明日への旅人

YYL

第1話 異世界にだって、補習塾はある


旅先で出会った絶景を誰かに伝えたいけれど、語彙力も画力もない。


そんな時、どうする?


耳に残る美しい旋律を探したいけれど、絶望的な音痴で説明できない。


そんな時、どうする?


外国語の授業中、答えは分かっているのに、言葉が通じなくて赤面するばかり。


そんな時、どうする?


そんなあなたに、進学塾『今日発(きょうはつ)』!


プロの脳力トレーナーが、あなただけのカリキュラムを作成し、脳力を劇的にアップさせます。


少人数制のきめ細かい指導、落ちこぼれでも安心!


『脳力検定(ノウケン)』4級・6級もゼロから合格へ導きます。


プロフェッショナルによるマンツーマンの「念動(ねんどう)語学」指導、不合格なら全額返金!


さあ、今すぐ『今日発』へ!


あなたの脳力を覚醒させよう!


 ペタリ。


 進学塾『今日発』の生徒募集チラシが、浮遊車(エアカー)のフロントガラスに張り付いた。


 ドライバーがちらりと視線を送るだけで、最新鋭の脳波受信機を搭載したエアカーは即座にワイパーを動かし、その“ゴミ”を排除する。


 脳波放送(ブレイン・キャスト)が普及したこの22世紀において、道端でビラ配りなんて時代遅れもいいところだ。


 効率が悪い上に、恥ずかしい。


 マーケティング系の脳波放送なら、ターゲットの脳へダイレクトに広告を送り込める。


 課金さえすれば優先的に表示される、まさに画期的なAI時代の産物だ。


 しかし、そんな高額な広告費を払えるはずもない貧乏塾『今日発』にとって、脳波放送なんて夢のまた夢。


 レイアは地面に落ちたチラシを拾い上げ、パンパンと埃を払ってバスケットに戻した。


 AIの代わり?


 いいえ、私は「高性能(スマート)労働者」なのよ!


 ガシャーン!


 不意に、バスケットが誰かにひっくり返された。


 集めたばかりのチラシが、また風に舞い散る。


 犯人は、レイアと同じ年頃の少女だった。


 彼女は両手を腰に当て、顎をツンと上げている。


 風になびく天然パーマのショートヘアが、彼女の勝ち気さを象徴していた。


 彼女は散らばったチラシをヒールで踏みつけ、さらにグリグリとねじり上げる。


 紙くずがボロボロになるのを見届けてから、とってつけたような謝罪を口にした。


「あら、ごめんなさいねレイア。ぶつかっちゃったわ」


 セリーヌ。


 レイアの同級生であり、大手進学塾『常勝(じょうしょう)』に通うエリート気取りの少女だ。


 取り巻きたちと一緒に、下校途中らしい。


 口先だけの謝罪とは裏腹に、軽蔑に満ちた脳波(テレパス)がレイアの脳内に直接響いてくる。


『「今日発」だなんて、名前からしてダサいのよ。レイア、あんたただでさえ脳力底辺なんだから、そんなボロ塾に通ってる場合? いつまで経っても脳力が上がらないわけだわ!』


 しかし、レイアはその脳波を完全に無視したかのように、顔色一つ変えずにチラシを拾い続けた。


 その態度が気に入らなかったのか、セリーヌは苛立ちを隠せずに叫んだ。


「ちょっとレイア! あんた、脳力が低すぎて人の声も聞こえなくなったの!?」


「聞こえてるよ」


 レイアは顔を上げ、穏やかな瞳で彼女を見つめた。


「セリーヌ、今『ごめんなさい』って言ったよね。だから、許してあげる」


 言うが早いか、レイアはセリーヌが踏みつけていたチラシを、猛然と引き抜いた。


 脳波であらゆる機器を操作することに慣れきって、身体機能が退化している現代人とは違い、脳力ゼロのレイアは生粋の“肉体派”だ。


 彼女の力強い一撃に、セリーヌはバランスを崩し、派手に転びそうになった。


「ぷっ……」


 取り巻きの『常勝』塾生の中から、屁のような笑い声が漏れた。


『レイア、交差点まで来い。人が多すぎてウザい』


 LK(エルケイ)の声が、クリアに脳内に届いた。


 一対一の脳波通信は、かつての携帯電話やデータ通信に取って代わっていた。


 脳波ステーションを介せば、遠く離れた相手とも会話ができる。


 レイアはセリーヌがショックで固まっている隙に、『常勝』の生徒たちを押し退け、交差点へと走った。


 同じように苦学生としてビラ配りをしているはずなのに、LKの周りには明らかに人が集まっていた。


 学生、サラリーマン、買い物帰りの主婦、そして……スカウトマン?


