第1章:少女の死の視覚化

春の朝は、いつも眠い。

だが今日は違った。胸の奥で、まだ夜の冷たさが残っている。


昨夜見た“赤い少女の死”が、まぶたの裏にこびりついて離れなかった。


——秒針が止まる。

——世界が吸い込まれるように静まる。

——その相手は、必ず死ぬ。


何度経験しても慣れない。

慣れてしまえば、きっと俺の心は壊れる。


「……行くか」


制服に袖を通し、アパートを出る。

朝の空気は明るいはずなのに、どこか薄暗く感じた。

昨日の死が、世界の明度そのものを奪っていくような感覚。


階段を降りながら、耳にかすかな違和感を覚える。


——カチ、カチ、カチ。


いや、それは現実の音じゃない。

俺だけに聞こえる、脳に焼きついた秒針の感触だ。


「……やめろよ。朝から」


思わず額を押さえた。


死を“見る”という能力は、誰かに与えられたものではない。

もっと曖昧で、もっと理不尽で、もっと人間の理解とは程遠い。


昨夜、あの黒衣の男が言った言葉がよぎる。


――調律者。


何を指すのか分からない。

ただ、俺はその言葉の冷たさに、「生きてはいけない世界線にいる」という予感を覚えた。



学校へ向かう通学路は、いつもよりざわついていた。

ざわめきの中心にいるのは——


月白澪(つきしろ・みお)。


クラスでひときわ目を引く少女。

竹のようにすらりとした肩。

透き通る髪色。

それでいて感情を表に出さない、淡く静かな目。


普段はひとりで登校する彼女が、今日は先生に囲まれていた。


「月白、ほんとに大丈夫か?」

「無理するなよ。保健室寄っても——」


澪は軽く首を振り、微笑む。

その笑顔が、どこか脆かった。


俺は少し距離を置きながら、自然と足を止めた。


——胸が痛む。


理由は分からない。

ただ澪を見ると、いつも胸が締め付けられる。


すると。


視界の端で、何かが揺れた。


心臓が止まる。


目の前の澪の背後に——

黒い“秒針”が、浮かんでいた。


「……嘘だろ」


呼吸が、霜のように白くなる錯覚。

周囲の音が、遠くへ吸い込まれていく。

教室へ向かう生徒の声が、一瞬で水中のようにぼやける。


秒針は澪の背中で、


ピタリ——


と止まっていた。


止まった瞬間、それはもう“予兆”ではない。


死の確定だ。


30秒以内に、

澪は——死ぬ。


胸が大きく脈打ち、足が勝手に動いてしまう。


「っ……!」


人混みを押し分けるように走り、澪の腕を掴んだ。


「澪、危ない——!」


言った瞬間。


世界が、落ちた。


本当に落ちたのだ。

空気の密度が変わり、色彩が一気に薄れ、

さっきまで騒がしかった通学路が、まるで止まったフィルムのように無音になる。


「……如月くん?」


澪だけが動いていた。

彼女の瞳だけが、世界と切り離されたように揺れている。


「聞いて、澪。今このままだと——」


黒い秒針が、カチ、と震えた。

動き出すまであと数秒だ。


助けなきゃ。


だがどうやって?


澪は確かにここにいるのに、

“死”の形はまだ見えない。


事故か。

落下物か。

心臓か。

車か。


思考が千切れそうになる。


澪が、静かに口を開いた。


「——如月くん。助けないで」


「……え?」


次の瞬間。


黒い秒針が——


カチ。


動いた。


世界が色を取り戻す。


澪の身体がふわりと揺れた。


風に押されたように、たった一歩、後ろへ下がる。

その瞬間。


「危ない!!」


後ろから来た自転車が、澪のすぐ横を猛スピードで通り抜けた。

あと半歩でもずれていれば、彼女は確実に跳ねられていた。


澪は小さく息を飲み、俺の腕を掴む。


震えていた。


「如月くん……いまの……」


——違う。

“死”はまだ終わっていない。


秒針は、まだ止まり切っていなかった。

そして黒秒針のルールは一つ。


死は必ず訪れる。

助けたように見えても、世界は別の形で帳尻を合わせる。


俺が澪を見た。


澪が、俺を見た。


その瞳の奥に——

はっきりとした“恐怖”が浮かんでいた。


「……如月くん。

あなた、黒秒針が見えてるんだよね」


口の中の温度が、一気に消える。


どうして知っている?


どうして、今?


澪の声は震えながらも、確信を帯びていた。


そして——


「お願い。助けないで。

助けられると、誰かが死ぬから」


俺は言葉を失った。


澪は知っている。

黒秒針の“本質”を。


なぜ?


誰から?


どうして?


胸の奥で、見えない針がゆっくりと動き出すような感覚。

その瞬間、世界の端で、小さな“悲鳴”が上がった。


誰かが死んだのだ。


俺が、澪を助けた代わりに。


「……っ……!」


澪は唇を噛んで俯く。


如月蒼生の世界は、この日を境に静かに崩れ始めた。


——そして、逃れられない“調律”が始まった。

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