第9話 尊厳の液状化と軟体中年の悲鳴

「ぐにゃあああああああっ!! き、気持ち悪いぃぃぃぃッ!」


 俺の口から迸ったのは、かつて魔界全土を震撼させた四天王の詠唱ではない。

 断じて、違う。

 これは、ただの情けない中年の、魂からの悲鳴だ。


 スキル『生態模倣(バイオミミクリ)』の発動と同時に、俺の肉体を構築していた物理法則が崩壊した。


 メリメリ、ゴキッ、バキバキバキッ!!


 身体の内側から、何かが一斉に砕け散る冒涜的な音が鳴り響く。


 大腿骨が、骨盤が、背骨が、肋骨が。硬度を持っていた二百余りの骨という骨が、瞬時にして熱を持ったゲル状の流体へと還元されていく。


(ぬるっ! ぐちょっ! あ、ああっ! 胃袋が右肺の下に滑り込んだ感覚がする! なんだこれ、最悪だ!)


 俺はたまらず、その場に崩れ落ちた。

 いや、崩れ落ちたという表現すら生温い。


 骨という支えを失った俺の身体は、重力に完全敗北し、作業着の中で「べちゃっ」と地面に広がったのだ。


「ひぃっ!? せ、先生!?」

「うわっ、なんだよあれ……! 腰を抜かしたのか!?」


 周囲の生徒たちがドン引きしている気配が伝わってくる。


 さらに最悪なことに、骨格の液状化に伴い、余剰となった体積が毛穴から染み出し始めた。

 透明で、少し青みがかった高粘度の粘液だ。

 それがズボンの股間付近から、じわりと地面のアスファルトに染みを作っていく。


「うわ……見ろよ、あれ」

「漏らしてる……。あのオジサン、恐怖で完全に漏らしてるよ……」

「汚っ! 最低!」


(ちがうッ! これは排泄物じゃない! 高純度の魔力緩衝液だ馬鹿者どもめッ!)


 俺は内心で血の涙を流して絶叫した。

 羞恥心で顔(だった部分)がカッと熱くなる。

 こんな姿、魔王軍時代の部下に見られたら……いや、ヴォルカにだけは絶対に見られたくない!


(頼むからヴォルカだけは来るなよ……! あいつにこの姿を見られたら、俺は舌を噛んで死ぬ! マジで!)


「役立たずめが! 土壇場で腰を抜かすとは!」


 後方から、教頭の金切り声が突き刺さる。

 瓦礫の陰から、レオナルドの冷ややかな声も聞こえた。


「『究極の模倣』などと大口を叩いておきながら、結果がこれか。恐怖で失禁し、地面に平伏す。……それが貴様の答えか、ゼクス」


(違うと言っているだろうがクソガキッ! これは高度な戦術的変形だ!)


 俺は反論しようと首を持ち上げようとしたが、首の骨がないため、頭部がでろりと肩口まで転がり落ちただけだった。

 その動きがまた、この世のモノとは思えない生理的嫌悪感を誘発する。


「キャアアアア! 首が! 首が折れてる!?」


 生徒たちの悲鳴がさらに一段階ギアを上げる中、目の前の巨大な怪物――『捕食粘性体』が、極太の触手を天高く振り上げた。


「危ない! 逃げろ!」

「無理だよ、腰抜けてるもん!」


 誰かの叫び声が響く。

 俺が作業着の中で一人ローション相撲を開催している間に、死の触手は容赦なく振り下ろされた。


 風を切り裂く音。数トンの質量を持った紅蓮の触手が、俺の脳天めがけて落下してくる。


(……チッ。ままよ!)


 俺は覚悟を決めた。プライドを捨てろ。人間の「形」への執着すらも捨て去れ!


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