第2話 転生②

 気づけば、もう数日が経っていた。

 ……早い。


 特に何かしたわけでもない。

 朝起きて、挨拶をして、庭を歩いて、侍女に礼を言った。それだけ。


 けれど、屋敷の空気はあのときとは別人みたいに穏やかだった。


「お嬢様、本日もお美しい!」

「お優しいお言葉を賜ると、胸が温かくなります」


(そんなことで感動されるの? 前の私、どれだけ怖かったのよ……。)


 あの日の“事件”以来、どうやら屋敷中で「お嬢様が変わられた」と噂になっているらしい。

 今や使用人たちは、廊下ですれ違うたびに会釈してくるし、

 料理長に至っては「リリアナ様のお好きな香草を新たに仕入れました」とか言い出した。


 普通にしてるだけで爆上がりって……どんだけ嫌われてたの、前の私。


 まあ、悪い話じゃない。

 誤解されるよりは、好かれてる方がずっと気が楽だ。毎日豪華なご飯も出て、服も部屋も一級品。

 ……これ、もしかして当たりなのでは?


 そんな中、唯一いつも通りなのが侍女のレイナだった。

 彼女は周囲に流されず、以前と変わらぬ距離感で接してくる。


「おはようございます、リリアナ様。よくお休みになれましたか?」


「ええ、問題ないわ」


「それは何よりです。お肌の調子も良さそうで、本日もお綺麗です」


「……そういうのはいいわよ」


「ふふ、昔からお変わりになりませんね」


 昔から? あぁ、そういえば、前のリリアナのときもこの子は普通に話してたっけ。


 そんな記憶がふっと浮かぶ。

 命令に怯えるでもなく、かといって媚びるでもない。まっすぐ言葉を交わしていた、唯一の侍女。


(……だから気に入ってたのね、前のリリアナも。)


 胸の奥に、ほんの少しだけ懐かしい感覚が残った。


「さて、そろそろ朝食の時間ね」

「はい。本日は公爵様がお待ちとのことです」

「……父が?」


 そういえば、転生してからまだ顔を合わせていない。


 嫌な予感と、少しの好奇心が胸をかすめる。けれど、行かないわけにもいかない。


「わかったわ。すぐに行く」

「はい。ご用意いたしますね」


 レイナの手を借りて上着を羽織り、私は食堂へ向かった。


(さて、公爵様が私に何の用かしら)


 軽く息を整え、扉に手をかける。

 広々とした食堂には、公爵と兄がすでに席についていた。


 さすが、リリアナの父と兄。顔立ちも雰囲気も、同じ系統の威圧感イケメンって感じね。


 背筋を伸ばして、深呼吸。

 うん、丁寧に、丁寧に。


「おはようございます、お父様。お兄様」


 その瞬間、兄レオニールが目を瞬かせた。

 まるで見知らぬ人間を見たように。


「……お、おはよう……?」


 なぜか疑問形だ。


 父グランベール公爵は黙ったまま紅茶を口にした。視線が一瞬こちらをかすめたが、何も言わない。


 私は席につき、ナプキンを静かに広げた。

 ふと見ると、端で新入りの侍女がポットを持ち替えている。


(あれ、この子、グラスを割った侍女ね)

 手元がちょっと震えてる。緊張してるけど、大丈夫かしら。


 ……と思った矢先、スプーンがテーブルから転げ落ちた。


 カラン、と乾いた音。

 食堂の空気が一瞬止まる。


 ……うん、やっぱり。


 新入りの侍女がハッと顔を上げた。真っ青。声まで裏返ってる。

「も、申し訳ありませんっ!」


 慌ててスプーンを拾い上げ、震える手で差し出してくる。


「い、今すぐ新しいものをお持ちしますので!」


 私は静かに言葉を挟んだ。

「気にしないで。焦らずに済ませなさい」


 侍女はぽかんと目を瞬かせた。

「……はい、ありがとうございます!」


 安堵の声とともに、深く頭を下げる。


 その一連のやり取りを見ていた兄の手が、ぴたりと止まった。

 ナイフの先が皿に軽く当たり、音を立てる。


「……お前、どうしたんだ?」


 本気で驚いたような声。

 信じられないものでも見るような目つき。


「どうしたって、何が?」


 問い返すと、兄は少し言いよどみ、

「いや……あまりにも普通だったから」

 と、小さく呟いた。


(……“普通だったから”って何よ。)


 はぁ……呆れを通り越して、もはや笑うしかない。


 食事を終えた公爵が、ナプキンを静かに畳んだ。


「落ち着いたな」

「え?」

「お前の話し方も、所作も。以前よりずっと静かだ」


 低く響く声。

 叱責ではない。

 こんな穏やかな調子で言われるの、前のリリアナに対してはなかったはず。


「感情に流されぬことは、悪いことではない。それを保てるなら、いずれは立派な淑女になる」


 今の、褒められたってことでいいのよね?


「……ありがとうございます。そう努めます」


 公爵はカップに残った紅茶を口にし、何気ない調子で続けた。


「明日から、学園だな」

「はい」


 いや、思わず返事しちゃったけど……明日? ちょっと待って、急すぎない?


 入学時期なんて知らされてなかった。

 転生してから日付の感覚もあやふやだったけれど――

 まさか、もう物語の始まりがそこまで迫っていたなんて。


 ……つまり、あの“学園編”が始まるってことよね。


 ゲームの中で、リリアナが破滅へと転がり落ちた場所。

 誰からも恐れられ、聖女セレナに討たれる運命が確定する舞台。


 よりによって、そこに行かなきゃいけないなんて……。

 ほんと、運命ってやつは容赦ない。


 ため息を飲み込み、表情を保つ。


「はい。準備は整えてあります」


 平静を装って答えると、父は軽くうなずいた。


「王命により、ルミナス家の“勇者”も明日から同じ学園に入学するらしい」


「……勇者?」


 勇者なんて聞いたこともない。聖女と攻略対象だけが主軸のはずなのに。

 やり込んでた私が知らないなんて、あり得ないでしょ……。


 公爵は特に気にする様子もなく続けた。

「王命による特例入学だ。王都では、久方ぶりの“光の加護者”として話題になっている」


 光の加護……? そんな設定もゲームにはなかったはず。


「……それはずいぶん賑やかな学園生活になりそうですね」


(勇者、光の加護、特例入学。どれもゲームにはなかった。 これ、完全に別ルートってこと?)


「そうだな。しかし、お前は無理に誰かに合わせる必要はない」


 それだけ言い残し、公爵は静かに席を立った。


 兄が小さく息を吐き、肩をすくめる。

「……まったく、どうなってるんだか」


(どうなってるのか知りたいのは、私の方よ!)


 窓の外、朝の光が差し込む。

 屋敷の空気は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。

 たぶん、嵐の前の静けさってやつだ。

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