第2話|夕立とアイスキャンディー

終業のチャイムが鳴る数分前、教室の明るさが、ふっと半音落ちたみたいに沈んだ。


窓の外の木立がざわめき、風が葉裏をまとめてめくる。空気が重く、湿った匂いを運んでくる。机にひじをついたまま、僕―相川悠人は、空の色が鉛筆でこすったみたいな灰色に変わっていくのを眺めていた。


あ、これは来るな、と胸の奥で小さく合図が鳴る。


チャイムが鳴り終わるとほぼ同時に、屋根を叩く音が一段高くなり、雨が降り落ちた。板金の上を転がる水の粒は、最初は点のはずなのに、あっという間に線になり、面になって、校舎全体を包み込む。廊下の向こうから走る足音、遠くで「やばい!」と叫ぶ声、運動部の何人かが白いシャツのまま駆け込んでいく姿が見えた。


「うわ、完全に夕立じゃん」


斜め後ろの席から、美咲が眉をすこし下げて窓の外をのぞき込む。


「帰れないね、これ」

「少し待てば止むでしょ。夕立って、たいてい気が済むの早いし」

「待つ間に宿題やる?」

「それ、結局やらないやつ」

「だよね」


美咲は笑って、机に突っ伏した。髪の毛の先が肩に沿って滑り落ちる。その先で白いスニーカーのつま先が、机の下の床をちょん、とつつく。春におろしたスニーカーは、薄い汚れがつき始めて、昨日より少しだけ生活の色をしていた。紐はきれいに結ばれていて、結び目の輪が左右そろっているのが、彼女らしい。


僕は鞄から文庫本を出してみたけれど、ページを開く前に、雨音がさらに厚みを増して、文字の輪郭が頭の中でにじんだ。窓ガラスに水の筋がいくつもできて、それぞれが競走でもするみたいに、斜めに落ちていく。

教室の空気が少しひんやりしてきた。チョークの粉の乾いた匂いの上に、濡れたアスファルトの匂いが静かに重なる。雨は、音にも匂いにも、光にも触る。


「ねえ」


美咲が顎を腕にのせたまま、こっちを見上げる。


「雨やんだら、駄菓子屋行こ? アイスキャンディー食べたい」

「この雨で?」

「やんだら、だよ。いま行ったら溶ける前に私が溶ける」

「夏だね」

「だって夏休み、もうすぐだよ。アイスの言い訳ができる季節」


窓の向こうで、空の色が心もち薄くなる。雨の密度が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

夏休み。来週の終業式が終われば、約四十日の、長いようで短い夏。宿題と受験勉強と、なんとなく立てた計画と、そして、誰かと歩く道。考えただけで、胸の中の空気が少し広くなる。


雨は二十分ほどで、嘘みたいに引いた。音が薄くなっていく途中の、世界が耳をすます瞬間が好きだ。最後の粒が屋根から転がり落ち、校庭のどこかで遅刻した滴がぱちんと弾ける。雲の裂け目からは白っぽい光がのぞき、空気の温度がほんの少し上がる。


「行こっか」


美咲はすでに立ち上がっていて、白いスニーカーの紐をもう一度、ぎゅっと結び直す。


「濡れてるよ、道」

「わかってる。どうせ洗うし」


昇降口を抜けると、外は雨上がり特有の透明な湿りがあった。校門までの道には、大小の水たまりがいくつも出来て、空と木の葉を反射している。濡れたアスファルトは光を細かく砕いて、ところどころ銀色の粉みたいにきらきらしていた。


僕らは歩き始める。水たまりを避けるときと、わざと踏むときの歩幅が違う。避けるときは少し跳ね、踏むときはつま先からゆっくり入れて、波紋が広がるのを見届ける。美咲はどちらも楽しそうにやって、僕はどちらも真似して、二人の足跡が交互に付いていく。


「ほら、見て」


美咲が指さした水たまりには、二人の白いスニーカーが揃って映っていた。映った白は、本物の白よりも少し青い。雲の色が混ざるからだろう。


「写真みたい」

「そういうの、上から撮るやつね」

「映えを狙う二人」

「映えは狙わない主義だけど、これはちょっと好き」


水たまりの縁に沿って進むと、濡れた銀杏の葉がべたりと張り付いて、スニーカーの側面に小さな模様をつけた。美咲は立ち止まり、指でそっとそれを剥がす。


「つきやすいんだよね、こういうの」

「白いから、目立つのかも」

「まあ、目立ってもかわいいからいいや」

そう言って、彼女はつま先で床を小さく二回、ちょんちょん。

僕は、自分のスニーカーのつま先に映る空の色を見た。さっきより白が強い。雲が薄くなっている。


目的の駄菓子屋は、駅前から少し外れた、細い道の奥にある。赤いひさしはまだ雨粒をぽとぽと落とし、店の前の木製ベンチには薄い水の膜が光っていた。軒下の風鈴が、風が通るたびに短く鳴る。


