残されたグラス
第5話 初雪
マスターからの電話で目が覚めた。
腰が痛い、今日は休むから店を頼む――。それだけ言って電話は一方的に切れた。
マスターもいい歳だ。仕方ないな、そんな風に思いながらシャワーを浴び、出勤の支度を始める。
予定よりも早い出勤になりそうだが、問題はない。
枕元のデジタル時計が14:07を知らせる。まだ余裕はある。それでも、今夜はマスターがいないという現実が、オレの背筋を冷たくした。マスターが不在の店で、オレの未熟さが露呈するのではないか――そんな恐れが胸の中に広がっていく。
家のドアを開けた時、降り始めた雨を見て家の中に引き返す。そういえば、昨日寝る前に見た天気予報が雨を知らせていた気がする。
クローゼットからインナーを取り出し、服を脱いだ素肌の上に着る。冷たいインナーが肌を滑る感触に身を震わせる。一度脱いだ服を急いで着込む。
傘を手にしてドアを開けた瞬間――ふと、靴が濡れるな、なんて小さな憂鬱を感じた。
なぜか今でも、その感覚だけは覚えている。
この時期の雨は特に寒さを強くする。
もしかして雪に変わったりはしないだろうか。まだ雪の日の営業は経験がない。雪は雨以上に、お客様の足を遠ざけるんじゃないだろうか。
カウンターは、お客様にとって「絶対の信頼を寄せられる存在」でなければならない。その責任の重さに、オレは一人唇を噛みしめながら歩いた。
店に着いてすぐに丸めたおしぼりをタオルウォーマーに並べてスイッチを入れる。開店の時間までには、十分にお客様の冷えた手を温めてくれることだろう。
開店のルーティンは、もう身体が勝手に動くまでに馴染んでいた。もう随分と慣れたもんだな、と一人呟く。この「慣れ」が、マスターが許さない「慢心」に変わらないように、と気を引き締める。
今日の寒さからすると、ホットカクテルも出るかも知れない。そう思い立って電子レンジの中も拭いておく。ホットカクテルは、お客様の心と身体を温める、バーテンダーの優しさの現れだ。材料一つ、温度一つ、妥協は許されない。
優しさがなけりゃバーテンダーとは名乗っちゃいけないよ、いつかのマスターの言葉を思い出す。バーという空間に、優しさを意味するテンダー。確かにな、とあの時と同じ感想を思い出す。
グラスの輝き、ボトルの向き、コースターの位置。カウンターの拭き残し、椅子の定位置――一つ一つ念入りにチェックしていく。
完璧に整った店内を確かめ、重いドアを押し開けて看板を出す。蝶番の音が、いつもより不安げに聞こえた。雨はいつの間にかみぞれ混じりになっている。
コンセントに繋がれた看板に照らされた街並みは、いつもより沈んだ色をしていた。この店の灯りが、迷い疲れた魂を照らす唯一の灯台であってほしい――そう強く願いながら、オレは再び蝶番の音を軋ませカウンターの中へ身を滑らせた。
思った通り、来客は目に見えて落ちていた。
高い位置の窓から外を見れば、雨はいつの間にか雪に変わり、時折開くドアから流れ込む冷気は一段と鋭さを増している。車通りもほとんどない。
雪の日は、すべての音が消えるように感じる。
雑踏も、喧騒も、人々の焦燥感すらも――降りしきる雪に溶けて、代わりに張り詰めた静寂が街を支配していた。
少しずつ、ゆっくりと空席が埋まっていく店内。
タオルウォーマーのおしぼりがお客様の指先を温め、表情がほぐれていくのが分かる。
いつもより静かな空間で、オーダーの声さえ少ない。抑えられたボリュームのBGMと、シェーカーの小気味よい音だけが響く。ステアで氷がぶつかる音が響くことは、もうなかった。
予想通り、ホットカクテルのオーダーもちらほら入る。
少しは営業として形になっただろうか――そんな安堵が胸をかすめた矢先だった。
せっかく来てくださったのに足早に席を立つお客様も多く、ほとんどの方がいつもより少ない杯で終えてしまう。
雪に慣れていない街中では、交通機関も乱れるだろう。早めに帰らなければ、ダイヤの乱れや混雑に巻き込まれる。理屈は分かっている。それでも、マスターがいれば、その完璧な一杯で“もう一杯”を誘える満足を与えられたんじゃないか――そんな悔しさが胸に沈んだままだった。
おしぼりを補充し、グラスを洗いながら、技術が足りないのだろうか、練習を増やすべきか――答えのない問いが頭の中を巡る。
すべてのグラスを引き上げ、窓を見るといつしか雪は雨に戻っていた。
少しだけドアを開けて外を覗いて見れば、雪もすべて溶けていた。雪が降っていた時間は、二時間にも満たない。
それでも、街並みは静かなまま、行き交う人の姿も見えない。先程までの雪が、人の気配まで消してしまったような不穏な想像に、身を震わせる。
店内にグラスを磨くキュッ、キュッ、という布の音が響く。技術への不安が心の中で揺蕩ったまま消えない。モヤモヤとした気持ちを抑え込みながら、磨き終わったグラスをグラスホルダーに戻す。
カウンターに一人残られていた最後のお客様が、そろそろ、と申し訳なさそうに席を立つ。
聞こえないように小さな溜息を漏らして、マスターがいればどやされるな、なんて思いながら作り笑顔で会計をする。
お預かりしていた上着をお渡ししながらもう雨に変わってましたよ、と告げてドアの外まで見送り、足元にお気を付けて、と声を掛ける。
蝶番を軋ませて、いつもより重く感じるドアを開け、店内に戻る。ゆっくりと閉まるドアを背に、自分の未熟さに打ちひしがれていた。
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