第3話|八月、夜空の下で

午後の空気がゆっくり冷めていく。太陽はまだ高いのに、河原に向かう道にはすでに人の流れができていて、浴衣の柄とTシャツの文字が混ざり合い、わいわいとした色の帯みたいに続いていた。

僕―相川悠人と鳥居美咲は、駅の改札を出てから、屋台の並ぶ方へと歩き始める。約束は一週間前、ベンチの上。花火と、帰りにアイスの条約。僕らは条約を守るタイプだ。


「浴衣、結局やめた」


美咲が、首もとを指であおぎながら言う。


「正解かも。今日は蒸す」

「そう。浴衣で屋台は、片手で屋台、もう片手で帯って感じになるから」

「それは忙しい」

「でも、アイスを食べる会なら、動きやすいほうが勝つ」

「勝利の定義、ゆるい」

「ゆるくていいの。夏だから」


堤防の上は、もう場所取りのシートがいくつも広がっていた。河原に降りる斜面には、屋台の並ぶ細い通路。綿あめ、焼きそば、かき氷、りんご飴。色と匂いが次々に変わるたび、鼻と胃袋が子どもの頃の仕様に戻っていく。

白いスニーカーは、昼の光の残りを吸って、まだ眩しい。土の細かい粒と、草の薄い緑が、靴の側面に小さく貼り付く。ひもはきゅっと結ばれて、輪っかが左右そろっている。彼女は今日も几帳面だ。


「まず何食べる?」

「焼きそば、からのかき氷」

「王道」

「王道を歩く勇気」


焼きそばの屋台で、紙船に入った麺がソースの匂いを立ち上らせている。僕らは並んで受け取り、日陰を探してしゃがみ込んだ。背後を、人の波がさざなみみたいに行き過ぎていく。


「夏休みの勉強、進捗どう?」


割り箸でもつれた麺をほどきながら、僕は聞く。


「朝テキスト、午後過去問、夜英単語ってメニューは……この前の三日間は守れた」

「三日間」

「三日間は、すごく長い」

「わかる。カップ麺五杯分ぐらい長い」

「単位が雑」

「でも、今日の夜は英単語じゃなくて花火」

「“季節の正当な例外”に該当します」

「いい制度だ」


焼きそばを食べ終えると、鉄板の音が遠くに頼もしく響いた。屋台の人がソースを足すたび、空気の一角が濃くなる。

僕らはかき氷の列に並ぶ。ブルーハワイとレモンで迷って、結局、彼女はレモン、僕はブルーハワイ。氷の角が舌に触れるたび、夏の音が一瞬止まる。


「ねえ、金魚すくい、見るだけ見ない?」

「“見るだけ”はだいたい“やる”」

「やっても、持ち帰れないんだよね。家の水槽、いないし」

「じゃあ、確率だけ観察する」

「観察が好きな人だ」


縁日の小さな水面は、夜に向けて色を濃くしていく途中で、光を丸く反射していた。紙のポイがひとつ、ふたつ、そっと水を切る。金魚の赤い影が、指先ほどの速さで方向を変える。

僕らはほんのしばらく見て、結局やらずに離れた。何かを「やらない」ことにも、ときどき満足がある。今日みたいな日には、特に。


河原の芝に、僕らの場所を見つける。高い建物は少なくて、空が大きい。夕方の色は橙に寄って、ゆっくりと群青にむかっている。

レジャーシートの上に腰を下ろすと、草の匂いが近くなる。隣の家族連れの小さな子が、綿あめを顔じゅうにつけている。僕らは笑いをこらえきれずに目を合わせ、声を出さない種類の笑いで共有する。

