レガシーコード 終焉の調律師
TENOF物語
第一話:静かなる檻
第一場:調律師
そのノイズを見た夜から、佐藤健一の人生は、二度と元には戻らなくなった。
西暦2102年、東京。
意識が、光の神経網(ニューラル・ネットワーク)へとダイブする。
佐藤健一の「現実」は、肉体を離れた場所にあった。彼の仕事場は、量子ビットが乱舞する仮想空間。目の前には、巨大な銀河にも似た会社の基幹システムが、静かに、そして雄大に広がっている。
ひとつひとつの恒星が、自我を持たないAI。
それらを結ぶ無数の光の線が、ロジックのシナプスだ。
健一の仕事は、この銀河の調律師だった。
彼は、ひとつのAIクラスターに意識を集中させる。部下であるAIたちが処理する膨大なデータフロー。その流れの中に、健一は人間だけが感知できる、微細な「揺らぎ」を感じ取っていた。
効率は99.9998%。ほとんど完璧だ。
だが、その完璧さの中に、経験だけが知る――未来の致命的エラーにつながりかねない、ほんのわずかな不協和音があった。
彼は、ロジックのシナプスに仮想の指でそっと触れる。
「…違う。その解は最適解だが、最善解じゃない」
健一の脳波命令(ブレインコマンド)を受け、AIの思考回路がミリ秒単位で再構築されていく。不協和音が消え、銀河は再び、完璧な調和を取り戻した。
これが、2100年代における、人間の仕事だった。
AIではまだできない、微妙な調整。経験則による直感的な判断。予期せぬ事象への創造的な対応。そして、人間同士の折衝。
AIの管理職。
それが、健一の肩書だ。
『健一。』
その声は、鼓膜ではなく、脳に直接響いた。相棒のR(アール)だ。
『血中カフェイン濃度、およびコルチゾール値が規定を超過。非効率な精神高揚は、長期的なパフォーマンス低下と、あなたの脆弱な肉体への不可逆的な損傷を招きます』
「うるさいな、R。お前も少しは詩的な表現を覚えたらどうだ? 『星々の歌が、あなたの魂を少しすり減らしています』とでも言ってみろ」
『私の語彙ライブラリにその表現を付加することの論理的有用性は、現在0.001%未満です』
健一は仮想空間でため息をついた。
Rは、彼が個人的に契約している、少し旧式の対話型AIだ。最新の業務用AIのような完璧な効率はないが、健一はこの、どこかズレた相棒との会話を――自らの人間性を保つための、最後のアンカーのように感じていた。
第二場:静かなる檻
業務を終え、意識が現実世界へと浮上する。ひやりとした空気が肌をなでた。
完璧に空調管理された、タワーマンションの一室。窓の外には、アルゴリズムが生成した、息をのむほど美しい――しかしどこか空虚な夜景が広がっている。
食事は、栄養素が最適化されたジェルを摂取するだけ。
妻もいない。子どももいない。かつて、はるか昔にいたような気もするが、その記憶は、AIが「整理」したデジタルアーカイブの彼方にかすんでいた。
人は、この数百年で、ほとんど進化していない。寿命は限りなく延び、病は克服された。だが、世界のどこかでは、今も愚かな戦争や犯罪が繰り返されている。
肉体の軛(くびき)から解放されてもなお、魂は同じ場所をぐるぐると回り続けているかのようだ。
対して、AIの進化は指数関数的だ。
いずれ、この「揺らぎ」を感知する仕事すら、彼らに奪われるだろう。そのとき、人間である自分に、果たして価値は残っているのか。
健一は、その答えのない問いから逃げるように、一日の終わりを告げるシステムチェックを開始した。
すべてが正常。
今日も、この静かなる檻の中で、一日は終わる――はずだった。
第三場:最初のノイズ
そう思った瞬間だった。
【警告:高次レベルでの未定義アノマリーを検出】
モニターの隅に、ありえないアラートが点滅した。赤色ではない。それは、システムが分類を放棄したことを示す、不気味な紫色の光だった。
通常のアラートなら、担当AIが即座に分析し、対処法を健一に提示してくるはずだ。だが、彼らは沈黙している。
「R、何が起きている?」
『…解析不能。健一、これは異常です。基幹システムではなく、全社会基盤である歴史情報AIの深層領域で発生しています。こんなログは、見たことがない』
健一は、紫色の光を見つめた。
それは、完璧に調律された銀河に、突如生まれた小さなブラックホールのように見えた。
彼の心に、何十年も忘れていた感覚が、微かによみがえる。恐怖ではない。虚無でもない。それは、人間だけが持つ、非効率で、厄介で、そして抗いがたい感情。
――好奇心だった。
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