「こんにちはー」


美咲が声をかけると、店の奥からおばあさんが笑顔で手を振った。


「さっきはすごい雨だったねえ。濡れなかったかい?」

「ちょっとだけ。すぐ止んでよかったです」

「ほら、タオルあるから使いなさい」

「ありがとうございます」


冷凍ケースのふたを開けると、冷気が顔にやさしく触れた。中には色とりどりのアイスがきっちり並んでいる。ソーダ、いちご、あずき、チョコモナカ、白くま、謎の黄色いパッケージ。パッケージの色だけで、子どもの頃の記憶が指先まで戻ってくる。

僕は迷わずソーダ味を取った。透明な青のイラストが、冷たい音をしている。美咲は「どうしよっかな」と言いながら、オレンジ味に指を滑らせ、いちごを持ち上げては戻し、結局オレンジを選ぶ。


「優柔不断選手権」

「こういうのは迷うのが楽しいの。迷わずソーダ取る人にはわからない喜び」

「反論の余地がない」


レジで会計を済ませ、ベンチに腰を下ろす。薄い水の膜は、座るときの体温で一瞬だけひやりとした感触を残し、すぐに消えた。包み紙をはがす指先に、冷気がまとわりついて心地いい。一口かじると、シャリッという音が舌の上で鳴った。ソーダの甘さと冷たさが、口の中をまっすぐに走り抜ける。

美咲もオレンジをかじる。唇の端に、ちいさな色が残る。


「ん。これ、ちゃんとオレンジの味する」

「『ちゃんと』って言うときの基準、いつも曖昧だよね」

「曖昧な良さってあるんだよ」

「たしかに。今日の空の色みたいに」


ベンチの向こう、舗道の端に小さな水たまりが残っていて、そこに空と電線と、赤いひさしの端っこが映っていた。風が弱く通って、水面の像がゆっくり揺れる。白いスニーカーも時々ちらりと入って、すぐにいなくなる。

おばあさんが、店の前をほうきで掃いている。濡れた紙くずが薄い音を立てて、塵取りに集められていく。風鈴がまた鳴って、音はもう、雨の前と同じ強さには戻らないんだと知る。


「夏休み、どこ行きたい?」


アイスの棒を指で回しながら、僕は訊いた。


「うーん……海もいいけど、山も行きたい。キャンプとか」

「アウトドア派?」

「というより、花火派」

「それ、アウトドアだよ」

「じゃあアウトドア派か。あ、でも、図書館も行きたい。あの古いやつ」

「急にインドア」

「夏って、両方の顔あるからさ。騒がしいのと静かなのと。どっちも欲張る」


僕はうなずく。夏は、音が似合う。花火の音、蝉の声、扇風機の羽が切る空気の音、氷がグラスに当たる音。


「川もいいな」

「去年の夏は、同じ夕立を別々の場所でやり過ごしてたね」

「そうだね」

「今年は一緒にやり過ごす、というより、やり過ごしたあとにアイスを食べる」

「正しくは、やり過ごしたあとに、やり過ごした話をしながらアイスを食べる」

「長いなあ、タイトル」

「エッセイのサブタイトルに良さそう」

「『雰囲気の埃』に続く第二弾」


二人で目を合わせて笑う。笑い方のテンポが、いつの間にか似てきている。


「でもさ、今年は受験あるから……遊べるのは“ちょっとだけ豪華な寄り道”くらいかな」

「わかる。僕も夏期講習、時間割が教科書みたいにびっしり」

「朝テキスト、午後過去問、夜に英単語……って決めると、決めたことに満足して寝ちゃうのが私」

「計画を立てるまでが計画、みたいなやつ」

「そうそう。だから、寄り道の時間だけは先に確保したい」

「大賛成。寄り道は“勉強の合間”じゃなくて、勉強と同格」

「名言っぽい。メモっとこ」


彼女は親指でスマホを開いて、メモアプリに数語打ち、すぐ閉じた。


「ちゃんと書いた?」

「『寄り道=正規科目』」

「時間割に“寄り道”って印刷してあったら、先生に怒られない?」

「“総合的な探究の時間”です、って言う」

「強い理論武装」


蝉の声が、まだ遠慮がちに鳴き始めた。風鈴が短く返事をする。ベンチの向こう、舗道の端の水たまりが、電線と雲と赤いひさしの端を切り取って、ゆっくり揺れている。

美咲はアイスを傾け、氷の断面を光にかざす。


「これ、写真じゃ伝わらないんだよね。ひんやりした重さとか、歯に触る感じとか」

「言葉でも全部はむずかしい」

「でも、言葉で覚えるの、好き。『ソーダの氷は、かじると小さく歌う』みたいな」

「僕のも歌ってる。たぶん二部合唱」

「合唱のソーダ」

「強そう」


二人で笑う。笑いのテンポが、いつの間にか少し似てきた。


「受験、どこ受けるの?」


僕は棒の角で、たれた雫をすくいながら訊いた。


「第一志望は、デザインとか文章の学科があるところ。学力的にはぎりぎり。でも、ぎりぎりって好き」

「わかる。ぎりぎりの線に靴の先を乗せて立つ感じ」

「悠人は?」

「地元の国立にしようかなって考えてる。川が近くて、図書館の窓が大きいんだって」

「窓、大事」

「ね。窓の向こうがちゃんと見える場所がいい」

「“窓の向こう”……文化祭のポスター、うまくいくといいね」

「プリンのつや、がんばって描く」

「そこ?」

「そこも」


ベンチの端に、溶けた雫が小さく落ちた。膝に冷たい点が残る。僕はハンカチで軽く押さえて、その感触を記憶のどこかに仕舞う。こういう無駄みたいな細部が、あとから思い出の芯になることがある。