 当の本人は不機嫌そうに顔をしかめている。


 整った顔立ち、前髪から覗く猫のような瞳は、面倒くさそうに細められていた。


 「イケメンほど責任は重い」とはよく言ったものだ。


 塾長のナツ(夏)先生が二人をビラ配りに送り出した理由は明白だ。


 LKを“顔面担当”として客寄せパンダにし、レイアをそのサポート役にすること。


 身寄りのない二人はナツ先生に拾われた恩義があり、こき使われる運命にあるのだ。


 LKは「脳波遮断機(シールド)」を高く掲げ、人混みをかき分けた。


「ストップ、ストップ! 個人的な脳波メールは送らないでくれ、全部ブロックしてるから。入塾希望者は、あっちの彼女に!」


 LKは群衆を抜けてレイアの前に立つと、ぽん、と彼女の肩を叩き、気だるげに笑った。


「あとは頼んだ」


 え? レイアが呆気にとられる。


『頼むよ。後でタピオカ奢るから』


 少年は無言で脳波を送りつけると、ポケットに手を突っ込んだまま、『今日発』唯一の移動手段――脳波コントロール・スケートボードに乗って、現場から逃走した。


「ちょっと待って!」


 レイアが叫ぶ間もなく、彼女はLK目当てだった群衆に囲まれ、手持ちの申込書は瞬く間になくなってしまった。


***


 22世紀は「脳力」の世紀だ。


 音声、映像、ショート動画に至るまで、脳から脳へと瞬時に伝達される。


 自分の脳波を外部へ投影するこの能力は、コミュニケーションの効率を飛躍的に高め、数々の新テクノロジーを生み出した。


 かつての音声操作デバイスのように、今は炊飯器からエアカーまで、あらゆるものが「脳波操作(ブレイン・コントロール)」に対応している。


 脳力が一定レベルにあれば、手を使わずに念じるだけで操作が可能だ。


 技術はまだ完璧ではないものの、大半の人々はその利便性を享受している。


 脳力には先天的な才能や個人差があるため、年齢別の学校教育では統一的な指導が難しい。


 また、進学試験の科目にも含まれていない。


 だが、水面下では「脳力レベル検定(ノウケン)」への熱狂が渦巻いている。


 レベルが高ければ高いほど、大学への推薦や就職、昇進に有利だからだ。


 そのため、『今日発』のような脳力開発塾の需要は高く、競争も激化している。


 向かいの街角にある大手『常勝』は、幾度となく『今日発』の縄張りを乗っ取ろうとしてきたし、生徒同士の対立も絶えない。


 突然、レイアを取り囲んで申込書を書いていた人々が静まり返った。


 誰もが虚空を見つめ、沈思黙考の状態に入っている。


 彼らは脳内に直接ポップアップした動画広告を食い入るように見つめていたのだ。


 やがて、人々の顔に喜びの色が浮かぶ。


『『常勝』塾が追加募集を開始したぞ!』


『今年は定員制限があるらしい、急げ!』


 脳波で送られてくるリッチな宣伝動画は、紙切れ一枚のチラシよりも遥かに魅力的だ。


 『常勝』は資金力があるだけでなく、脳力検定の合格率も業界トップクラス。


 毎年満席のクラスがこの時期に追加募集をかけるということは、今年後半の検定試験をターゲットにしているに違いない。


 脳力検定は毎年冬に行われる。


 脳波を受動的に受け取るだけの「レベル0」から、ナノ単位の手術用メスを操作したり、ネットワークを介さずに数百キロ先まで脳波を飛ばせる「マスター級・レベル10」まで、その等級は様々だ。


 『常勝』の講師陣は通常レベル7の資格を持っている。


 レイアをいじめるセリーヌも『常勝』の常連で、昨年すでにレベル3に到達していた。


 ざわざわと潮が引くように、レイアの周りから潜在顧客たちが消えていく。


 『今日発』の今年の生徒数、大丈夫かな……レイアは冷や汗をかいた。

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