PROLOGUE2・男装女(クロエ)と男(ルシアン)
石畳の街の上に、今夜も白い月が浮かんだ。
オレンジ色の柔らかい光が灯ったほの暗い店内。 ホワイトとブラックのチェッカー模様の床。スポーツ観戦用の大きなモニターに、カウンター――……
昼間、組織の一員としてではなく、ただの常連客としてカフェタイムを満喫したクロエの姿は、現在ある
彼女はクロエだが、今の彼女の見た目はクロエではなかった。 本来のクロエ自身の美しさは、今はそこにはない。 彼女は今、変装することで性別も年齢も偽っていたからだ。
変装中である現在のクロエの容姿を説明しよう。 深いブラウンの髪をした、いかつい容姿、アンバーの瞳をした、40代程の男性だ。
そう、人工皮膚技術と特殊メイク技術を駆使した特殊なマスクを付け、骨格も顔のパーツも性別も歳も、何もかもが本来の彼女とは異なっている状態であった。 手も首も、特殊メイク等で筋っぽくゴツゴツに仕上げてある。 同じく特殊メイク等で喉仏までつけている。 そしてその人工喉仏の中に隠した特殊な小型マイクによって、声まで男の声に変えていた。 完璧な変装。 どこからどうみても、今のクロエはいかついオジサンだ。
例のブラウン髪のスパイラルパーマの男の変装の方は、近頃世に知れてきてしまっていたのだ。 その為クロエは、新しい偽りの自分を生み出したのだった。
スパイラルパーマ男の時は、女である本来の骨格のせいで、童顔な女顔男のようになっていたのだが、今回のいかついオジサンの変装は、特殊メイク等で骨格さえも偽って見せている為、かなりクオリティが高い出来だ。
クロエはこのいかついオジサンの名前を【
さておき、本日のクロエの仕事は今からであった。
本日の仕事は、例の機密文書の奪還を目論む敵をマークすることだ。
“マーク”だなどと、一体クロエと、ついでにルシアンも、どんな組織に属している何者であるのか? と言った話であるが、それはまた今度話しをするとしよう。
“このパブこそが、機密文書の奪還を目論む者の行き付けのパブである”のだと、その情報を入手したクロエは、今夜ここへと来た。
パブでオジサンのフリをし、酔わない程度にビールを飲みながら、クロエは胸ポケットにしまってある標的の写真を確認した。
標的は30代程だと思われる、ブラウン髪のアップバングショートヘアの男だ。
標的であるその男は、少なくとも週に1回程はここへと来ると噂だ。 奴がよく来ると噂の時間は、ザックリと言ったなら、夜だそうだ。 細かい時間は不明であった。
このパブの営業時間はAM11時からPM23時であるので、クロエは夕方の18時からパブで時間を潰し、標的を待ち続けた――。
クロエの目的はただ1つ、標的を見付ける事であったのだが、1つ、計算外な事態が巻き起こっていた。 現在世はサッカー世界大会真っ只であったのだ。 イギリスではパブでのスポーツ観戦が主流。 ビール片手に皆でサッカー観戦で一喜一憂。 このような時期は特にスポーツ観戦の出来るパブは非常に混み、店内は凄まじい熱気に包まれる。 それに本日はまさに、
サッカー生中継の時間に合わせて店内には客が増え続け、徐々に店内の熱気も高まっていき、『〝
そうしてついにサッカー生中継が始まると、『
「
「〝
店内の者たちは一心同体。 皆で拳を突き上げ『『〝
店内の熱気の渦に呑まれざるを得なかったクロエは、オジサンの変装をしたままオジサンとして、知らないオジサンや若者たちと、ビールを飲みながら共にスポーツ観戦をするしかなくなったのだった。 依然心の中では〝標的は?! 標的はいつ来るの?!〞と、酷く焦りながら――……
――そうして約2時間後――……
「〝
「〝
「〝
――勝った。 イングランドが、勝った。
――クロエは思った。 “試合も終わった事だし、これでいくらか落ち着けるだろう”と。
――だが、勝ったからには落ち着く筈がない。 『今日は祭りだ!!』『飲め飲め!!』と、客たちが一向に落ち着かないのだった。 やはり、標的を探すどころではない。
――時刻は21時過ぎ。 クロエがパブへと来てから、3時間以上経っていた。
更に店内の熱気に付き合いざるを得なかったクロエは、居合わせた客たちと勝利の祝杯をあげ、酒を飲み交わす羽目になり、時刻はついに、22時を過ぎようとしていた。 パブの営業は、23時までである。
店内の熱気に付き合いざるを得ない状況へと陥り、酒を飲み過ぎたクロエは今、カウンターへと突っ伏していた。
時間的に、今日は標的は現れないかもしれない。 とんだ日に来てしまったものである。
酒を飲み過ぎた。 気持ち悪い。
クロエは死んだ魚のような目をしながら、胸ポケットへとズボッと手を突っ込むと、例の標的の写真を掴んだ。 そして躊躇いなく――
――グシャッ!!
