第12話 白い死神
ジャムカの騎馬隊が去った後、野営地には重苦しい沈黙が流れていた。
草原の覇者たるジャダランの誘いを、この異邦人は一蹴したのだ。それが何を意味するか、ここにいる誰もが理解していた。
「……なんと、なんと愚かなことを!」
族長のトオリルが、頭を抱えて呻いた。
「ジャムカの傘下に入れば、我らは安泰だったのだ! それを断るどころか、挑発するような真似を……! 彼を敵に回して、この草原で生きていけると思っているのか!」
トオリルは義経に詰め寄ろうとしたが、義経の冷ややかな視線に射すくめられ、足が止まった。
「安泰? 誰の安泰だ?」
義経は、ジャムカから投げ渡された馬乳酒の皮袋の栓を抜き、一口あおった。強い酸味と酒精が喉を焼く。
「彼の下につけば、私はただの便利な駒で終わる。お前たちは、永遠に弱小部族のままだ」
義経は口元を拭い、遠ざかる砂煙を見つめた。
(ジャムカ……食えぬ男だ)
タタルを滅ぼした自分を警戒しつつ、同時に利用価値を見極めようとする冷徹な計算。そして、断られても激昂せず、むしろそれを楽しむ度量。
兄・頼朝に似ている、と義経は思った。だが、兄のような陰湿さはない。もっと乾いた、強烈な自負心を感じた。
「奴は、いずれ必ず我らの前に立ちはだかる。だが、今はまだその時ではない」
義経はくるりと背を向けた。
「それよりも、目前の敵を見ろ」
彼の言葉に、人々は顔を見合わせた。敵? タタルは滅び、ジャムカは去った。どこに敵がいるというのか。
その時、北から一陣の風が吹き抜けた。
これまでとは違う、骨の髄まで凍てつくような、湿気を帯びた冷たい風。
トオリルが、ハッと息を呑んだ。
「まさか……もう、来るのか?」
「冬だ」
義経が短く告げた。
このモンゴル高原の冬は、日本のそれとは比較にならない。気温は氷点下数十度まで下がり、全てを凍てつかせる。
「白い死神(ゾド)」と呼ばれるこの季節は、戦争よりも多くの人命と家畜を奪い去る、最大の脅威だった。
「クロウ殿! まずいぞ! タタルを吸収したことで、我らの口は三倍に増えた! だが、備蓄食料は冬を越せる量には程遠い!」
ボオルチュが焦ったように報告した。
勝利の代償だ。急激な組織の拡大は、深刻な物資不足を引き起こしていた。
野営地のあちこちで、タタル出身の兵たちが不安げにヒソヒソと話しているのが見える。
「このままでは飢え死にする」「やっぱり逃げたほうがいいんじゃないか」
恐怖による支配も、空腹の前では無力になりつつあった。
「……どうするつもりだ」
背後から声がした。ボルテだった。彼女は、不安がる民を代表するように、義経を強い視線で見つめていた。
「あなたが彼らを『駒』として使うのは勝手。でも、駒は餌を与えなければ動かないわ」
「その通りだ」
義経は悪びれもせず頷いた。
「だから、狩りを行う」
「狩り? この時期の獲物は少ないわ。それに、数百人を養うとなれば……」
「ただの狩りではない」
義経は、ボオルチュを呼んだ。
「全軍に伝えろ。明日、夜明けとともに出発する。武器と、持ちうる限りの矢を持参させろ」
「はっ! ……して、獲物は?」
義経は、北の空を指差した。そこには、冬の到来を告げる渡り鳥の群れが、南へ向かって飛んでいた。
「この時期、北の山岳地帯から、数万頭の黄羊(こうよう)の群れが南下してくる。その通り道を狙う」
それは、トオリルたち遊牧民も知っている知識だった。だが、黄羊は警戒心が強く、足も速い。数頭を狩るのが精一杯で、大規模な群れを仕留めるなど不可能だと考えられていた。
「不可能を可能にするのが、組織の力だ」
義経の目には、すでに壮大な「狩り場」の図面が描かれていた。
「これは、ジャムカと戦う前の、最後の大演習だ。失敗すれば、我らは冬を越せずに全滅する」
義経は冷酷に宣言した。
「全員に伝えろ。獲物を狩れぬ者は、自らが飢えの獲物となる覚悟をしろ、とな」
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