第8話 祭事①

 朝の光が差し込む部屋の窓辺で、私は机に向かっていた。

 控えめなノックの後、扉が開き、侍女のレイナが盆を手にして入ってくる。


「おはようございます、リリアナ様。……またノートに向かっておられるのですね」


「ええ。習慣みたいなものよ」


 レイナは静かにお茶を置きながら、小さく微笑んだ。


「学園でのご生活、もう慣れてこられましたか?」


「まだ数日しか経っていないもの。慣れるには早すぎるわね」


 私が肩をすくめると、レイナは少し笑みを深めた。

「でも……聖女様や勇者様のことは、皆さまがとても噂されています。リリアナ様から見て、どんな方なのですか?」


 ただの興味本位なんだろうけど。

 ……どんな方か、ねえ。答えに困るわ。


 セレナ――神託により学園へ現れた“聖女”。

 あの日、彼女がこちらに向けた微笑みを思い出してしまう。


(……リリアナさんは温かい人なんじゃないかと思います)


 彼女の言葉は、未だに胸の奥で反響している。


「……聖女様は、人の心を動かす方ね。教室の空気まで変えてしまう」


 そう答えると、レイナは「やはり」と頷いた。


 そして、もう一人。アレン・ルミナス。

 教室で交わった彼の視線には、確かに“恐れ”が宿っていた。


 レイナが首をかしげて問う。

「では……勇者様は? 皆さま“光の魔力を持つ方”と噂されていますが」


「……周囲の評価は確かに高いわ。勇者と呼ばれて、人々の憧れを集めている。けれど……私自身としては、まだよく分からない」


「まだ……ですか?」


「ええ。力は確かに特別。でも、その内側にあるものは、誰も知らないでしょう。

 私にもまだ、見えない」


 レイナは一瞬驚いた顔をしたが、やがて柔らかく微笑んだ。

「リリアナ様らしいお答えですね。……でも、その“まだ”が、きっと大事になるのだと思います」


(“まだ”が大事、か……。そんな風には考えたことなかったわね)


 レイナと話すときは、ほんのわずかに心が和らぐ。


 その直後――公爵からの呼び出しが届いた。


──


 書斎の窓辺で、私は静かに公爵の言葉を待っていた。


「――リリアナ。お前には、聖女顕現けんげんの儀に補助役として参加してもらう」


 ……覚悟はしていたけれど、ついに来たわね。この瞬間から物語が動き出す。


 聖女顕現の儀――

 神託で選ばれた聖女の力を証明する、王国最大級の公開祭事だ。


「……光栄に存じます。責務を全ういたします」


「補助役は二名。もう一人は、勇者アレン・ルミナスだ」


(……ゲームにはいなかったのに。なんとなく、来る気はしてた)


