黒秒針

序章:黒秒針(こくびょうしん)が止まった夜

闇が、あまりにも静かだった。


春の終わりとは思えないほど冷えた風が、

アパートの薄い壁をくぐり抜け、ベッドに横たわる俺の頬を撫でた。

——にもかかわらず、額だけがひどく汗ばんでいる。


理由は一つ。


時計の秒針が、止まっている。


壁にかけた白い時計。

針は二十三時五十九分を指したまま、かすかな振動すら見せない。


「……また、かよ」


胸の奥がざわつく。

この“異常”を俺は知っていた。

いや、嫌でも“覚えさせられた”。


秒針が止まるのは、故障ではない。

死の予告だ。


ただし——

見えるのは、如月蒼生である俺だけ。


ベッドから起き上がり、時計に近づく。

耳を澄ましても、カチリとも鳴らない。

それどころか、周囲の音が世界ごと吸い込まれたように静まり返り、

部屋の温度だけが急激に落ちていく。


「……どこだ」


止まった秒針が指す“死”は、この近くにいる誰かのもの。


呼吸が冷たく固まっていく中、

俺は窓の向こう、街灯に照らされた公園を見た。


風が、止まっていた。


その中心に——

赤い服の少女が立っていた。


制服でも私服でもない。

まるで昔の絵本に出てくるような、赤いワンピース。

顔は、見えない。

明るい街灯の下で、なぜか影だけが濃く伸びている。


そして俺は気付く。


少女の背後に、黒い“影の秒針”が浮かんでいる。


時計のように彼女の背で回転し、

その秒針だけが、俺の部屋の時計と同じく——

ぴたり、と止まっていた。


胸が締め付けられる。

喉の奥がひりつく。


秒針が止まった相手は“30秒後に死ぬ”。


この理不尽なルールを、俺はすでに何度も目の当たりにしてきた。


「……やめろ。来るな……!」


だが少女は、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。


顔が、ない。

そこには滑らかな白い面があるだけで、目鼻の穴すらなかった。

なのに、確かに“見られている”と理解してしまう恐怖。


——そして動いた。


秒針が。


「ッ!!」


黒い秒針が、カチ。

たった一秒だけ動いた。


世界が音を取り戻した瞬間、少女の身体が崩れ落ちた。


まるで糸が切れた人形のように、地面に倒れた。

何かが壊れる“ボキン”という音が公園に虚しく響く。


俺は声も出せず、その場に膝をつくように力が抜けた。


「……また、救えなかった」


いや、救えるはずなどない。

相手が誰であれ、止まった30秒後には必ず死ぬ。


この“死の視覚化”は避けられない運命だ。


冷たい汗が顎を伝って落ちた。


そのとき。


——カツ、カツ、カツ。


階段を、誰かが上がってくるような音がした。


深夜のアパートにありえないほどはっきりした足音。

俺の部屋の前で、ピタリと止まる。


「如月蒼生きさらぎ あおい」


かすれた男の声が、扉越しに響いた。


聞いたことはない。

だが、直感で悟る。


“こいつ”は黒秒針のルールを知っている。


「ようやく見つけた。——調律者(ちょうりつしゃ)は、お前だ」


調律者?


意味を問う間もなく、

扉の向こうから黒い靄が漏れ出した。


足が震える。

心臓が跳ね上がる。


この瞬間、俺はまだ知らなかった。


この夜こそが、すべての始まり。

少女の死も、黒い秒針も、得体の知れない男も。


そして——

俺と澪の運命が、“均衡”の名のもとに狂い始める夜だった。


秒針が、かすかに震えた。


カチ——。


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