第4話 願い

 カウンターに戻り、マスターに頷く。

 再びシェイカーを取り出し、ストレーナーを外して氷を組み、スーズを45ml注ぐ。本当はライムだけど、このカクテルの時にはレモンにしてすっきり仕上げる方がオレは好きだから、フレッシュなレモンを搾る。15ml。

 バースプーンをひと回し、手の甲に乗せ、ひと舐め。スーズ由来の僅かな苦味、そしてレモンの酸味の後に感じる穏やかな甘味。

 ストレーナーとキャップを順に被せたら、空気を逃がして。


 左肩の前で構える。

 このカクテルは、強く振るべきじゃない。オレの想いと…祈りをもう一度込めるんだ。

 カシャカシャカシャ…小気味良い音が、カウンターに響く。

 スローダウン、シェーカーの残響が消える前に、少しだけスリムなカクテルグラスに注ぎ、そのカクテルを手にテーブルに戻る。


「では…献杯。」 

 オレがバーテンダーとして、このカウンターに立つ資格を得た、本当の意味での始まりの一杯。

 今日、この一杯は、彼等の神聖な、そして悲しい儀式に参加する赦しを得た、特別な一杯。

 グラスを小さく掲げる――合わせることはしない。 

「そのカクテルは?」

 片手でギムレットを持ち上げたお客様が、見慣れない色のカクテルグラスを見つめ、目を細める。

 余計なことを、と言われるかも知れない。

 ガキに何が分かると思われてしまうのかも知れない。

 でも…、このカクテルには、オレの想いが込もっている。その想いには、なんの偽りもない。

 

 このカクテルは。 

「スーズ・ギムレットと申します。本来はライムで仕上げますが、今日はレモンでスッキリとさせてみました。

 スーズの原料のゲンチアナはリンドウの近縁種、リンドウの花言葉は…… 

『あなたの悲しみに寄り添う』。 

 バーテンダーの、理想の姿だと思います。」

  

 もし言葉で癒せる痛みなら、言葉を掛けるだろう。

 でも、そんな言葉は、オレの中にはなくて。

 出来ることは、寄り添うこと。それだけでいい。


 奥の、若いお客様が小さく頭を振る。その背中に手を回しながら、年嵩のお客様が言葉を紡ぐ。 

「寄り添う、か…分かってはいるんだよ…本当はね。全部抱えちゃいけないんだって。

 それでもやっぱり…ご家族の泣き顔を見ると、やり切れなくてなぁ…。」

 その唇を悔しそうな形に歪めて、悲しみを漏らす…。返せる言葉はない。

「私には……その悲しみに、言葉を返せる術がありません。ですが。

 このスーズ・ギムレットには、もう一つの意味があるんです。」

「もう一つの意味?」

 それは、祈りにも似て。

「はい。花言葉と同じようにカクテル言葉、というのがあるそうです。

 そして、このスーズ・ギムレットのカクテル言葉は」

 手に持ったカクテルグラスを、テーブルを照らすダウンライトに透かす。スーズ由来の美しい、包み込むような力強さを感じる黄色。

 バーテンダーとして、こうありたい、という願いと一緒に、このカクテルに込めた、それは希望。

 お客様に届けたかったメッセージ。


「"悲しみを乗り越えて"」


「悲しみを…乗り越え、て…ッ!!」

 奥の…あの、顔を歪ませていた、若い医師。

 堪え切れなくなったのか、口元を抑えて、それでも、漏れる嗚咽は――きっと、体験したことのある者にしか分からない孤独と、絶望。


「キミのような若い人に諭されるとは…、な…。」

 嗚咽を漏らすお客様を慰めるように抱き寄せながら、自嘲するように呟く。 

 肩を揺らし、嗚咽を止められないでいるそのお客様を見つめながら思う。

 初めてだったのかも知れないな。泣かせよう、なんて思ったわけでは、もちろんないのだけれど――。 

 いいんですよ、きっと。今は泣くべき時なんだ。悲しみを乗り越えるためには、無理に抑え込むんじゃなくて。

 いつかの、マスターの言葉を思い出す。

『悲しむべき時は、ちゃんと悲しめ――悲しい時は、泣け。余計なことを考えずに、相手のことを思え。』

 そうだ。泣いて、泣いて、吐き出した方が楽になれる。

 喪う痛みを知った彼が、この悲しみに慣れることなく、忘れずに乗り越えてくれれば……きっと良い医者になれるんだろうな。 

 

「差し出がましい真似を失礼いたしました。」

 オレが頭を下げると同時に、スピーカーから流れるBGMが、嗚咽を包み隠すように少しだけそのボリュームを上げる。

 マスターの仕業だ。

 お客様がオレの向こうのマスターに片手を挙げ、マスターもそれに片手を挙げて返すのが映る。

 

「いや、いいんだ。

 ありがとう、その気持ちが、嬉しいよ。

 コイツを飲んだら、オレにもそのスーズ・ギムレットをもらえるかな?」 

「かしこまりました。

 では、頃合いを見てお作りいたします。…今宵は、私からの送り火として、こちらも添えさせていただけますか?」

 そう言って、本来はパーティーなどの時にだけ出すキャンドルを一つ、テーブルへ。 


 その日から、彼らが煙草を吸う日には、キャンドルとスーズ・ギムレット。

 今でもまだ、彼等の煙草の匂いを覚えている。

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