手探りでつなぐ即興曲の合間に、彼女の戸惑う息が揺れる。


「あの……失礼だったらごめんなさい。あなたは、目が見えないの?」


 蒼葉は手を止めることなく、顎を引いて頷いた。彼女に気を遣わせないように、柔らかく口角を上げて。


 彼女が、鍵盤から指を離す。スゥと引く余韻を聞いて、蒼葉も演奏を止めた。


 シン、と。広い空間を満たす静寂。足を止めていた人はほとんど去って、留まっていた人の気配も消えていた。まもなく、この場所も閉められるのだろう。


 衣擦れの音がする。次いで、微かに立つ金属の摩擦音。彼女がバッグを開く音。

 中を探る音がして、取り出したものを彼女は蒼葉の腿の上に置いた。


 蒼葉は触れた感触を手繰り寄せて、表面に触れる。柔らかな曲線。縁に添って指を這わせると、くるりと一周円を描くのが分かる。


 側面は上下を2つ繋ぎ合わせたような構造になっていて、そのつなぎ目と底面からほのかな熱を感じる。熱源は、指の腹に伝わる振動。触れた部分が光っているのだろう。


 形を確かめ終えた蒼葉は、彼女の方を向いて首を傾げる。彼女は微かに笑う。


「夢の機械なんだって。この子がきっと、あなたに色を視せてくれるよ。あなたの音は、色づいてるから」

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