アイスの棒が、細く軽くなっていく。美咲は最後のひとかじりを口に運んで、名残惜しそうに棒を見つめた。


「ねえ、棒に『当たり』って書いてあったら、どうする?」

「もちろん交換」

「じゃあ、もし私が当たったら、半分あげる」

「なんで?」

「だって、一緒に食べたほうが楽しいじゃん。アイスは共有可能資源」

「初耳の概念」

「家庭科でやらないかな」

「たぶんやらない」


美咲は棒をひっくり返す。僕も同時に、自分の棒をひっくり返す。

結果は――ふたりとも、ハズレ。


「ほら、やっぱり『ふつうで最高』」

「またそれ?」

「今年の夏のテーマにするって言ったじゃん。『当たり』も嬉しいけど、ハズレで笑えるのが最高」

「主張は理解した。『ふつうで最高』」

「復唱ありがとう」


店の奥から、おばあさんが顔を出す。


「当たりは出たかい?」

「今日はハズレでした」

「それがいい日ってこともあるよ。暑すぎない今日みたいにね」

「はい。おいしかったです。ごちそうさまでした」

「またおいで」


ゴミを片付けて、店の前で軽く礼をして、僕らは駅の方へ歩き出す。

舗道の水たまりはさっきより数が減り、残っているやつは形がややこしくなって、ところどころで空を細長く切り取っている。風が乾いたところと湿ったところの境目を撫でていき、アスファルトの色がまだらに変わった。


白いスニーカーは、そのまだらの上を、音を立てずに渡っていく。ときどき、薄い汚れがついたつま先が光を拾って、白さの別の顔を見せる。


「夏休み、時間割つくる?」

「“寄り道”を正規科目に入れるなら」

「入れる。あと“遠回り”。“氷”。“夕方の光観察”。“昼寝”は選択科目」

「“昼寝”は必修では」

「単位が重すぎる」

「単位制の昼寝……魅力的」

「真面目な話、朝は過去問やって、午後は塾。で、夕方に散歩」

「夕方の散歩は、記憶の定着に良い―気がする」

「ソース:悠人」

「はい。脳内査読済み」


笑いながら、信号を待つ。風がやさしく吹いて、遠くで蝉が鳴き始めた。まだ本気ではない鳴き方だ。


「花火大会、今年はどこ行く?」

「河川敷のやつ、来週が最初のやつだよね」

「うん。浴衣着る?」

「迷う。動きづらいの嫌だけど、浴衣でアイス食べるのは可愛い」

「じゃあ、浴衣でアイスを食べる会」

「それ、ただの夏の勝利宣言でしょ」

「勝利の定義、ゆるすぎる」

「ゆるくていいの。ふつうで最高」


信号が青になり、僕らは横断歩道を渡った。

駅の手前のベンチは、夕立の名残をほとんど失って、座面に残ったほんの少しの冷たさが、もう心地よい種類の冷たさに変わっていた。ちょっと休もう、と美咲が言う。


二人で腰を下ろす。かすかな風と、通り過ぎる人の靴音、電車が遠くで吐く低い息。世界は急がない。


「ねえ」

「うん」

「来週の予定、ちょっとちゃんと決めよう」

「花火?」

「うん。花火と、あと、川沿いのアイス」

「またアイス」

「アイスは共有可能資源だから」

「学術的ですね」

「ねっ」


美咲はポケットからスマホを出して、メモアプリを開く。


「今日のメモ……『夕立、駄菓子屋、オレンジ。ふつうで最高。棒はハズレ、でも半分こは約束』」

「半分こ、覚えてた」

「忘れないよ。こういう約束は、守ると夏が長くなる」

「どんな理論」

「脳内理論」


僕もスマホを出して、短く打ち込む。


『夕立後、ソーダ。水たまりに映る白。雰囲気の埃は夏にも舞う』


書いてから、句点をひとつ消した。続きがまだある気がするから。


「今度さ」

「夕立のあとじゃなくても、遠回りしよう。晴れてても、曇ってても」

「うん。季節の言い訳がなくても」

「そう。言い訳なくても、歩けばいい日ってあるから」


夕方の光が、街の角でやわらかく曲がった。

僕らはベンチから立ち上がり、駅へ向かって、また歩く。夏はまだ始まっていないのに、ポケットには小さな思い出がいくつも入っていた。溶け始めたアイスの甘さ、ベンチのひやりとした点、風鈴の短い音、水たまりに映った白。


「ふつうで最高」


口に出さずに心の底で繰り返す。句点はやっぱりつけない。続きがあるほうが、今日にも、夏にも、似合うから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る