標的の写真を握り潰す――。
(〝この男のせいで、こんな目に――!!〞)
怒りの矛先はそう、標的の男である。 奴の行き付けのパブへと乗り込んだせいで、今こんなに気分が悪くなっているのだから。
――クロエがカウンターへと突っ伏してから、更に5分10分と過ぎていく。
閉店時間に近付くにつれて、店からも徐々に熱気が引いていき、それと合わせて客も減っていった。
――するとその時、店を出ていった団体客と入れ違いで、1人の青年が店へと入ってきた。
青年は真っ直ぐにカウンターへと進み、そこで料金を払うとビールを受け取り、クロエの2個先のカウンター席へと座った。
青年とクロエの間には、空席の椅子だけが置いてある。
カウンターに突っ伏したまま、クロエは何気なく青年を眺めた。
灰みがかったスノーベージュカラー、艶のあるシースルーマッシュの髪。 アクアマリンのように透き通った、美しい水色の瞳をした男。 ――一体何歳なのか? 間違いなく20代なのだろうが、ベビーフェイスな甘いマスクであったので、パッと見ただけでは10代後半程に見えなくもないような男だった。
男から視線を反らすと、飲み過ぎて体調が優れないクロエは、カウンターへと完全に伏したのだった。 そこに伏しながら、クロエは何気なく店内客の会話を聞いている――……
――クロエが伏した頃、例のアクアマリンの瞳をした彼へと、常連客の男が話しかけた。
「知った顔だが、観戦中には見なかったぞ? いつ来た?」
「ついさっき来ましたよ。 仕事で遅くなってしまって」
「泣ける話だな。 今夜の熱気を感じさせてやりたかったよ」
彼らはどうやら、互いに常連客のようだった。
アクアマリンの瞳の彼に話しかけていた男は、そこで少しだけ立ち話をした後に、仕事でサッカーの生中継を見そびれた彼を慰めると、先に帰って行く――。
――そうアクアマリンの瞳をした彼は、仕事が長引いたせいで、パブへ来るのが遅れたのだ。 昼過ぎは女性に変装してカフェで張り込みをしていて、その後もある任務の遂行を目指して、人探しをしていた。 だが結局、探している人は見つからないまま、今日の仕事は終えてきた。 そうして、特殊メイク等を駆使した女の変装状態から本当の自分に戻った後に、ため息混じりに閉店1時間前のパブへとやって来たのだった。
ここのパブには、週に2、3回程はやって来ている。 内1回か2回は、ブラウン髪のアップバングショートヘア、30代の男へと変装してやって来たりもしていた。 それはもう、先程誰かさんが握り潰した、標的の写真に写った男のような容姿でだ。
このアクアマリンの瞳をした彼の名は、【ルシアン】と言った。 先日、持ち去られた機密文書を取り返す役目に抜擢されたところである。
サッカーの観戦もしそびれたし、たった今閉店30分前になってしまったし、標的にも会えなかったし、昼間は美女のナンパに失敗したし――……今日は散々なルシアンだ。
散々であったルシアンは1人、閉店ギリギリまで飲んでいる。
――そうして閉店15分前、ルシアンの視線は、2個先のカウンター席で酔い潰れている
当然ルシアンは、その人をオジサンだと思っている。 このオジサンが昼間逃がしたあの美女だとは、夢にも思うまい。
ルシアンは席を立つと、酔い潰れているオジサンへと歩み寄った。 そうしてそっと、声をかけた。
「――もう少しで閉店ですよ? 大丈夫ですか? 気分が悪いの?」
声をかけられたクロエは、呻きながらも、そっと顔を上げた。 ――すると、先程のアクアマリンの瞳をした青年が、じっと
クロエはパチパチと瞬きをした。
スリが多いので、反射的に内ポケットに手を入れて、ちゃんと財布とアイフォンがあるかどうかを確認した。
