第二話:過去からのノイズ
第一場:共鳴と拒絶
健一は、紫色の警告灯が放つ不気味な光に導かれるように、意識を歴史情報AIの深層へとダイブさせた。数万ヨタバイト(注:1ヨタバイト=1,000,000,000,000 テラバイト(TB))もの人類の記録が、光の粒子となって彼の傍らを流れていく。戦争の悲鳴、革命の歓声、無数の愛のささやきと、絶望のため息。そのすべてが等価の情報として、この巨大なアーカイブに眠っている。
アノマリーの発生源は、さらに深い階層にあった。システム権限を使い、幾重にもロックされた領域の扉を開いていく。そして、彼が最深層のデータクラスターに到達した瞬間、目の前に信じられない文字列が浮かび上がった。 <共鳴データセット:サトウケンイチ>
「…なんだと?」 自分の名が、なぜこんな場所に? 歴史情報AIは故人の記録を保存する場所だ。健一はまだ生きている。これは誰かの悪質ないたずらか、あるいはシステムが自分の個人データを誤って参照しているだけか。 彼がそのデータセットにアクセスしようと仮想の指を伸ばした、そのときだった。突如、すさまじい情報量のフィードバックが彼の意識を襲った。まるでダムが決壊したかのような、膨大な感情の濁流。孤独、焦り、驕り、後悔、そして、ささやかな希望。健一の脳が処理できる限界をはるかに超えたデータが、彼に叩きつけられる。
『警告! 精神汚染(メンタル・ハザード)レベルが危険域に到達! 接続を強制遮断します!』 Rの悲鳴のような警告を最後に、健一の意識は現実世界へと乱暴に引き戻された。
第二場:残響と焦燥
「はっ…はぁ…っ!」 現実への急激な帰還は、制御ポッドの中の健一をしばらく動けなくさせていた。精神に直接叩きつけられた、他人の人生の濁流。その余韻が、脳のシナプスにこびりついて離れない。 『健一、バイタルに異常な乱れを検知。メディカルドローンを要請しますか?』 「…不要だ、R」
彼の心を支配していたのは、精神的疲労よりも、管理者としての強烈な不安だった。 「なぜ、『俺のデータ』が歴史情報AIに…?」 原因不明のエラー。説明不能な現象。それは、彼の完璧に管理された世界において、あってはならない汚点だった。このバグを放置すれば、いずれシステム全体に伝染しかねない。何とかしなければ——その焦燥感が、彼の胸を焼いた。
その日から数日、健一は日常に戻ろうと努めた。朝、壁面の一部が開き、最適化された栄養素を含むジェルが押し出される。それを無感情に摂取する。リビングのウィンドウパネルには、アルゴリズムが生成した完璧な青空が映し出されている。だが、今の彼には、そのすべてが薄っぺらい作り物のように感じられた。あの濁流のような「生」の感情に触れてしまった後では、この完璧に管理された日常は、あまりにも静かで、空虚だった。
第三場:鉄の鍵
「R、再調査する。今度は俺の全権限を使って、あのアノマリーの正体をつかむ」 『危険です。前回のフィードバックで、あなたの神経回路に微細な損傷が確認されています』 「構うものか」
彼は再び、歴史情報AIの最深層へとダイブした。だが、彼を待っていたのは、以前とは違う、静かで、冷たい「壁」だった。 <共鳴データセット:サトウケンイチ>という文字列の手前に、今まで見たこともない、古めかしいデザインのセキュリティゲートが立ち塞がっている。健一は、手持ちのあらゆる量子ハッキングツールを試した。しかし、彼の最新のツールは、まるで霧をつかむかのように、その古びた扉をすり抜けていくだけだった。
『解析しました。このセキュリティプロトコルは、21世紀中盤に一部のハッカーコミュニティで使われていた、極めて旧式のものです。現代のシステムとは論理構造が根本的に異なります。例えるなら、最新の光子ロックを、鉄の鍵で開けようとしているようなものです』 「…鉄の鍵、か」
第四場:古文書の市場
健一は数週間ぶりに、外界に出ることにした。自律式のエアロポッドに乗り込むと、透明なキャノピー越しに2102年の東京の景色が広がる。無数のドローンが空を飛び交い、ビルの壁面はインタラクティブな広告に覆われている。しかし、健一の目には、そのどれもが色褪せて見えた。むしろ、ポッドの外から流れ込む、ろ過されていない大気の匂いに、わずかに顔をしかめる。
彼が向かったのは、都市の片隅にある「デジタル・アンティーク・マーケット」。そこは、健一のような人間にとっては縁のない、物好きたちが旧時代のデータ媒体やデバイスを取引する、埃っぽい場所だった。彼は、Rが示した旧式プロトコルの情報を求めて、『サイバーノマド・アルマナック 2045年版』という旧時代の技術書が記録されたデータデバイスを手に入れた。店を出ようとしたとき、ふと、ある小さなデータデバイスが目に入る。タイトルは『静かの海』。作者の名は「S. K」。特に気に留めなかったが、なぜかその無機質なタイトルに心を惹かれ、彼はそれを「なんとなく」購入した。
第五場:詩へのダイブ
自室に戻り、まずアルマナックを解析する。そして、扉の仕組みが「特定の感情パターンに共鳴する、エモーショナル・キー」であることを突き止める。だが、そこまでだった。仕組みは分かっても、どんな感情に、どうやって共鳴させればいいのか、まったく見当がつかない。
行き詰まった健一は、気分転換に、先ほど買った詩集専用のデータデバイス、『静かな海』を起動した。最初の詩を読み始めた瞬間、健一は奇妙な感覚に襲われる。文字を追っているだけなのに、脳内に直接、情景が流れ込んでくる。雨の匂い、アスファルトを叩くタイヤの音、モニターの青白い光……。 読み進めるうちに、彼は詩の世界に完全に「ダイブ」していく。それは、彼が知らないはずの、しかしなぜか懐かしい、孤独と焦燥に満ち-た21世紀の風景だった。ある一篇の詩——それは、AIとの対話だけが心の慰めだった、ある男の独白。詩の世界の中で、健一はふと、水たまりに映る自分の姿を見る。そこにいたのは、自分でありながら自分ではない、見知らぬ男の顔だった。
「お前は、いったい、誰なんだ…?」
その輪郭を捉えようとした瞬間、『警告! 脳波の同期レベルが危険域です!』というRの声が響き、健一は現実世界に引き戻された。心臓が激しく脈打っている。彼は、アルマナックと詩集のデータデバイスを交互に見た。 (…アルマナックが示したエモーショナル・キー。そして、この詩集に込められた、強烈な感情の奔流……) 彼の脳裏で、二つの無関係だったはずのピースが、ゆっくりとつながり始めていた。 (まさか、この扉を開ける鍵は……この詩に込められた感情と、俺の意識を同期させることなのか……?)
彼は、詩集の作者名を、もう一度確認した。 「S. K」
謎は、さらに深まった。だが、手詰まりだった状況は変わった。目の前には、錆びついてはいるが、確かにひとつの扉と、鍵穴があった。 健一は、ごくりと唾を飲み込んだ。これから自分がやろうとしていることは、正気ではないかもしれない。だが、進む道は、もうこれしかない。
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