バーテンダー ―カウンターの中では、泣いちゃいけない―

早過ぎたギムレット

第1話 バーテンダー

　バーテンダーは、生き様なんだと思う。

　お客様が望む一杯、旨い、と言わせる一杯。そんなのは当たり前で。ただお客様を見て、見て、見て。お客様がバーに足を運ぶ理由を探す。

　バーに来るお客様は、必ず何かを背負っている。誰かに、軽々しく語ることの出来ない何かを。

　バーテンダーは静かにそれに寄り添い、お客様のその重い荷物をカウンターに降ろしてもらう。

　そんなバーテンダーの魂は、カウンターの中で磨かれ研ぎ澄まされ、仕事という枠を超えて。至高の芸術のように受け継がれ、永遠になる。

　オレは、今でもそう信じている。　

　オレのいたバーは、近隣の大きな総合病院の近くにあった。その病院は、周辺の救急受け入れ指定だったかをされていて、目の前の道路をサイレンを鳴らした救急車が忙しなく行き交うこともあった。

　内科医に日本でも有名な医師がいるらしく、その先生に診察してもらおうと思ったら2ヶ月待ちと言われていて、そんなんじゃ本当に急患の時には診てもらえないんじゃないか、と他人事ながら思ったものだ。

　そんな病院の方々も、このバーには良くいらしてくれていた。

　その夜は、静かに雨が降る音で始まった。

　濡れた路面が車が通り過ぎる度に飛沫を上げる。跳ねた雨水を避けるように、傘を揺らしながら行き交う人が列をなして交差し、雨のカーテンの向こうへ消えて行く。

　そんな夜の始まりを告げる雑踏の音を雨音が包み込み、街の輪郭をそっと溶かしていく。重い扉の内側まではそんな雨音さえも届かず――店内のBGMが、そこだけが別世界かのように穏やかに響く。

　開店前、最後のチェックをする。カウンターの中、椅子に腰掛けたマスターの、鋭い目線が光る。粗がないか、その目でオレの仕事を見てくれているのがわかる。　

　まだ、この店に入って四ヶ月。

　バーテンダーとしては駆け出しも良いところだ。

　仕事の漏れがあることも多くて、その度にマスターには怒られている。早く慣れないとな、と気持ちばかりが焦る。でも、こうして開店の準備も任せてもらえるようになってきたのは、少しは成長したという証なのだろう。

　マスターは、「カウンターに立つ者は、お客様にとっては絶対の信頼を寄せられる存在でなきゃいけない。常に完璧な存在として、カウンターの中堂々と自信を持っている姿を見せなければ、お客様からの信頼は得ることはできないんだ。」と教えてくれた。

　その教えの通り、オレはボトルの配置、グラスの磨き方一つに至るまで、全てを完璧なルーティンとしてこなそうとする。オレの手がグラスの脚を持って店内の照明に透かす。曇り一つないか。氷を入れたときに、最高の音を立てるか。

　全ては、今夜訪れるであろう、すべてのお客様のために。

　ボトルの向き良し、シェーカーの配置良し、カウンターの拭き残しもない…。最後に店内をもう一度だけ見渡してから、確認の意味を込めてマスターの目を見る。

　OK、と言ってくれ――願望にも似た思いを込めてマスターの返事を待つ。ほんの数秒のはずが、時間がゆっくりと流れているように感じる。

　小さく店内を一瞥したマスターが、静かに、満足気に頷く。

　ホッとすると同時に、ため息が漏れた。途端に、マスターが首を振って告げる。

「一々一喜一憂するな、馬鹿者。

　いつも言っているだろう。カウンターにいる時は、昨日入ったばかりだろうが、見習いだろうが、お客様からしたらプロなんだ。

　もっと堂々としていなさい。」

　すみません！と頭を下げて、逃げるようにドアを開けて看板を出す。腕の筋肉が看板の重みに悲鳴を上げ。

　同じように重い真っ黒なドアは、開け閉めの度に蝶番をギギギ、と鳴らす。この蝶番が軋む音こそが、このバーの歴史の生き証人。

　ドアを押し開けながら看板を所定の場所に移動して、コンセントを繋ぐ。たったそれだけで、雨に濡れる街並みを店の看板が柔らかく照らしていく。

　その灯は、暗闇の中で迷い疲れた魂だけが見つけられる灯台のように思えた。

　さあ、今日も開店だ。