第2話 煙草
その日の口開けは、まるで街が店の存在を忘れたかのように静かだった。やはり、雨の日は客足が落ちる。ポツリ、ポツリとお客様が蝶番を軋ませながら店内に足を踏み入れ、思い思いの場所に座る。
今日はこのまま行くと早上がりになるかもしれないな――。そんな風に思っていると、外の雨足が少しだけ強くなってきたのを感じる。
高いところにある明かり取りの窓を見れば、雨の線が幾重にも重なっているのが見えた。暖房を一つ上げて店内の温度を調整する。
それでも開店から約二時間も経った頃にはカウンターはその半分程が埋まり、少しだけ店内のざわめきが濃くなってきたのを感じた。
注文もひと段落したようだ。店内のお客様のグラスを見渡しても、まだ半分以上は残っているのが確認できる。今のうちに洗い物を片付けてしまおう。
これからの季節は水が冷たくなるな、なんて考えながら蛇口を捻り、湿らせたスポンジに業務用の洗剤を染み込ませる。
先月やっとお客様にカクテルを出すことを許され、少しずつ作れるお酒も増えてきた。
――楽しい。
シェイクの時のシャカシャカシャカ、という小気味の良い音は、聞いていても気持ちがいい。自分で振っている時はもっとだ。腕の振りに合わせて、シェーカーの中の氷が移動して規則正しい音を立てる。リズムに乗る氷の音を聞きながら、マスターの教え…シェーカーの中のイメージを膨らませていく。
納得のいく音が出るまで、と思って振りすぎて、シェーカーに指が張り付いたこともあったな。その時も、シェーカーの中のイメージが全くできていない、とマスターにはこっぴどく怒られたものだ。
今ではいい思い出だ、なんて言っても、実はそれをやらかしたのは先々週のことだったりする。
ステアはまだ苦手だけど、この技術は本当に根気のいる長い修行が必要だ。家でも練習できるようにと、自宅でも道具を揃えはしたけれど、中々マスターのような美しい円を描くことが出来ずにいる。中指と薬指の使い方がコツだよ、なんて教えてもらったけれど、思うように回った、と思った瞬間に氷が音を立ててしまう。
マスターのステアはいつ見ても惚れ惚れする。ミキシンググラスの中で、円を描くように滑るバースプーンは、僅かな音を立てることもない。
店でも暇さえあれば練習を見てもらっているけれど、氷にぶつかりカシャン、と音を立てる度に、マスターの容赦のない拳骨が飛んでくる。
そうやって、技術を学んで、レシピを勉強して。
そんな研鑽の末に自分の作ったカクテルを、お客様にうまい、と言われた瞬間の喜びは、何物にも代え難い。まるで自分の存在価値を肯定されたようにオレの胸を満たしてくれる。このカウンターに立っていても良いのだと、初めて許された気持ちになる。
クセになるな、なんて片頬だけで笑う…マスターには見えないように。
全てのグラスを洗い終え、2/3程を磨いたタイミングで、ドアの蝶番が軋む。冬の訪れを予感させるような冷たい空気が店内に流れ込む。一瞬だけ、雨の匂いに混じった微かな消毒液の匂いが鼻を刺激した。
コートの肩口を濡らした三人の男性がドアの間に身体を滑らせ、店内に足を踏み入れた。
見覚えのあるお客様だった。
年嵩のお客様が、そっと三本の指を立てて人数を知らせる。雨で身体が冷えたのだろうか、その指は微かに震えているように見えた。一番年若い方の拳が強く握られたまま泣いているように震えている。後ろのお客様が若いお客様の肩に手を触れ、背中を押すようにして店内へと進む。
蝶番がどこか悲しそうに小さく鳴きながら、ゆっくりとドアを閉じていく。
多分、あの近くにある病院の医師…それも、小児科の方だと思う。
前にいらした際に、恐らくだけど患者さんの話らしきものをしていたことがあって。ちゃんとか君とかで呼んでいたのが聞こえてきたんだ。結局は推察でしかないんだけど。
いつも数名でいらして、静かにお酒を嗜み、二、三杯で席を立たれる。いわゆるいいお客様、というやつかも知れないな、なんて一端のバーテンダーぶって考えてみる。
それでも、せっかくお越しいただいたというのに携帯電話…もしかしたらPHSってやつかも知れないけれど、それが鳴って慌てて店を出て行く姿も見かけることも多かった。
きっと、オレなんかじゃ想像もつかないような過酷な仕事なんだろうな。生命を預かる仕事なら当たり前なのかも知れないけれど。
ただ――そんな彼等には秘密めいた儀式があって。
普段は煙草は吸わないのだが、時々。そう、本当に時々。
座ると同時に、皆様が揃って煙草に火を点けることがあった。そんな時は決まって、誰も何も言葉を発することはなく。どこか近寄りづらい雰囲気さえ感じさせた。
そんな時マスターは、何も言わずにその煙草の煙が消えるに合わせてオーダーを受けていた。オレは深く考えることもなく、さっさと聞けば良いのに――なんていつも思っていた。
「いらっしゃいませ。三名様ですね。」
「あぁ…テーブルは空いてるかな。」
二つあるテーブル席は、まだ一つ空きがある。
「はい、空いております。どうぞ!」
お客様をテーブル席に誘導し、濡れた上着をお預かりする。クロークへ持っていきながら乾いたタオルで肩口を拭くのも忘れない。ハンガーにかけ、間違えないように番号札を控える。
カウンターに戻り、タオルウォーマーからおしぼりを三つ取り出す…どうしたんだろう。マスターの目が少し鋭さを増して、今ご案内したばかりのテーブル席を見つめる。
とりあえず、おしぼりを早くお持ちしないと。この季節の雨は指先を冷やす、温かいおしぼりで少しでも和らいでくれ、と小さく願った、その時。
ポケットから煙草と、ライターをテーブルに投げるように置かれるのが見えた。
いけない、今日は煙草の日なのか!灰皿を持って来ないと!
考える余裕もなく、身体が動く。カウンターの下に重ねられた灰皿を手に取って…マスターの瞳に、諦めの色が浮かぶのが目の端に映る。
不安が胸をよぎる――オレは、何かミスをしたのだろうか。
灰皿を届けた時には、皆様は既に煙草を咥えていた。そして、揃ってライターに火を灯す。
その動きはまるで――このテーブルだけが時の流れが違うかのようにゆっくりと静かで。どこか酷く疲れているようで。
三条の煙がゆっくりと立ち上り、天井を揺蕩いながら換気扇へと吸い込まれていくのが視界の端に映る。
奥の一番若い医師の顔が何かを堪えるように歪む。
その表情。震える拳。
頭の中の映像が一気に逆再生する。
過去の煙草の日も、こんな風に何かを届けるように静かに立ち上る紫煙が、僅かな空調の風に揺らめいて。
あのマスターがグラスも灰皿も無視して、ただただ静かにその煙が消えるのを待っていた。その儀式が終わるまでただ待ち続けるマスターの、見守るような、どこか悲しげな視線。
そして、その時のお客様の顔はいつも今日と同じ――絶望と悲しみの色に染まっていた。
誰も言葉を発しないままに灯された煙草の煙が、オレの鼻腔に満たされ、一番奥をツンと刺激する。
その瞬間…、雷に撃たれたように、全てが繋がる。
お客様の煙草の意味に気付く。
息が止まる。周りの音が、遠くなって行く。
マスターの、あの諦観にも似た悲しげな表情――。あれは、オレに向けられたものじゃなかった。
全部、わかっていたんだ。だから、煙草の日はただ待っていたんだ。
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