白いスニーカーは、芝の上で別の白になった。日中の鋭い白ではなく、柔らかい白。夜に向かう途中の白。彼女はつま先を、草の中で小さく二回ちょんちょん、と突いた。


「来年も、また来る?」


美咲が、シートに手をついて体を傾ける。


「来年は、ちょっと離れた場所かも」

「うん、たぶん」

「でも、来る」

「うん。来年も、来る」


それだけ言って、僕らはしばらく黙った。約束というものは簡単に言える。けれど今の僕らには、それが十分に重い。重いのに、重たくはない。息苦しくなるほどじゃない。

川の風が、一度だけ強く吹いた。シートの端が少しめくれて、彼女の白いスニーカーが、群青の光を薄く拾った。


開会のアナウンスが小さく流れ、周囲が期待の形に静かになる。

最初の一発が、夜空の中腹で白く割れた。音が、あとから胸に届く。遅れてくる重さは、鼓動みたいだ。

二発、三発。花の形は次々変わって、菊、千輪、しだれ柳。色は赤、青、金。音は、破裂、ざわめき、雨。

僕らは並んで空を見上げる。言葉は、いつもの半分で足りる。

光の間にある暗さと暗さの間、音の余韻だけが残る瞬間が、僕は好きだ。そこに、今日が立ち上がる。そこに、記憶の居場所ができる。


「ねえ」


美咲が、花火の息継ぎの間に囁く。


「普段着で来た理由、教えてない気がする」

「さっき“帯を片手で持つ”って言ってた」

「それもあるけど……歩くの、速くしたかったの」

「速く?」

「屋台のにおい嗅いで、景色見て、あ、綿あめ大きいなって笑って、そういうのをテンポよく拾っていきたいの。だから、今日は普段の歩幅」

「なるほど」

「それに、スニーカーで来ると、来年も“同じ靴で来た”って、ちょっと思えるじゃん」


彼女は足元を見た。白いスニーカーのつま先に、細い草の筋が一本ついている。僕はそれを親指でそっと払った。


「来年は、もっとくたびれてるかもね」

「うん。くたびれたぶん、積み立てが増える」

「何の?」

「“ふつうで最高”の貯金」


大きな花火が連続して上がる。光が川面に落ちて、波が短く震えた。歓声と拍手。隣の子が、綿あめの棒を振って小さな旗みたいにしている。

僕らはまた黙って、首だけ上げたまま、音に身を預けた。


中盤を過ぎたころ、人の波が少し動いた。屋台へ向かう人、トイレに並ぶ人。僕らも水を買おうと立ち上がる。


「ここで待ってる」

「うん。すぐ戻る」


僕はペットボトルを二本買って戻ったが、シートのあたりに彼女の姿はすぐには見つからなかった。背丈の違う肩と肩、うちわの連続、風船の赤。

人が立ったまま空を見上げると、視界は断片になって、途切れる。音は大きくても、目で確認できないと、世界に置いていかれた気持ちになる。


少しだけ胸がざわついたとき、群衆の向こうに白いものが揺れた。暗さの中でも、白はぼんやり光を拾う。

白いスニーカーが、草の上で二回ちょんちょん、と動いた。癖みたいな合図。

美咲だった。彼女も僕を探していたらしく、見つけた瞬間にふっと口元が緩む。


「ごめん。ちょっと人の流れに飲まれて」

「こっちも、ちょっと置いていかれた」


僕はペットボトルを一本渡した。キャップの開く小さな音が、耳のすき間にやさしく収まる。


「来年も、ここにいられるかな」


彼女が、ふと、息みたいに言う。


「“ここ”は、たぶん変わる。場所も、時間も」

「うん」

「でも、“ここにいたときの私たち”は、残る」

「どうやって?」

「覚える。メモする。ちょっと笑う」

「それなら、得意だね」

「うん。得意」


終盤のスターマインが始まる。間隔の短い連続の光と音が、体の内側の空洞を鳴らす。歓声が遠くなったり近くなったりする。

最後の一斉打ち上げは、夜の天井をしばらく明るくして、やがてすとんと暗闇に戻した。暗闇は、前より濃いけれど、怖くはない。

拍手の波が過ぎ、肩と肩がまた動き始める。僕らはシートをたたみ、人の流れの速さに合わせて歩き出した。


「帰り、アイス?」

「条約、第一条」

「履行します」


堤防を上がる階段の途中で、白いスニーカーが同じリズムで段を踏む。土の粉が薄く舞い、靴の縁にやわらかい汚れを置いていく。

屋台の端の小さな冷凍ケースに、棒アイスがぎっしり。僕らはそれぞれ、ソーダとオレンジを手に取った。


「さっきの“半分こ条約”、覚えてる?」

「もちろん」


僕らは同時に包みを開ける。冷気が顔に近づき、鼻のすぐ下で夏の匂いが薄く揺れる。

ひとかじり。氷の角が歯に触れる。甘さが、今日の音と光の後ろに静かに並ぶ。


「ねえ」

「うん」

「もし来年、離れた場所にいたとしても。同じ形の花火を、また一緒に見たい。写真越しでも」

「去年の“同じ形”は、時間がずれてた」

「今年は、同じ時間に、同じ空の下で」

「来年は、同じ時間じゃなくてもいい」

「どうして?」

「たとえば、少し遅れても、同じ白いスニーカーで歩いてれば、だいたい大丈夫」

「理論が雑だよ」

「でも、だいたい大丈夫って、いい言葉」


アイスの棒が、だんだん軽くなる。 美咲は最後のひとかじりを口に含んで、棒の裏を見た。


「……今日はハズレ」

「ふつうで最高」

「出た」

「“当たり”も好きだけど、“ハズレで笑える”ほうが、たぶん得点が高い」

「何点満点?」

「夏は無限大」

「強気」


人の波から少し外れた歩道で、僕らは並んで歩いた。

白いスニーカーのつま先に、花火の残り火みたいな街灯の光が、ひとつだけ小さく宿る。土の粉、草の筋、細い擦り傷。今日のぶんだけ、白の中に夜が混ざった。

駅に近づくと、涼しい風が一度だけ通り抜けた。


「今日のメモ、なんて書く?」

「『八月、夜空、普段着の歩幅。白いスニーカーはよく光る』」

「僕は、『花火は鼓動、川は息継ぎ。来年の約束は歩幅で結ぶ』」

「詩人気取り」

「脳内詩人」


二人で笑う。笑い方のテンポが、また少し似る。

改札に入る前、僕らはもう一度だけ、足元を見た。

白いスニーカーがふたつ。砂と草と夜の光を連れて、並んで立っている。


――ふつうで、最高


心の底でそっと繰り返し、句点はつけないでおく。続きがあるほうが、今日にも、夏にも、そして来年にも、似合うから。

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