「儀式は七日後。準備と調整は学園を通じて行われる。必要があれば王都の神殿へも足を運ぶことになるだろう」


「承知いたしました」


 私は静かに頭を下げて、書斎を出た。



 自室に戻ると、私はすぐに机の引き出しから一冊の手帳を取り出した。

 それは、転生以来、私が記録してきたゲームの構造と分岐を整理したものだ。


 聖女顕現の儀――

 この儀式は、聖女と攻略対象との信頼を深めるための導入イベントとして設計されていた。


 聖女が祈りを捧げ、王子がそれを支える。

 彼らの信頼値が一定以上であれば、加護の力が安定し、儀式は成功する。

 ゲーム内では、ほぼ確定成功の序盤イベント。


 けれど、今は違う。

 この世界では、すでに前提が崩れている。


 王子とセレナの信頼が築かれていなければ、祈りは不安定になる。

 加護の力も乱れ、最悪の場合、結界が破綻し、儀式全体が危険に晒されるかもしれない。


 ゲームの中でもこの場面、リリアナはちゃんと出てきた。

 でも、やることといえばセレナに嫌味を言って、空気を悪くしただけ。


 今思えば、あれがリリアナの破滅への最初の一歩だったのかもしれない。


 だから今回はそんなことはしない。

 黙って、空気の一部でいればいい。

 ……それが、きっと私の最善の動きだ。


 この祭事がただの儀式で終わるのか。

 それとも、何かが動き出すきっかけになるのか。


──


 聖女顕現の儀、前日。


 大神殿には儀式に関わる者たちが事前演習に参加するため、次々と到着していた。


「おはようございます、リリアナさん」


 声をかけてきたのは、白銀の髪を揺らす聖女――セレナ。

 その後ろからは、控えめに数人の神官が付き従っていた。


「おはようございます、聖女様」


「ふふ、そんなにかしこまらないでください。それから、私のことはセレナって呼んでいただけたらうれしいです」


 セレナの笑顔は、あまりに自然で、あたたかい。

 ……拒む理由なんて、どこにもなかった。むしろ、その方がしっくりきたくらい。


「……わかった。セレナ。今日は、よろしく頼むわ」

「はい、リリアナさん」


 ……まるで、光そのものね。


 胸の奥が思わずざわついた。

 あまりにも真っすぐで、曇りがなくて、普通なら好感を抱かずにいられない。


 ……でも、揺れている場合じゃない。

 よし、今は補助役の務めに集中しよう。


 そこへ、黒髪の少年が姿を現す。


「おはよう。二人とも、準備は順調そうだな」


 アレン・ルミナス。勇者として異例の立場で呼ばれた、特例生徒。


「おはようございます、アレンさん」

 セレナが礼儀正しく挨拶する。私もそれにならった。


「おはようございます、アレン様……」


「おはよう、リリアナ嬢。セレナさんも」


 自然と交わされた挨拶の中で、彼の視線が一瞬だけ私の方に留まった。


「補助役ってだけで、ちょっと緊張してるけど……まあ、やるしかないよな」


「ええ、勇者様が一緒なら心強いです」


「いや、まだまだ修行中の身だよ。今日はサポートに徹するつもりだ」


 場の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 ……だが、その静けさを破るように、高らかな声が響いた。


「随分と和やかで、微笑ましいな」


 現れたのは、乙女ゲームの中で聖女の信頼を得る最初の相手として描かれていた――第一王子レオン・アルセイン・フィルメリア。

 この儀式は、彼とセレナの絆を示す導入イベント。

 ……少なくとも、ゲームの中ではそうだった。


「聖女セレナ。この度の祭事、君のような神に選ばれし者が担ってくれるとは、王族として誇らしい限りだ」


「もったいないお言葉です、レオン様。無事に本番を迎えられるよう、精一杯努めます」


 レオンは微笑を浮かべたまま、次に私へと視線を移す。

 だがその目は、先ほどまでとは違っていた。


「公爵家の娘と勇者殿が補助役とは、随分と贅沢な配役だな。もっとも、この場にお前たちの力が必要だとは思わないが……せいぜい邪魔だけはしないでくれ」


 意図的に周囲へ聞こえる声量。

 その場の空気がわずかに凍りつく。


「……心得ております。補助役としての責務は、誠実に果たします」


「ふん。頼もしい答えだ」


 彼の口元に浮かぶのは、嘲るような笑み。

 アレンは何も言わず、視線だけを落とすようにしていた。


 物語では確かに誰よりも国を思う王子って描かれてたけど……。

 はぁ。いざ本物を目の前にすると、腹立たしいことこの上ないわね。



 事前演習の開始が告げられ、私たちは所定の位置へと移動した。


 神殿に設置された聖紋の台座。祭事の中心となる儀式台。


 セレナが立ち位置につき、祈りの儀式を模した動作を確認していく。


 全てが、滞りなく進んでいるように見えた。


 だが――


「きゃっ……!」


 足場の段差でバランスを崩したセレナが、前のめりに倒れかける。


(危ない!)

 反射的に、私は駆け寄ってその身体を支えていた。


 ほんの一瞬のこと。


 けれど――その瞬間、記憶の底から、何かが引きずり上げられるように甦った。


(……そうだ、これは……)


 ゲームの中で見た、あのイベント。

 ムービー演出のように操作不能のまま進み、印象にはほとんど残らなかった短いシーン。


 セレナがつまずき、王子レオンが助け起こす――それだけの流れ。

 けれど、それが信頼の芽生えとして扱われていたことを、今さらのように思い出す。


(……しまった)

 呼吸が一瞬止まり、心臓の音ばかりが耳に響く。


 私は物語の導線を、壊してしまったのだ。


 私の腕の中で、セレナが驚いたように目を見開いている。


「だ、大丈夫?」


 思わずそう声をかけると、彼女は小さく頷いて微笑んだ。


「……ありがとうございます、リリアナさん」


 私は、応えられなかった。

 いや、応える余裕がなかった。


 王子の視線が、私を鋭く射抜く。

 けれど彼は、何も言わなかった。


 ただ、冷え切った空気だけが漂う。


 責任者の神官が軽く場を仕切り直し、

「動きには十分注意を」とだけ告げて、事前演習は形式的に終了とされた。


 セレナは、式次第を確認する神官の元へと向かっていく。

 私はその場を離れようとする。


 ――だが。


「リリアナさん」


 静かな声が背後から届いた。

 振り返ると、そこにはセレナが立っていた。


「さっきは、本当にありがとうございました。……咄嗟だったのに、すごく冷静で」


 その笑顔は、どこまでも純粋で、曇りがなかった。


「……気にしないで。補助役として、当然のことをしただけだから」


 そう言った自分の声が、ほんの少しだけ揺れていたことに気づいた。


 ほんの少しの逸脱。

 でも、たぶんそれだけで、この物語は静かに軋み始めた。……そんな気がする。


 ――祭事本番は、もう明日に迫っていた。


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