――財布もアイフォンも、ちゃんとある。
スリなら、起こす前に取る筈だ。 ならばこれは、純粋な親切であっただろうか? ここで親切にされるとは、意外であった。
「平気です。 ありがとう……」
クロエはカウンターに片手をつくと、ゆっくりと立ち上がった。
ブーツの中に10cmもあるインソールを入れてあるので、今のクロエはルシアンと同じくらいの背である。
ふらつきながら立ち上がったクロエのことを、ルシアンはそっと支えた。
クロエは顔色が悪いまま、自身の口を押さえた。 吐きそうだ。
「マズイマズイ。 オジサン、吐くならアッチ」
今にも吐きそうなクロエと肩を組むと、ルシアンはクロエのことを、手洗いへと連れて行く。
手洗いで背を撫でて吐かせて、ルシアンはクロエのことを介抱した。
申し訳ないやら恥ずかしいやらで、クロエは特殊マスク下の顔を赤くしている。
クロエは吐いた口を水道の水ですすいでから、まだ支えるように肩を組んでくれている彼の横顔を、そっと盗み見た――
気が付いたルシアンも、ふと視線をクロエへと向ける。
ルシアンはじっと顔を見てくる
組まれた肩に、至近距離で絡んだ視線。 クロエの弱った心身に溶け込む、ルシアンの優しさ――……
クロエの心臓が跳ねた。 特殊
(どうして? どうしてこの人は、いかついオジサンである今の私に、こんなにも優しいの? 純粋な優しさってこと? ……
オジサンの変装なので、彼とは同性と言う事になっているクロエは、遠慮せずにここぞとばかりに、じっと、ルシアンのことを食い入るように見始めた。
(何だ? 何何?! キラキラとした目でオジサンが、じっとコッチを見てくる……!! 目ぇキラキラ! 何気にまつ毛長い!! ……何だこのオジサン?! やたらと綺麗な熱い眼差しを注いでくるぞ?! 怖ぇって……!!)
物凄く怖がられているのだが、クロエはまだ、うっとりとしながらルシアンのことを見つめている。
(最初に見た時は、“子どもみたいな顔で、好みじゃない”って思っていたけど、今はこの童顔が好きだわ! ――“好きな人の顔が好みになる”ってやつかしら?! 私の好みは今夜、童顔に変わったわ!! ――つまりこれは、恋っ!!)
――クロエは嬉しくてたまらなかった。 人から純粋な優しさをもらった事が。
オジサンに変装したからそこ、見付けた恋だった。 けれど鏡を見てみれば、当然――……
「……――」
今夜の己は、いかついオジサンでしかない。
鏡に映った完璧な変装姿のオジサンである自分を見ると、舞い上がっていたクロエの気持ちが、スッと白けて落ち着いた。
クロエは心の中で嘆く――
(……。 アナタには言えはしないけど、この姿は偽りなの。 本当のオレは――……いや、本当の私は、女なのだから! ……)
オジサンに変装したから見付けた恋だと言うのに、オジサンの変装をしている今、彼の瞳に魅力的に映っている筈もないのだろう。
“なんて歯がゆくもどかしい!”と、クロエはギリッと歯噛みをした。 そして誓った――
(今度は女のまま、このパブへ来よう――!)
こうしてクロエも、ややこしい恋へと堕ちたのだった。
クロエもルシアンも、ややこしい恋の中。
何故ややこしくなってしまったのかと言うと、〝偽りの魅力〟・そのダチュラの花言葉のような事を、互いにしていたからである。
そうこの物語は、変装のプロと変装のプロが巻き起こした、〝ダチュラの恋〟。
恋は盲目・任務そっちのけ。 ある機密文書を中心とした男女のややこしい恋が、今、始まった――
◇+◆+◇+◆+◇+◆+◇+◆+◇+◆+◇
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